home / 第二話「五歳の約束」/lyc/novel/1/?index=1
娘は毎日事務所に来た。
正確には毎日来ようとした。俺が止めたのが三回、シルフィが止めたのが二回、それでも来たのが四回。四回とも社長室の前まで行き、扉を叩き、「へんじ、ききにきました」と言った。
オルステッドは四回とも、何も言わなかった。
扉は開かなかった。だが鍵もかかっていなかった。俺はそれがあの人なりの困惑なのだと思っている。追い返しもしない。応えもしない。二百年を何度も繰り返してきた男が、五歳児への対処法だけは持っていなかった。
◇
一回目は前に書いたとおりだ。扉を叩いて、名乗って、返事を待って、何も返ってこなくて、帰った。
帰り道、ナマエは機嫌が悪くなかった。むしろ、良かった。
「オルステッドさま、いたよね」
「いたね」
「きこえてたよね」
「……たぶん」
「じゃあ、いい」
何がいいのか、俺には分からなかった。分からなかったが、娘の中では何かが成立しているらしかった。
二回目はその二日後だった。
この日ナマエは紙を持っていた。前の晩に居間の机で何かを描いていたのは知っていた。何を描いているのか聞いたら「ひみつ」と言われた。五歳児の秘密はたいてい翌日には秘密ではなくなる。
三階に上がって扉を叩いて、「へんじ、ききにきました」と言って、返事がなくて。
そこまでは一回目と同じだった。
違ったのは、その後だ。娘は扉の前の箱に持ってきた紙を入れた。書類を入れる箱である。職員が社長に渡す書類を置いていく箱だ。
「ナマエ。それは……」
「おてがみ」
娘はそれだけ言って、階段の方に歩いていった。俺は箱の中を覗いた。紙が一枚、書類の上に乗っていた。絵だった。銀色の髪と、金色の目。それからその隣に、小さい人。小さい人の腰には両手が当たっていた。
俺はそれを取り出そうかと思った。思ったが、やめた。娘が入れたものを父親が取り出す理由がなかった。
三回目はその翌日だった。
箱の中を見た。絵は、なくなっていた。
書類も、なくなっていた。書類と一緒に持っていかれたのだ。つまり、あの人はあの絵を見た。見て、どうしたのかは分からない。捨てたのかもしれない。捨てていないのかもしれない。
ナマエは箱を見て、それから扉を見た。
「オルステッドさま。おてがみ、みた?」
返事はなかった。
娘は頷いた。返事がないことを返事として受け取る癖が、この時期についた。俺はその癖を直した方がいいのか、直さない方がいいのか、今でも分からない。
この日娘は扉の前で、その日のことを報告した。朝ごはんに何を食べたか。庭で何を見たか。クリスと何で喧嘩したか。エリスの真似をしてリーリャに怒られたこと。全部、扉に向かって話した。
俺は廊下の端で、それを聞いていた。
二階から上がってきた職員が廊下の様子を見て、そっと降りていった。三階で五歳児が扉に向かって喋っている光景は、この事務所の誰も見たことがなかった。俺も見たことがなかった。
◇
四回目の前にオルステッドに呼ばれた。
娘が来ていない日だった。書類を届けに行くと扉が少しだけ開いていた。中から「入れ」と声がした。
オルステッドは椅子に座っていた。机の上にはいつもの書類と地図。それから、隅に紙が一枚。裏返しになっていた。何の紙かは見えなかった。
「……あれは」
オルステッドが言った。
「毎日、来るのか」
「……止めてはいるんですが」
「そうか」
沈黙。
俺は次の言葉を待った。「止めろ」と言われたら、止める。それで娘は泣くだろうが、あの人の指示なら仕方がない。俺はそう覚悟していた。
だが、オルステッドは「止めろ」とは言わなかった。
「……邪魔には、なっていない」
それだけだった。
俺は頭を下げて社長室を出た。
扉を閉めるとき、机の隅の紙が少しだけめくれているのが見えた。裏側に銀色の何かが描いてあった。
◇
四回目は報告だけをして帰った。娘はもう、扉が開かないことを知っていた。知っていて、来た。来て、話して、帰った。
この日の報告を俺は覚えている。
「オルステッドさま。きょう、ママに、かみをきってもらいました。まえがみだけ。みじかくなりました」
扉は、静かだった。
