純白に一滴の黒を垂らして
のそり、のそり、と、重い体を必死に動かし、着替えの入った鞄から身軽な服に着替えると、鈴は少し考えた後、恐る恐る鏡を覗きこんだ。
コンパクトな折り畳みの鏡を覗き込めば、そこには目の下にうっすらとクマが浮かんでいて、それを見た瞬間、鈴の口元はピクピクと引き攣り、頭を抱えた。
どんなに忙しくても鈴はきっちりと十分な睡眠時間をとり、顔色が悪くならないよう必死に務めていた。
それは至極単純な話しで、鈴が以前働いていた職場では、相手を怖がらせないよう顔色を良くする為だったからだ。
以前の仕事では、どんなに忙しくても睡眠時間はきっちりと、とっていたからか目の下にクマを作る事は無かったのに、此処に来て数日でクマを作ってしまった。
疲れも取れず、十分な睡眠時間がとれていないのは自分でも分かっていたが、こんな早く見た目に現れるなんて思ってもみなかった。
はぁ、と、重い溜め息を吐くと、彼女はパタン、と鏡を閉じ、目の下をゆっくりとマッサージを始めた。
すると、こちらに向かって近付いて来る二つの神気に咄嗟に障子戸の方へ視線を向けた。
その神気は部屋の前で止まると数拍置いた後、障子戸はゆっくりと開かれ、開かれた障子戸から姿を現したのは、脇差兄弟の鯰尾と骨喰の二振りだった。
ゆっくり、そろり、と部屋の中の様子を窺った二振りは、鈴の姿を捕えると、にっ、と笑みを浮かべた。
だが、それも一瞬だった。
笑みを浮かべ数秒の間があり、次にはピシリ、と表情が固まり、その動きまでもが止まってしまったのだ。
その表情は引き攣り、口元はピクピクと動き、鈴はその二振りを見てデジャヴを感じたのは仕方がない事だろう。
二振りは気付いたのだ。
鈴の部屋に咽返る程の三日月の神気が漂っている事に。
そして、鈴自身からも強く感じる、三日月の神気に。
今は自分達二振りだけが、鈴の部屋に来て気付いたが、鈴を連れて広間へ行くとどうなるか。
そんな事、分かりきった事だった。
当然、その広間にいた皆に気付かれる事だろう。
なんせ、その広間にいる刀剣男士は、鈴の霊力を注がれ、手入れされた者ばかりだからだ。
自分の中に感じ、流れている鈴の霊力は良く知っている。
それだけに鈴から感じる三日月の神気には、異物同様の違和感があり、それが何を意味するのかは明白な事だった。
当然、鯰尾も骨喰も鈴から感じる三日月の神気の意味に気付いていた。
ここまで強く感じるのは、鈴と三日月にナニかあったと云う事で、手に取るように分かった。
表情は固まり、動かない二振りを見て、この空気に耐え切れなくなった鈴は、彼らから視線を逸らした。
二振りは1から10まで鈴に問い質したいのを寸でのところで、グッ、と堪え、行き場のない感情を逃がすようにシンクロして息を吐いた。
鈴は気まずいのか、二振りから視線を逸らしたままだったが、彼らはそんな鈴の側まで行くと、鈴の腕を掴み、引きずるようにして広間へと向かった。
「な、っ、鯰尾様……!!!!」
「手を離してくれ、って言うつもりですよね?」
「そ、そうですけど…、っと、」
「手を離したら逃げるだろう」
「うぐっ……、」
「はいはーい、いきますよー」
鯰尾と鈴では足の長さが違うからか、鯰尾の歩く歩幅と鈴の歩幅が合っていないのにも関わらず、鯰尾は気にも留めず歩くものだから、鈴は何回も躓きそうになりながらも必死に足を動かし、鯰尾に付いて歩いたが、やっとの思いで口に出来た言葉は、鯰尾と骨喰の二振りにあっさりと読まれ、当たり前のように却下された。
逃げたい。
何処に逃げるのかなんて決まってないけど、逃げたかった。
でも、運良く逃げたとしても機動力の問題で直ぐに捕まるだろう。
瞬殺で捕まるに決まってる。
彼らにしてみれば、赤子に蹴られたようなものだろう。
何のダメージもなく、ただの戯れとしかならない。
逃げるのは諦めたが、やはり、広間には行きたくはない。
でも、段々と目的地である広間に近付いている事実に鈴の精神は荒波のようになってしまった。
段々と広間へ近付いて行く。
見知った神気を幾つも感じ、談笑している声も大きくなってきた。
だが、それは、鈴が広間へ着いたと同時に水を打ったかのようにピタリと止んだ。
しーん、と静まり返った広間に鈴には冷や汗が流れ、鈴のこの場に連れて来た鯰尾と骨喰は分かりきったこの反応に溜め息を吐いた。
条件反射からか、鈴は咄嗟に踵を返し、この場から逃げ出そうとしたが、そこはやはり機動の早い鯰尾と骨喰の二振り。
一度離していた手で再び鈴の手首を捕まえると逃がすまいとした。
