祈りを唱にして
日中の大掛かりな掃除や三日月や小狐丸の事で気疲れがあったのか。
背後で床板が軋む音がするまで全く気配に気付かなかった鈴は、黒髪の少年に後ろ手に腕を捻り上げられ、片方の手で口を塞がれ前に押されるように歩かされたまま連れて行かれたのは、此処に来てまだ入った事のない一室。
金髪の少年が障子戸を開けると、黒髪の少年に部屋の中に押し込まれ、その拍子に躓き畳の上に転んでしまい、咄嗟に呻き声が漏れてしまった。
転んだ拍子に腕を畳で擦ってしまったらしく、じわり、と熱が広がり、ヒリヒリとした痛みが襲って来た。
この時になって鈴は、初めて此処の本丸に来てから、身の危険を感じ体が一気に冷え切っていくのを感じた。
こうゆう事が起こる事なんて最初から分かりきっていた筈なのに、これまで出逢った付喪神達はここまで攻撃的な行動は起こさなかったから、鈴は完全に油断していた。
畳に横たわったまま、鈴は自分の周りへと意識を向ける事に集中した。
その間にも障子戸は閉まり、自分を見下ろす視線には勿論気付いてはいたが、此処で取り乱しては自分にとっても、きっと相手にとっても何の意味を持たない事を何となく感じ取ったからだ。
感じ取れた気配は多い。
その気配・・・、神気は一つの所に集まっているように感じ、その神気は酷く淀んでおり、弱々しい神気だった。
それでも自分に向ける殺気は凄まじいもので、そちらの方を直接見る事が出来ないようなモノだ。
そして次に鼻で感じ取れたモノは、血生臭い臭いだった。
血の臭いだけではなく、埃の臭いも交じって何とも言えない臭いに変わっていて、思わず鼻で呼吸するのを止めてしまったぐらいだ。
すると、畳がぎし、ぎし、と音を立て、目の前に足が見えた。
ヒリヒリと痛む腕を使い体を起こし見上げると、そこには黒髪の少年、薬研と金髪の少年、乱の姿があった。
先程は咄嗟の事でその姿を見る暇もなかったが、その姿は傷だらけで、服もボロボロ。
乱のキラキラと輝く長い金髪の髪は長さがバラバラでその髪には艶がなく、本当に乱か、と疑ってしまうぐらいだった。
その乱の表情は苦痛に歪み、歯は食いしばっており、薬研は痛々しくも縋るような表情をしていた。
「わ、たしを…、どうしたいのですか・・・?」
「あんたは、手入れ師…、なんだよな」
「…、はい、この本丸に配属された手入れ師で御座います、薬研藤四郎様」
体を起こし、自分を見下ろす薬研に頭を垂れそう言うと、薬研の目は大きく見開かれた。
この現世に顕現され、もう随分と経つが、このように名を呼ばれた事はなかったから、驚かざるを得なかったのだ。
人の子は弱い生き物だ。
首を締めれば呼吸が出来ず窒息するし、その体を己で引き裂けば失血死する、直ぐに病にもかかり、それでも死んでしまう。
それが人の子だ。
当然今のこの状況は怖いモノ以外の何物でもないだろう。
それなのに気丈に振る舞って、自分を敬うような物言いに薬研は感心すると同時に驚いたのだ。
でも、だからと言って信じる訳にはいかなかった。
今はこうでも前任のように人が変わる可能性があるから。
薬研は表情を引き締め、唇を噛み締めた。
一方の鈴は先程、薬研と乱に頭を垂れる直前、視線の先に一つの場所に固まって身を寄せている刀剣男士の姿を見付けていた。
何かを守るように身を寄せ合い、自分に向けて警戒心を露わにし、敵意を剥きだしにしていたその姿を確かに鈴は確認していたのだ。
だから、きっと薬研と乱が取ったこの行動は彼らの事を意味していて、きっと彼らの為にした行動なのだと、鈴はその考えに至った。
だから取り乱す事もせず、冷静にいられるように必死に務めた。
それのお蔭なのか。
対面した時に比べて薬研と乱の雰囲気は幾分か落ち着いたかのように感じる事は出来たが、問題は一か所に集まっている刀剣男士達。
「頭を上げてくれ」
「ですが、…」
「いつまでも頭を下げられてちゃあ、話す事も出来やしねぇ」
その薬研の言葉に鈴はゆっくりと頭を上げ、その目を彼へと向けた。
その目は不安、恐怖…、そんな感情を見て取れたが、その目は決して薬研から逸らす事はしなかった。
その目を薬研はじっと見つめ返した。
暫くその目を見つめていた薬研は、ふと、妙な感情が胸を締めた。
だが、それは直ぐに消え去ってしまい、薬研に違和感を残した。