「それから、クリスとけんかしました。クリスが、ナマエのえを、へたっていいました。ナマエは、いいかえしました。クリスは、なきました。リーリャに、ナマエだけ、おこられました」
扉は、静かだった。
「ナマエは、わるくないとおもいます。でも、あやまりました」
俺は廊下の端で、それを聞いていた。
この子は喧嘩をすると、口で勝つ。相手が泣くまで言う。手は出ない。出ないが、口の方がときどき手より悪い。リーリャが叱ったのはそのせいだ。娘はそれを不満に思っていて、それでも謝った。謝ったことまで報告する。
「あした、また、きます」
娘はそう言って扉から離れた。
扉の向こうで何かが動いた音がした。椅子の音だった。それだけだった。
このころ噂は、もう事務所の外に出ていた。
仕方のないことだ。三階の廊下には職員が三人いた。受付にも一人。五歳の子供が、社長室に入って龍神に兜を取らせて、結婚すると言った。そんな話を家に帰って誰にも言わない人間はいない。職員は家で話し、家の者は酒場で話す。傭兵団の連中も面白がって話した。俺の耳にも三日で三つの違う形で入ってきた。
俺はそれを止めなかった。止められるとも思わなかった。ただの笑い話だと思っていた。
笑い話として聞いていない者が、いた。
五回目は、来なかった。
来られなかった。
◇
その日、事務所は襲われた。
詳細は省く。省くというより、思い出したくない。だが、書かないわけにもいかない。
昼過ぎだった。俺は二階で書類を整理していて、ナマエは一階の受付で、職員の膝の上に座って、何かを描いていた。四回目の翌日で、この日は五回目に来るつもりだった。俺は「今日は忙しいから」と言って三階に上がるのを後回しにしていた。
最初に気づいたのは、音だった。
音がなくなった。
事務所というのは静かな場所ではない。人が歩く音、紙をめくる音、扉の開く音。それが、一斉に消えた。窓の外の町の音まで消えた。
俺は書類を置いて階段に向かった。
一階に降りると受付の職員が床に座り込んでいた。顔が真っ白だった。膝の上にナマエはいなかった。
「ナマエは」
「……あの子、入口の方に……」
入口の扉が開いていた。
その向こうに人が立っていた。
人、だと思う。人の形をしていた。だが、俺の頭のどこかが人ではないと言っていた。剣も持っていない。杖も持っていない。ただ、立っていた。
その手前にナマエがいた。
立っていた。逃げていなかった。逃げなかったのではなく、逃げられなかったのだと後で分かった。あの相手は目を合わせた者を動けなくする。俺の子供たちに効かないのは、オルステッドの呪いだけだ。それ以外は、効く。
「ナマエ!」
俺は走った。魔導鎧は二階の奥の部屋にある。取りに行く時間はなかった。俺は無詠唱で岩砲弾を撃った。相手はそれを避けなかった。当たった。当たって、何も起きなかった。岩が砕けて、相手はそこに立っていた。
俺は娘を抱えて廊下の壁に背をつけた。
相手はゆっくりと近づいてきた。急ぐ必要がないと分かっている歩き方だった。
龍狩りだった。後で、そう聞いた。龍族の遺産を狙う魔術師の一派で、何周も前からオルステッドを狙っているのだという。俺は名前も知らなかった。オルステッドは知っていた。聞く暇は、なかった。
人神ではない。人神はもう使徒をよこさない。それはあの人が言っていた。だから俺は、この事務所を襲うものがあるとしたら、それは人神だと思い込んでいた。違った。世界にはあの人を狙う者が、人神のほかにもいる。
狙いは、俺ではなかった。
あの目は俺を見ていなかった。俺の腕の中を見ていた。
ナマエだった。
あとで考えれば理屈は分かる。龍狩りはあの人を殺せない。殺せないから弱らせる。魔力を使わせる。使わせるには、あの人が魔力を使ってでも守るものが要る。あの人にはそういうものが、なかった。何周も、なかった。
今は、ある。娘だ。呪いの効かない子供が社長室でコートの裾を引っ張った。それをどこかで見ていた者がいた。
俺は岩砲弾をもう一発撃った。同じだった。水も撃った。同じだった。俺の魔術はこの相手に効かない。魔導鎧があれば話は違ったかもしれない。なかった。
娘は俺の胸に顔を押しつけていた。震えていた。それでも、目だけは横から出して相手を見ていた。
三階の、社長室の扉が開いた。
