home / 第三話「十歳の報告」

 石の床には、何もない。

 正確には魔法陣が刻まれている。だが五年前に光ったきり、それは石の模様と変わらなくなった。触っても冷たいだけだ。叩いても石の音がするだけだ。

 その床の前にナマエ・グレイラットは座っていた。

 十歳になった。背は伸びた。髪は母親と同じ色で、母親より少し癖がある。父親から「アルスの次にじっとしていない」と評されている。アルスはじっとしていないのではなく、走っている。ナマエはじっとしていないのではなく、ここにいる。

 膝の上には帳面がある。表紙に「ほうこく 5」と書いてある。五冊目だ。一冊目は字がまだ書けなかったころのもので、絵ばかりだった。二冊目から字が混じった。四冊目から絵がなくなった。

 一冊目の最初のページには銀色の髪の人が描いてある。目を閉じている。その隣に小さい人が座っている。五歳のとき眠る直前に渡したものと、同じ構図だ。あの絵はあの人に渡した。渡したので手元にはない。だから、自分の分をもう一枚描いた。帳面の最初のページに。

 二冊目には字を覚えた日のことが書いてある。「きょう、じをおぼえました。これで、かけます」。その下にオルステッドの名前を、何度も練習した跡がある。「オ」の形が最初は「才」になっていた。

 三冊目は学校に入った年のものだ。「がっこうに、はいりました。せんせいは、おとうさんをしっていました。みんな、おとうさんをしっていました」。少し不満そうな字だった。

 四冊目には初めて一人で地下に降りた日のことが書いてある。「きょう、ひとりできました。おとうさんには、ほうこくしました。おこられませんでした。おこられなかったので、あしたもきます」。

 五冊目が今の帳面だ。

 全部で何日分になるのか、ナマエは数えたことがない。数えると多すぎて、何かが変わってしまう気がした。数えないまま続けている。

 ナマエは帳面を開いて今日の日付を書いた。それから、床に向かって声に出した。

「今日は学校で治癒魔術の初級をやった」

 書きながら、言う。それがこの五年で固まったやり方だった。声に出すのは、報告だから。書くのは、起きたときに読んでもらうため。どちらか片方では足りない気がしていた。

「先生に筋がいいって言われた。お父さんの娘だから当たり前だって、後ろで誰かが言った。腹が立ったから言い返した」

 返事はない。

 ナマエは膝を抱えて少し待った。待つのは癖になっていた。返事がないと分かっていても、待つ。五年前、この床が閉じる前に父は「返事はないよ」と言った。ナマエは「いい」と答えた。報告するだけだから。

 その言葉を五年間守っている。

「赤ママに剣を教わり始めた。すぐ振り回すなって怒られた。赤ママが言うと説得力がないと思う」

 床は、何も言わない。

「あと二年」

 ナマエは帳面を閉じて立ち上がって、埃を払った。床に向かって一度頷いてから、階段を上った。

     ◇

 地下への出入りを許したのはルーデウスだった。

 最初は反対した。眠っている相手に報告するために、五歳の娘を毎日地下に降ろすなど、どう考えても正気ではない。だがナマエは許可がなくても行こうとした。事務所の職員に「地下への行き方を教えて」と聞いて回った。職員は全員、震えながら首を横に振った。地下の存在すら彼らは知らなかった。

 初めて一人で降りた日のことをナマエは覚えている。

 六歳の冬だった。父は事務所の二階で書類を読んでいて、母は家にいた。付き添いはいなかった。ナマエは受付の職員に「おとうさんに、ほうこくしてきました」と言って、三階に上がった。嘘ではなかった。朝食の席で「今日は一人で降りてみます」と言った。父は「え」と言った。「え」は、駄目という意味ではない。そう解釈した。

 転移魔法陣の起動は難しくなかった。父がやるのを一年間、毎日見ていた。手の動きと、魔力の流し方。それだけだ。魔力は余るほどあった。

 地下は、暗かった。

 壁の魔石は人がいないと光らない。人が来ると少しずつ光る。その「少しずつ」の間、ナマエは階段の途中で立っていた。暗い。冷たい。誰もいない。床の下に誰かがいる。それだけだ。