「…あんたに、」
「はい、」
「兄弟を治して欲しい…、」
その違和感を薬研は抑え込み、鈴にそう告げた。
その表情は縋るような顔で、乱は小さな嗚咽を零しながら俯き、そんな二振りを見て鈴は息を呑んだ。
兄弟を治して欲しくて、彼らは自分に接触してきた。
自分に接触してきた、比較的動ける薬研と乱だが、きっと怖かった筈だ。
彼らは人間に酷使された立場だ。
人間は恐怖の対象でしかない筈なのにそれを抑え込み、兄弟を治して欲しくて、こうして自分に接触してきた。
それがどれ程の勇気がいったのか…、鈴には想像もつかない事だけは、彼女にも理解出来た。
そして、薬研の言った“兄弟”の方に改めて視線を移し、一番手前にいた銀髪の刀剣男士と目が合った。
するとその刀剣男士はひっ、と息を呑み、本体を胸の前に構え、その手は震えながらも鈴を見据えていた。
本来、この刀剣男士は内向的で、攻撃的ではなく、こんな事をするような刀剣男士ではない。
だが、今この状況は、彼をここまでにさせてしまった事に、鈴の胸は痛んだ。
その事に意識が向いていたからか…、薬研の言葉に鈴は無言の状態になっていた。
そんな鈴に不思議に思った薬研は、鈴の視線の先に目をやると、そこには五虎退の姿があり、その五虎退は体の怪我がなければ今にも鈴に飛び掛かってしまいそうな勢いだった。
そんな五虎退を見て、薬研は焦った。
治してもらう為にこうして鈴を連れて来たのにここで飛び掛かってしまったら、全てが無駄になる。
もしかすると呪いをかけられ、動きを封じられ、最悪破壊されてしまうかもしれない、そうなっては何もかもが駄目になってしまう。
薬研は五虎退を落ち着かせようと片足に力を込め、一歩踏み出そうとした時。
ぐっ、と自分の短パンを引っ張られ、驚いた薬研は自分の短パンから伸びている腕を辿ると、それは鈴のモノだった。
まさか鈴だとは思っていなかった薬研はぎょっとして目を見開いたが、鈴は薬研の目をじっと見つめ、首を横に振った。
そして薬研の短パンから手を離すと、ゆっくりと立ち上がり、ゆっくりとした動作で五虎退達の側に行き、視線を逸らさないまま、その場に座った。
間近で五虎退達を見た鈴の感じた事は“酷い”だった。
薬研も乱も傷だらけだったのはそうなのだが、この二振りは比較的マシな方だった。
だが、五虎退達は違う。
五虎退は髪で隠れている方が血で濡れており、ピンクの髪の少年…、秋田は腕が変な方向に曲がっており、おかっぱの少年、前田は片方の腕が無かった。
そして、短刀達が守っているように中心に囲っていた青年の姿をしている付喪神。
白群色の髪に金の瞳を持つその青年姿の付喪神は、一期一振…、短刀達、粟田口の兄刀であり、現在顕現が確認されている唯一の太刀だ。
短刀の皆も勿論、酷い傷、怪我を負っているが、一期一振の状態も酷いものだった。
酷いで片付けていいモノではない事ぐらい分かってはいる。
分かってはいるが、酷い、としか言いようがなかった。
体に欠損はない。
四肢はちゃんとあるし、目も両目ある。
だが、目は虚ろでその視線は何処を見ているか分からないし、その煌びやかな軍服は汚れて切り裂かれており、体に力は入っていないのか足と腕は投げ出されていた。
正直言って、闇堕ち寸前だったのだ。
そんな兄を守るべく、短刀達は兄に寄り添い、闇堕ちを防ぐべく少しずつ自分の神気を兄に流していた。
兄を闇堕ちさせないよう、毎日毎日、少しずつ自分たちの神気を流していたのだ。
鈴は遣る瀬無さから唇をぎゅ、と一つに結び、俯いた。
人間の欲深さが付喪神をここまでにさせてしまった。
「ご、めんな…、さい、っ」
鈴の口から出た言葉は“ごめんなさい”だった。
この言葉一つで許して貰えるとは微塵にも思っていないし、その罪が消えるとも思っていない。
だが、言わなければならないと思ったのだ。
鈴の言葉に薬研と乱、五虎退達の目は見開かれた。
鈴がここまでした訳じゃない。
むしろ、鈴は自分たちに何もしていなく、こんな状態になった本丸に政府に言われて来ただけだ。
それなのに鈴は前任の罪を背負おうとしていた、鈴は何もしていないのに、だ。
俯き肩を震わせながら、消えそうな声で何度も謝罪を繰り返す鈴に薬研達は何も言えずにいたが、ふと、誰かの神気が震えるのを感じた。