音で分かった。この事務所であの扉の音を聞き間違える者はいない。
階段を降りてくる足音は、なかった。
次の瞬間、オルステッドは俺と龍狩りの兵の間に立っていた。
そこから先は覚えているようで、覚えていない。
光と音と、廊下の壁が消えたことと、天井が消えたことと、娘が俺の胸に顔を押しつけて、それでも目だけは横から出して見ていたこと。それから、オルステッドが一度も声を出さなかったこと。それだけだ。
終わったとき事務所は半分なくなっていた。
兵は、いなかった。どこに行ったのか、分からない。消えたのか、逃げたのか、倒されたのか。後で聞いたらオルステッドは「倒した」と言った。それ以上は言わなかった。
オルステッドは瓦礫の上に立っていた。兜は割れて、どこかに転がっていた。銀色の髪が汚れていた。コートの片側がなくなっていた。
それから、片膝をついた。
俺は初めてあの人が膝をつくのを見た。
◇
ナマエが俺の腕から降りた。
止める間もなかった。娘は瓦礫の上を、転びそうになりながら歩いていって、片膝をついたオルステッドの前に立った。
オルステッドは顔を上げなかった。
娘はその顔を覗き込んだ。
「オルステッドさま。けが、してる?」
「……いや」
声が、掠れていた。
「じゃあ、なんで、すわってるの」
オルステッドは答えなかった。
娘は俺の方を振り返った。
「おとうさん。なおして」
俺は治癒魔術をかけた。上級の治癒だ。傷があればこれで塞がる。オルステッドの体に光が走った。
何も、変わらなかった。
オルステッドはゆっくりと立ち上がった。立ち上がるのに時間がかかった。
「……無駄だ。傷ではない」
それだけ言って、階段の残骸を上がっていった。三階はまだ残っていた。社長室の扉も残っていた。その扉が、閉まった。
ナマエは扉の方を見上げていた。
「傷じゃないって、なに?」
俺は答えられなかった。
答えは知っていた。知っていたが、五歳児に言う言葉を持っていなかった。
◇
翌日から事務所の片づけが始まった。
職員は、誰も辞めなかった。
俺はそれを少し意外に思った。事務所が半分消えて、社長が膝をついた。呪いで怖い上司がさらに怖い何かと戦って、建物ごと壊した。辞める理由ならいくらでもある。
受付の職員が瓦礫を運びながら言った。
「ルーデウスさん。あの子、無事ですか」
「無事だよ。家にいる」
「よかった」
職員はそれだけ言って、また瓦礫を運んだ。
少ししてからまた言った。
「あの子、また来ますか」
「……来ると思う。止めても来る」
「そうですか」
職員は少し笑った。
「三階であの子が扉に向かって喋ってるの、みんな聞いてたんです。二階から。聞こえるんですよ、あの廊下は。……社長が何も言わないのも、聞こえてました」
俺は瓦礫を持ったまま、立ち止まった。
「怖くなくなったわけじゃないです。今でも三階に上がるのは怖い。でも、あの子が扉の前に立ってるのを見てから、なんていうか……」
職員は言葉を探していた。
「今まではあの扉の向こうに怖いものがある、としか思ってなかったんです。社長が何をしてる人なのかも考えたことがなかった。でも、あの子が毎日扉に向かって話しかけてるのを聞いてたら……扉の向こうにそれを聞いてる人がいるんだなって。怖いものじゃなくて、人がいるんだなって。そう思うようになりました」
俺は何も言えなかった。
瓦礫を運んで、戻ってきて、また運んだ。
◇
三日後。
オルステッドは俺だけを呼んだ。
仮の社長室は事務所の残った半分に作った小さな部屋だった。元は書庫だった部屋で、本棚を壁際に寄せて机をひとつ置いただけだ。オルステッドは椅子に座っていた。兜は新しいものになっていた。コートも新しかった。声はいつもと同じだった。だが、いつもより少しだけ、ゆっくりだった。
「使いすぎた」
それだけで意味は分かった。
説明しておくとオルステッドには、もうひとつ呪いがある。魔力が、ほとんど回復しない。二百年かけても使った分が戻りきらない。だからあの人は無駄な戦いをしない。無駄な魔術を使わない。口数が少ないのもたぶんそのせいだ。喋るのに魔力は要らないが、癖になっているのだろう。
その人が、使いすぎた。
三日前の戦いであの人は一度も声を出さなかった。詠唱がなかったのではない。詠唱する余裕がなかったのだ。相手がそれだけの相手だった。