「こわくない」

 声に出して言った。誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

 魔石が光った。石の床が見えた。魔法陣が見えた。ナマエは階段を降りて床の前に座って、報告をした。声が少し震えていた。震えていたことは報告しなかった。

 帰ってから父に「ひとりでいけました」と報告した。父は長い間黙っていて、それから「そうか」と言った。叱られなかった。叱られなかったので翌日も行った。

 ルーデウスは折れた。条件は三つ。必ず自分かシルフィが付き添うこと。長居しないこと。床に触らないこと。

 ナマエは三つとも守った。最初の一年は。

 二年目からは付き添いが要らなくなった。転移魔法陣の起動をナマエは見て覚えた。ルーデウスが気づいたときには、娘は一人で降りて、一人で戻ってきていた。叱ろうとしたが、ナマエは「報告してから行ってる」と言った。事実だった。毎朝、「今日も地下に行きます」と朝食の席で報告していた。ルーデウスは聞いていた。聞いていて、止めなかった。だから、許可したのと同じだった。

 そういう理屈を十歳の娘は組み立てる。

 ルーデウスはそれを誰に似たのかと考えて、考えるのをやめた。

 帳面のこともルーデウスは知っていた。娘が地下から戻ってくると帳面を本棚の決まった場所に戻す。五冊並んでいる。ルーデウスは一度も開いたことがなかった。開いてはいけないと思っていた。あれは娘があの人に宛てて書いているものだ。父親が読むものではない。

 だが、背表紙を数えることは、していた。

 五冊。五年。

 帳面は一年に一冊のペースで増えていた。減ることはなかった。

 ルーデウスの側の五年は静かだった。

 事務所は建て直した。前と同じ三階建てで、三階の奥に社長室がある。社長室には誰もいない。だが、誰も入らない。書類は扉の前の箱に置かれ、ルーデウスが持ち出して読む。判断はしない。書き留めるだけだ。あの人に言われたとおりに。

 龍狩りは、来なかった。

 一度も来なかった。噂はいくつかあった。ルーデウスはそれを全部書き留めた。書き留めて箱に入れた。箱の中の紙は五年で三つの棚を埋めた。あの人が起きたら読む。読んで、判断する。それまでルーデウスは判断しない。

 「次が来るまで七年は持つ」とあの人は言った。そのとおりだった。龍狩りは動いていなかった。動いていないということは次を作っているということだ。作っているということは忘れていないということだ。ルーデウスはそれを毎日思い出していた。思い出して、家の結界を確かめて、娘が地下から戻ってくるのを待った。

 娘は、毎日戻ってきた。

 それだけがルーデウスにとっての「無事」だった。

     ◇

 学校ではナマエは目立つ子だった。

 目立ちたくて目立っているのではない。父親が有名すぎた。ルーデウス・グレイラットの末娘。それだけで入学した日から全員に知られていた。姉たちも同じ道を通った。ルーシーはそれで随分と苦しんだらしい。ナマエは苦しまなかった。苦しむ前に言い返すからだ。

「お父さんの娘だから当たり前」

 治癒魔術の授業の後、後ろの席の男子がそう言った。ナマエは振り返った。

「当たり前じゃない。練習した」

「へえ。じゃあ、練習しなくてもできるんじゃないの、グレイラットなら」

「できない。だから練習した」

 男子はそれ以上何も言わなかった。ナマエの目が少しだけ怖かったからだ。エリスの目に似ていた。本人はそのことを知らない。

 手は、出なかった。

 出さないと決めているわけではない。出す、という発想がこの子にはない。目はエリスに似ていても、手はシルフィの手だ。腹が立てば言い返す。言い返して、相手が黙ればそれで終わりにする。エリスならここで木剣を取りに行く。ナマエは席に戻る。それだけの違いだ。

 友人は、いた。多くはない。

 同じ年の女の子で、名前をミラという。魔術師の家の子で、父親の名前を聞いても顔色を変えなかった数少ない一人だった。ミラはナマエが毎日事務所に行くことを知っていた。理由は、知らなかった。

「ねえ、ナマエ。今日も事務所?」

「うん」

「何しに行くの。お父さんの手伝い?」

「報告」

「誰に?」

「寝てる人」

 ミラはそれで質問をやめた。やめたのは、分からなかったからではなく、ナマエの言い方が「これ以上は聞かないで」だったからだ。ミラはそういうところが分かる子だった。だから友人だった。