それは何か、意識をそれに向けると、その神気は一期のモノだった。
どれぐらいぶりだろうか…、一期がこんな風であれ、感情を出したのは。
弟達が傷を負い、中傷になっても、腕が片方無くなっても出陣されそうになった時、一期は前任に申し立てをした。
“弟の代わりに自分を出陣させてくれ”と、震える拳を握りしめて前任にそう言うと前任はこの世の思えない顔をし、真っ赤に染め上げたまま一期にこう言ったのだ。
“好きにしろ、ただし傷を負っても手入れは一切しない”その言葉を突き付けられた一期だったが、弟の為…、恐怖に襲われながらもその言葉を受け入れ、それこそ本当に休む暇もないぐらい出陣を繰り返した。
こうなると結果は見え切っていた。
一期は心を蝕まれ、次第に廃人のようになっていったのだ。
弟達は当然、後悔した。
自分たちのせいで大好きな兄はこうなってしまった。
だからこれ以上兄が壊れないよう、堕ちないよう、まるで許して欲しいかのように毎日神気を送っていたのだ。
「治してくれ…、いち兄をっ、治してくれ…!!!」
鈴に向かって深く頭を下げ、声を張り上げそう言った薬研を皮切りに“お願いします”との声が幾つも聞こえ、それは鈴の耳に確かに届いた。
心の底からそう願う声に鈴はハッと顔を上げ、ポロポロと零れ落ちていた涙を袖口で拭うと、涙を流している短刀達を見渡し、安心させるかのように頷いた。
その言葉に薬研の目から大粒の涙が流れ落ち、乱は薬研の背中に顔を埋めて肩を震わせていた。
鈴は一度深い深呼吸をした。
自分の中で波打っている精神を落ち着かせる為に。
そしてゆっくりと目を閉じ、もう一度深呼吸をし、拍手を打つと祝詞を唱え始め、その祝詞に自らの霊力を乗せると薬研達の体は体の奥底、冷え切っていた場所がじんわりと熱を帯びて行くのを感じた。
その熱は祝詞が唱え終えても消える事はなく、自分を守ってくれているかのような感覚が残っていた。
鈴はゆっくりと立ち上がり、一期の前にしゃがみ込み、ゆっくりと一期へと目を合わせた。
一期のその目は先程みたいな虚ろな目ではなく、しっかりとその目に光が宿っていた。
一期の神気も淀みは消え去り、元の澄んだ温かな神気へと変わっていた。
それに安堵した鈴は、視線を今度は一期の周りにいた五虎退達へと向けた。
彼らの目も淀みも消え、神気も随分と綺麗になっていた。
ふう、と鈴は一度息を吐き、もう一度一期へと視線を向けた。
「一期一振様、初めてお目にかかります、先日この本丸に配属された手入れ師の者です」
「て、いれ・・・・、し、」
「はい、手入れ師です。私はこの本丸の傷を負った皆様を治す為に配属されました」
しっかりと一期の目を見ながら言葉を紡ぐと、一期は理解出来ているのか、言葉を繰り返し、頷いた。
意思疎通が出来ている事に鈴は、もう大丈夫、と心の底から安堵した。
「貴方達に危害を加える気は全くありません…、だから、貴方と弟の皆様を手入れさせて頂きたいのです」
「そ、れは…、わたしたちだけ、ですか……?」
「…いえ、違います。他の皆様もです。この本丸の皆様です」
その鈴の言葉に一期の目に薄く涙が浮かんだ。
その涙が一筋、頬を伝い、力なく持ち上げられた手は、そっと鈴の手を握り締めた。
その手は微かに震えていたが、握り締めた手はちゃんと力が込められており、温かさもあった。
「お、ねがい…、もうしあげ、る…」
その言葉に鈴は深く頷き、一期の手の甲を優しく撫でると、手入れへと取り掛かった。
腕のない前田の腕は元に戻り、秋田の腕も元に戻り。
五虎退の目も綺麗に元に戻り、銀髪の髪にこびり付いていた血も綺麗に消え去り、乱の髪は長さもちゃんと揃い、綺麗な金髪に戻った。
短刀の手入れが終わる頃には鈴の体は冷え切っていた。
だが、まだ太刀の一期が残っていた。
ここで終わらせる訳にはいかない。
倒れてでも一期を手入れしなければ。
その思いだけが、鈴を動かしていた。
目は霞み、手足は冷え、痺れに襲われたが、何とか一期の手入れが終わった瞬間だった。
ふわり、と体が浮く感覚に襲われ、平行感覚が無くなり、意識が遠のく瞬間、最後に見たのは、驚いた表情の薬研、乱、一期の姿だった。
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