「龍狩りだ」
オルステッドは先にそう言った。
「龍族の遺産を狙う者どもだ。何周も前からいる。周期ごとに顔が変わる。目的は変わらん。俺を殺せんから弱らせる。魔力を使わせる。使わせる方法をあいつらは、ずっと探していた」
「……娘」
「そうだ」
「ですが、あの日から、まだ十日も」
「兵は、十年前からあった」
オルステッドはそれを、当たり前のことのように言った。
「作るのに十年かかる。作ってからは使う場所を待つ。あいつらは何周も前から、俺の周りを見ている。職員の中には、いない。だが、職員は家で話す。家の者は酒場で話す。五歳の子供が龍神に兜を取らせた。そういう話は三日で町を回る。あいつらの耳に入るまで五日もかからん」
俺は噂のことを思い出した。三日で三つの形で聞いた。笑い話だと思った。
「居場所は、もともと知られていたんですか」
「隠していない」
オルステッドは言った。
「この事務所は町の誰でも知っている。龍神の事務所だと。お前の名前も、傭兵団の名前も、隠していない。隠す必要がなかった。来れば潰せた。何周も、そうしてきた。あいつらもそれを知っている。だから、来なかった」
「……来なかった」
「居場所を知っていても、勝てん相手のところには来ん。来る理由がなかった。俺に魔力を使わせる方法がなかったからだ。……今回、初めて、あった」
言われて、分かった。
俺はあの人が事務所を構えたときから、場所を隠さないことを不思議に思っていた。呪いのせいで隠さなくても誰も近寄らない。それだけだと思っていた。違った。隠す必要がなかったのだ。来る者は潰せた。来る者がいなかった。
娘が、来る理由を作った。
「……俺が連れてきたからです」
「そうだ」
オルステッドは否定しなかった。
「だが、お前が連れてこなくても、あいつらはいずれ何かを見つけた。俺が守るものを。それがあの娘だっただけだ。……俺が魔力を使わなければ、あの娘は死んでいた。俺は、使った。それだけだ」
俺は何も言えなかった。
「人神と対峙するまでに戻らん」
「……どのくらい足りませんか」
「今の状態で動けば勝てん。動かなくても勝てん」
オルステッドはしばらく黙っていた。
俺も黙っていた。この人が「勝てん」と言うのを俺は初めて聞いた。負けるかもしれない、ではない。勝てない、だ。あの人はそういう見積もりを外さない。
「眠る」
「……はい?」
「眠っている間は消耗が止まる。回復は遅いが、ゼロではない。七年で多少はましになるだろう」
七年。
俺は四十を超える。ルーシーは嫁いでいるかもしれない。ジークは成人している。ララはたぶん相変わらずだろう。
そして、ナマエは十二になる。
「その間、龍狩りは」
「動く。だが、あれを作るには年月がいる。あいつらは一体作るのに十年はかける。今日、一体潰した。次が来るまで七年は持つ」
「……人神は」
「あいつは俺が眠ろうが起きようが、変わらん。使徒はもうよこさん。次の周期を待つだけだ」
「……七年、何もしないんですか」
「お前がいる」
オルステッドは俺を見た。兜の奥の目は見えない。だが、見られているのは分かった。
「傭兵団を回せ。記録を続けろ。龍狩りの噂は全部書き留めろ。判断はするな。書き留めるだけでいい。俺が起きたら読む」
「はい」
「七星には俺から伝える。お前はあいつに聞かれたら答えろ。聞かれなければ言うな」
「はい」
俺は頷いた。理解はした。納得はしていない。だが、ほかに手がないことも分かっていた。
「ルーデウス」
「はい」
「あの娘を、守れ」
あの娘、と言った。
ナマエ、とは言わなかった。名前を呼ぶと何かが変わってしまうとでも思っているような言い方だった。
「……はい」
俺はそう答えるしかなかった。
「三日前狙われたのは、あの娘だ。理由はお前も分かっているな」
「……はい」
「俺が眠ればあいつらは、あの娘を狙う理由を失う。俺に魔力を使わせるための娘だ。俺が動かなければ使わせようがない。だが、忘れはしない。七年後、俺が起きたとき、あの娘がまだ俺の近くにいるなら、あいつらはまた襲いに来る」
俺は何も言えなかった。
「それでも、あの娘を俺から遠ざけるな」
オルステッドはそう言った。
「……え」
