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重ねられた唇。それはすぐに離れていった。
海馬君は私の姿を一瞥すると、そのまま身を屈めて顎にも唇を落とす。一度だけではなく、何度も角度を変えて、音を立ててゆっくりと。

それを終えると海馬君の顔が少し下がっていき、今度は首筋を彼の唇が這う。吸ったりなぞったりを繰り返しながら、時間をかけるようにして唇を落としていった。それが鎖骨より下まで達したとき、私はようやく声を上げることができた。


「…っ、海馬君…?」
「奴らの感触などオレが消してくれる」

低く、呟くような声。
前ボタンの空いた部屋着の隙間から、するりと手が忍ばせられた。つ、と脇腹を指先でなぞる感覚に思わず熱がこみ上げる。

「ぁ…!待っ…」
「黙っていろ。やめるつもりはない」
「…っ」

下着姿を見られているという羞恥心と、身体のあらゆる箇所に触れられているという事実がどうしようもなく身体を熱くする。恥ずかしくて仕方がなくて、奥歯を強く噛んでそれに耐えるけれど、海馬君は止めるつもりは毛頭ないようだった。

ちゅ、という湿っぽい音が再び耳に届く。
徐々に自身の息が荒くなっていくのを止められずにいたけど、それは海馬君も同じようだった。時折吐く息はどこか熱く、余裕がだんだんと無くなっていっているのが感じられる。


「ユリ。…今回、オレはお前を危険に晒してしまった」
「…それは、私がいけなかったんだよ…私がバカだったから」
「確かにお前は恐ろしく素直で純粋だ。…だが同じ事は二度と繰り返さない」

海馬君の瞳が私の瞳を覗き込む。
熱っぽいような、切なさが混じったような視線に、目を逸らせない。

「お前は覚えていないだろうが…施設で初めて話したあの時から、オレはー」
「…」

あの時、と聞いて、脳裏に浮かんだものがあった。海馬君と再会したその日に夢で見た、あの光景だ。もしかしてずっと、覚えていてくれたのだろうか。彼が落としたチェスの駒を差し出して、初めて言葉を交わしたあの瞬間をー。


『はい!これ』
『…あ、ありがとう…。ええと』
『私?ユリだよ』
『…ユリ…』


「ーこの先何があっても、オレがお前を守り抜く。だから安心して、オレの前ではお前のままでいろ」
「え…」
「…オレに人生を預ける覚悟をしろと言っているのだ」
「…!」

お金で買われたからじゃなくて、彼の所有物になったからじゃなくて。今ここで自分自身の意思で彼に人生を託せと、そう言われているのだとわかった。

自信と尊厳に満ち溢れている海馬瀬人という人物。メディアを通して見かけてきた彼はいつもそうだった。間違いなく彼を知る人達全員が、「彼は完璧だ」と答えるに違いなかった。


ーそれが、今目の前にいる彼はどうだろう。
私の手首を抑えつける手は微かに震え、見下ろす瞳は僅かに揺れている。高慢ともいえる態度の裏側に、こんな感情が隠されていたなんて。

「…わたし、は」
「…」
「…どこにも行かないよ。だから」

ふわりと、空いている方の腕を彼の首に回して緩く引き寄せる。微かに息を呑む気配が耳元で感じられた。


最初は、なんて理不尽なんだろうと思った。
可能なら逃げ出したいとも思った。
けど海馬君が見せた優しさや私を想ってくれる気持ちに、気づかないうちに少しずつ、心を許すようになっていった。

「海馬君のそばに、いさせてください」

少しの間の後。
拘束されていた手が解かれて、海馬君の腕にきつく抱き締められた。まるで縋り付くような抱擁だった。

「分かっているな。…一生、逃がさんぞ」
「…うん。よろしく願いします」

そして至近距離で目が合い、しばらく視線が交わったあと、どちらからともなく私達は唇を重ね合った。


ー海馬君。
私の人生を、貴方に捧げます。

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