この世の終わりみたいな表情を浮かべている鈴とは違い、しれっとした表情のまま、二振りは広間の中をさり気無く見渡すと、それぞれが何とも言えない表情を浮かべていて、他人事のように荒れそうだなぁ、などと思っていた。
自分達の弟達は目を丸くして驚いており、今にも鈴か、自分達に聞き出すのではないかと感じる程だった。
それに対して兄である一期一振は、頭を抱え込んで何やらぶつぶつと吐きだし、その姿は現実逃避のようにも見えた。
左文字の三振りは、昨日会ったのにも関わらず、余程鈴に好意を寄せているのか、その表情は歪んでいて、江雪はいつ物理での和睦を繰り出してもおかしくないし、小夜も宗三に物騒な言葉を吐いていて、その言葉に宗三は笑みを浮かべ頷いていた。
その左文字の様子を見てしまった鯰尾と骨喰は背筋にぶるり、と悪寒が走り、瞬時に左文字から視線を外し、左文字の事は頭の中から瞬時に消去した。
そのままの流れで伊達の刀に視線を移したが、ここも見てはいけなかったのかもしれない。
大倶利伽羅は今にも三日月に殴りかかってもおかしくない程で、大倶利伽羅程でないにしろ、あの温厚な燭台切や鶴丸ですら怒り狂っており、まさにその表情は般若のようだった。
そんな様子の伊達の刀達からすぅ、と流れるように視線を外した二振りはこの状況を作り出した原因の一振りの方へと視線を移した。
その一振りの隣にいた、同じ三条の刀である小狐丸は、その大きな体を目一杯小さくし、ぶるぶるとその体は震えており、その姿は見ているこっちが可哀想になる程だった。
同じ刀派の刀剣がやらかしてしまった故にとんだとばっちりだ。
さっきも言ったが、この広間に居る刀剣男士は、殆どが鈴から直接、手入れを受けた刀達だ。
鈴の霊力がどんなモノなのかは、自分の身を以て知っている。
そこに三日月の神気が異物のように存在しているのだから、気付かない訳がなかった。
分かりにくい例えかもしれないが、敢えて例えるとするなら、こんな感じだ。
真っ白の絵の具に真っ黒の絵の具を一滴垂らせば、目に見えて白一色でない事が分かる。
今の鈴は、言うなればそんな感じなのだ。
口にせずとも、三日月とナニかありました、と言ってるようなものだった。
多分、鈴からは三日月に接触していないだろう。
この本丸の刀剣男士達の事情を知っているが故に軽率に接触はしない筈だ。
もしそうだったのなら、鈴はこんなにも逃げ出そうとしていない。
だが、そこまで考えた鯰尾は、更に疑問に思った。
三日月は前任のせいで夜伽に関係するような行為に嫌悪感を持っていた。
一方的にしろ、通じ合ってるにしろ、性行為にこれまでにない程に嫌悪していた。
だが、二日目の朝と言い、今朝と言い、三日月はどうしたのだろうか。
一日目の夜にあった事は今思えば未遂だったのだろう。
だが、今朝感じたあの神気の量を考えると、昨夜の出来事は未遂ではない。
どう考えても、交わったとしか考えられないのだ。
「(……、でも、)」
三日月もそうだが、伊達の刀も、左文字の刀も全くの別刃のようになっている。
特に大倶利伽羅の変わり様は、何か頭を打ったのではないか、と錯覚してしまう程に別刃だ。
大倶利伽羅は元の性格から、人間に一線、身を引いている節がある。
時間をかけ、その人間を認めれば慕う事もあるが、そこまでになるまでには時間がかかる。
良く知らない鈴にあそこまで気に掛け、守ろうとしている。
更に言えば、昨日、鈴の部屋から戻って来てから、更に別刃のようになっていたのだ。
それまでも、やたら鈴の側にいるな、やら、ちょっと過保護過ぎないか?とは思っていたが、そこに更に拍車が掛かったようになっていた。
鈴の部屋で鈴と何を話したのか。
それで、彼に一体どんな変化があったのか。
それは、彼が自らの口で語らない限りは知る事が出来ないだろう。
と、ここまで考えて、鯰尾は息を吐き、あ、と、何かを思い出したように目を瞬かせ、頭を掻いた。
「(俺もそのうちの一振り、か……)」
大倶利伽羅や三日月程にないにしろ、自分や兄弟達も、それこそ”良くも知らない人間”に入れ込んでるではないか。
鈴が此処に来るまで、まともな扱いを受けず、闇に堕ちそうになっていた時に鈴に救われ、生き返った。
鈴に対して、母のように思っているのか。
それとも、鈴の霊力に惹かれているのか。
「(やっぱり、不思議な人間……、だなぁ、)」
はあ、と、息を吐き、この何とも言えない状況をどうしたら良いのか。
答えらしい答えが見つからない現状に逃げ出したい気持ちになり、首だけ後ろを振り返り、うっすらとした曇り空を見上げた。
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