「狙われるから、もう事務所には近づくな。俺のそばに寄るな。……そういうことをあの娘に言うな。俺が言うことではない。お前が言うことでもない。あの娘が自分で決めることだ」
俺はこの人の言葉を、何度も頭の中で繰り返した。
繰り返しても意味は変わらなかった。
◇
家に帰って家族に話した。
全員を集めて順番に話した。事務所が襲われたことはもう知っている。誰が狙われたのかも、シルフィとロキシーには話してあった。エリスには話していなかった。話したら、エリスは立ち上がって剣を取りに行こうとした。ロキシーが止めた。
オルステッドが眠ることを話すと全員が黙った。
「七年」
ロキシーが言った。
「長いですね」
「長い」
「その間、その龍狩りという人たちは動くんですよね」
「動く。でも、次の兵を作るには十年かかるとあの人は言っていた」
「あの人が言うならそうなんでしょう」
ロキシーはそれ以上は言わなかった。この人はオルステッドの判断を疑わない。俺と同じだ。疑わないというより、疑う材料を持っていない。あの人の判断は何周分もの経験の上にある。俺たちが持っていない情報をあの人は持っている。間違えないわけではない。何度も間違えてきたから、何度もやり直している。ただ、間違えていても、俺たちには分からない。だから、従う。
「アタシがあの子についてる」
エリスが言った。
「七年。ずっと。学校も、道場も、どこに行くのも。アタシがついてれば、龍狩りだろうが何だろうが」
「エリス。三日前の相手には俺の魔術が効かなかった。魔導鎧がなかったとはいえ」
「だから何よ。あんたの魔術が効かなくても、アタシの剣は効くかもしれないでしょ」
それは、そうかもしれなかった。エリスの剣は俺の魔術とは別のものだ。だが、あの相手に効くかどうかは、分からない。分からないことをエリスは「やってみる」で片づける。昔からそうだ。
「エリスの言うことも一理あります」
ロキシーが言った。
「ですが、七年間ずっと張りついているのは、現実的ではありません。あの子は学校に行きます。友達もできます。守るなら守り方を考えないと」
「じゃあ、どうするのよ」
「まず家の結界を強くします。それから、あの子に護身の魔術を教えます。逃げる魔術を、先に。攻撃は後でいい」
「アタシは剣を教えるわ」
「それもいいと思います」
エリスは少し不満そうだった。だが、反対はしなかった。
俺は二人のやり取りを聞きながら、オルステッドの言葉を思い出していた。あの娘を守れ。それから、あの娘を俺から遠ざけるな。守ることと、そばに来させることは矛盾している。矛盾しているが、あの人は両方言った。
両方やるしかない。
「ナマエには」
シルフィが言った。
「話した?」
「まだだ」
「ぼくが話そうか」
「……いや。俺が話す」
娘に教えたことだ。報告は自分でする。
ナマエは子供部屋で、紙に何かを描いていた。俺が入ると紙を裏返した。「ひみつ」と言った。
俺は隣に座った。
「ナマエ。話がある」
「うん」
「オルステッド様はしばらく、眠ることになった」
「ねむる?」
「うん。長い間。七年」
娘は指を折った。折りきれなかった。
「ななねんって、どのくらい?」
「ナマエが十二歳になるまで」
娘はしばらく黙っていた。
泣くかと思った。泣かなかった。
「じゃあ、ねてるあいだ、へんじ、きけないね」
「……そうだね」
「おきたら、きける?」
「……たぶん」
「じゃあ、いい」
娘は裏返した紙をまた表に返した。銀色の髪の人が描いてあった。今度は目を閉じていた。
「ナマエ、しってたよ」
「……何を」
「オルステッドさま、つかれてたの。すわってたから」
俺は娘の頭を撫でた。
それしか、できなかった。
◇
その夜も俺は眠れなかった。
最近眠れない夜が多い。年のせいだと思いたい。年のせいではないことは分かっている。
オルステッドと初めて会ったとき俺は殺されかけた。
あのころの俺はあの人が何者かも知らなかった。ただ、道で会って、言ってはいけないことを言って、殺されかけた。それから何年も後に、俺はあの人と戦って、負けて、部下になった。そういう順番だ。忘れたことはない。
あの人は俺を殺しかけた。俺はあの人に命を預けている。
それは矛盾しているように聞こえる。だが、俺の中では矛盾していない。あの人は目的のためなら何でもする。目的以外のことは何もしない。だから、目的の中に入ってしまえば、あの人ほど信頼できる相手はいない。
だが、娘は違う。
娘はあの人の目的の中にいない。目的の外から勝手に入ってきた。入ってきて、兜を取らせて、絵を渡して、結婚すると言った。あの人はそれを、断らなかった。断らずに絵をコートの内側に入れた。
目的の外にあるものをあの人が持っているのを、俺は初めて見た。
それが何を意味するのか、俺には分からない。
分からないまま、七年が始まる。
前の晩シルフィと二人で話した。
子供たちが寝た後、居間で灯りを落として。話すことはあまりなかった。話すことがないから、話した。
「明日だね」
「明日だ」
「ナマエ、泣かないね」
「泣かない」
「ぼくはちょっと泣きそう」
シルフィは笑いながら言った。本当に泣きそうだった。
「ルディ。七年って長いよね」
「長い」
「でも、ぼくはルディを待ったことがある。転移事件でばらばらになってから、魔法大学で会うまで。あれも、長かった」
俺は何も言わなかった。言えることがなかった。あのころの俺はシルフィが生きていることさえ、知らなかった。再会しても、しばらくはあれがシルフィだと気づかなかった。待たれていたことを知ったのは、全部後になってからだ。
「だから、ナマエが待てるのは、たぶんぼくに似たんだと思う」
「……そうかもしれない」
「元気なところは、エリスに似て。待つところは、ぼくに似て。報告するところは、ルディに似た」
シルフィはそう言って俺の肩に頭を乗せた。
「ちゃんと三人の子だね」
俺はシルフィの頭に手を置いた。
七年。
娘が待つ。俺たちも待つ。あの人は、眠る。
それだけのことだ。それだけのことが、こんなに重いとは思わなかった。
◇
当日の朝ナマエは早く起きていた。
俺が居間に降りると娘はもう机に向かっていた。紙と、色のついた蝋。描いているものは見なくても分かった。
「おとうさん。おはよう」
「おはよう。早いね」
「かかないと、いけないから」
娘は顔を上げずに言った。
俺は隣に座って娘が描くのを見ていた。銀色の髪。金色の目は、今日は描かなかった。目を閉じているからだ。その隣に、小さい人。小さい人は今日は腰に手を当てていなかった。座っていた。座って、銀色の人の方を見ていた。
「おとうさん」
「なんだい」
「ねてるあいだ、ゆめ、みる?」
「……分からない。普通の眠りとは違うから」
「ゆめ、みるといいね」
「……そうだね」
「ナマエのゆめ、みるといい」
俺は何も言えなかった。
娘は描き終わって、紙を裏返した。「ひみつ」と言った。それから朝ごはんを食べた。いつもと同じ量を、いつもと同じ速さで食べた。泣かなかった。泣きそうにもならなかった。
シルフィが台所からそれを見ていた。俺と目が合うと小さく首を横に振った。何も言うな、という意味だった。
俺は何も言わなかった。
◇
その日の午後ナマエを連れていった。
連れていくかどうかは迷った。シルフィは「連れていってあげて」と言った。ロキシーは「本人が望むなら」と言った。エリスは「当たり前でしょ」と言った。全員に負けた。
場所は地下だった。事務所の下に転移魔法陣で繋がった部屋がある。オルステッドがこのループが始まるよりずっと前から使っている場所らしい。石の壁、石の床、石の天井。窓はない。灯りは壁に埋め込まれた魔石だけだ。何百年も前の龍族が何かのために作った部屋だと、あの人は言った。何のためかは言わなかった。
石の床の真ん中に魔法陣が刻まれていた。俺には読めない、古い文字だった。円が三重になっていて、その間を文字が埋めている。オルステッドはそれを一晩かけて確かめていた。ひとつでも欠けていたら起きられなくなる。そういう魔法陣だと言った。
「起きられなくなったらどうなるんですか」
「この周期は、そこで終わる」
「……終わる」
「俺が起きないまま、期限が来る。来れば俺は、また最初に戻る。この周期のことは全部、なかったことになる」
あの人の二百年のことだ。決まった年から二百年、あの人は人神を倒すために動く。倒せないまま期限が来るか、途中で死ねば、記憶を持ったまま最初の年に戻る。何周も、そうしてきた。この周期もその一つだ。
期限が来るころには俺は死んでいる。俺の子供たちもたぶん死んでいる。そして、あの人が戻れば、俺たちが生きたこともなかったことになる。
俺はそれ以上聞かなかった。
オルステッドは魔法陣の縁に立っていた。兜は脱いでいた。コートも脱いでいた。眠る間、身に着けるものは少ない方がいいらしい。
ナマエは俺の手を離してとことこと歩いていって、オルステッドの前に立った。腰に手を当てた。胸を張った。
「へんじ、ききにきたわ」
オルステッドは娘を見下ろした。
「……眠る」
「しってる。おとうさんにきいた」
「七年だ」
「じゃあ、ナマエは、じゅうに」
娘は指を折って数えた。両手を使って一回と少し折った。合っているかどうかは怪しい。
「じゅうにになったら、へんじ、きくわ。だから、いま、いわなくていい」
オルステッドは何も言わなかった。
娘はそれを聞いて、満足そうに頷いた。それから持ってきた紙を差し出した。裏返したままだった。
「これ、もってて」
オルステッドは紙を受け取った。表に返さなかった。返さずに脱いだコートの内側に入れた。
娘はそれを見て、また頷いた。それから、いつもの調子で当たり前のように言った。
「おきたら、ナマエのこと、わすれないで」
オルステッドはしばらく黙っていた。
それから、片手を娘の頭に乗せた。
乗せた、というより置いた。壊れ物を扱うように。あの手は数日前に廊下の壁を消し飛ばした手だ。同じ手が、五歳児の頭の上で動かずにいた。
「……忘れん」
娘は俺の方を振り返って、笑った。
俺は、何も言えなかった。
◇
オルステッドは魔法陣の中央に立った。
俺を見た。
「ルーデウス」
「はい」
「七年だ」
「はい」
「……頼む」
この人が「頼む」と言ったのを俺は初めて聞いた。
魔法陣が光った。文字が浮き上がって、円が回って、光が天井まで届いた。オルステッドの姿が光の中で薄くなった。薄くなって、見えなくなった。
光が消えた。
石の床が、閉じた。
魔法陣はそこに残っていた。だが、もう光っていなかった。石の模様と変わらなくなっていた。
ナマエはそれをじっと見ていた。
◇
地上に戻る途中娘は俺の肩に顎を乗せて、ずっと後ろを見ていた。
「おとうさん」
「なんだい」
「ナマエ、まいにち、きていい?」
「……眠ってるよ。返事はないよ」
「いい。ほうこくするだけだから」
報告。連絡。相談。
相手が寝ていても、する。
俺は教えすぎたのかもしれない。
階段を上りきったところで娘が、もう一度言った。
「おとうさん」
「なんだい」
「オルステッドさま、ナマエのえ、もっていったね」
「……そうだね」
「みてくれるかな。おきたら」
「……見るよ」
俺はそう答えた。
根拠はなかった。だが、机の隅で裏返しになっていた紙のことを俺は覚えていた。あの人は一枚目を捨てなかった。二枚目をコートの内側に入れた。
見ないはずがない。
そう思った。
◇
娘を受付の職員に預けて俺は三階に上がった。
仮の社長室は空だった。机と椅子だけがあった。机の上には何もなかった。書類も、地図も、名簿も、あの人が持っていったのか、どこかにしまったのか。俺には分からなかった。
机の隅を見た。
紙は、なかった。
俺は少しだけ、机の引き出しを開けてみた。開けてはいけないと思いながら、開けた。中には古い羊皮紙が数枚と、インクの瓶が入っていた。絵は、なかった。
引き出しを閉めた。
あの人は一枚目も持っていったのだ。コートの内側に、二枚目と一緒に。
俺は椅子には座らなかった。あの椅子はあの人のものだ。七年間、誰も座らない。
窓の外を見た。あの人があの日、見ていた方を。
シャリーアの町並みがあった。それだけだった。
俺は扉を閉めて階段を降りた。
受付で娘が職員と話していた。
「おねえさん。オルステッドさま、ねたよ」
「……そう」
「ななねん。ナマエ、じゅうにになる」
「そっか。大きくなるね」
「うん。おおきくなって、へんじ、きくの」
職員が俺を見た。俺は頷いた。職員も頷いた。
俺は娘の手を取って事務所を出た。
七年が、始まった。
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