「寝てる人、いつ起きるの」

「あと二年」

「長いね」

「もう五年待った。あと二年は、短い」

 ミラは少し考えてから、「そっか」と言った。それから「起きたら、教えてね」と言った。ナマエは「うん」と答えた。

 家に帰るとクリスが居間で本を読んでいた。

 クリスは十六になった。背が伸びて、顔はますます赤ママに似て、性格はますます似なくなった。本を読んでいるか、父の隣にいるか、どちらかだ。アスラの王立学校に行きたいと最近言い出した。お姫様のように暮らしたいのだそうだ。赤ママは「好きにしなさい」と言った。言ってから少し複雑な顔をしていた。

「ナマエ。今日も事務所?」

「うん。これから」

「まだ行ってるんだ。……すごいね」

 クリスは本を閉じた。

「ねえ。まだあの人のこと、好きなの?」

「……分からない」

「分からないのに行くの?」

「行くのは決めたことだから」

 クリスは少し考えてから、小さな声で言った。

「わたし、あの後一度だけ、事務所に行ったの。お父さんに連れていってもらって。三階まで上がった。でも、扉の前で動けなくなった」

「知ってる。お父さんが言ってた」

「怖かったんじゃないの。……あそこ、ナマエの場所だって思った。十一のわたしがそう思った。だから、やめた」

 クリスは本を膝の上で抱えた。

「だから、わたしナマエのこと、ちょっと尊敬してる。……言わないけど」

「今、言った」

「……言ってない」

 ナマエはそれ以上言わなかった。クリスはそういうところがある。恥ずかしがりで、言ったことをすぐ引っ込める。引っ込めても言ったことは、言ったことだ。

 治癒魔術の初級はその日、褒められた。教師はナマエの魔力の量に驚いていた。十歳にしては多すぎる。多すぎて、初級の治癒では余る。余った分が光になって溢れる。教師は「制御を覚えなさい」と言った。ナマエは「はい」と答えた。

 授業の後ナマエは教師のところに行った。

「先生。治癒魔術で傷を、自分に移すことはできますか」

 教師は少し驚いた顔をした。

「……どこで聞いたの、それ」

「本で読みました」

「古い本ね。……できる、と言われている。でも、やらない。やってはいけない魔術のひとつよ。治す方が傷を引き受けるなんて、治癒じゃない」

「どうしてやってはいけないんですか」

「傷だけを移せる保証がないから。傷と一緒に何が移るか分からない。毒も、病も、……呪いも」

 ナマエは頷いた。

「分かりました」

 教師はナマエの顔を見て、少し不安になった。分かりました、という顔ではなかった。覚えました、という顔だった。

 事務所までの道をジークが一緒に歩く日がある。

 ジークは十九になった。小さいころは泣き虫だったと母は言うが、ナマエは信じていない。背が高く、力が強く、剣を持って歩く。何のために持っているのか、聞いても答えない。答えないが、ナマエが事務所に行く日に限って同じ方向に用がある。

「兄さん。今日も用があるの」

「ある」

「どこに」

「その辺に」

 それで会話は終わる。ジークは事務所の前まで来ると、立ち止まる。ナマエが中に入るのを見てからどこかに行く。帰りもなぜか事務所の前にいる。

 五年前、父が「あの娘を守れ」と言われたことをナマエは知らない。ジークがそれを父から聞いたことも、知らない。知らないが、兄が剣を持って歩く理由は何となく分かっている。分かっているので聞かない。

「兄さん」

「なんだ」

「ありがとう」

「何がだ」

「その辺に用があって」

 ジークは少しだけ、口の端を動かした。それがこの兄の笑い方だった。

     ◇

 事務所の受付には五年前と同じ職員がいる。

 もう八年になる。三階に上がるときの顔色は今は変わらない。変わらないのは、三階に誰もいないからだ。本人はそう言う。ナマエはそうではないと思っている。

「ナマエちゃん。今日も?」

「はい」

「気をつけてね」

 毎日同じやり取りをする。職員は地下の行き方を知らない。知ろうともしない。ナマエが三階に上がって、しばらくして降りてくる。それだけを見ている。

 三階の廊下の、社長室の扉の前には今も箱がある。

 箱には紙が入っている。毎日、増える。父が持ち出して読んで、また戻す。判断はしない。書き留めるだけ。起きたら読んでもらうために。

 ナマエはその箱を見るたびに、自分の帳面のことを思う。

 同じだ、と思う。

 父も、箱に入れている。ナマエも、帳面に書いている。二人とも、起きたら読んでもらうつもりで五年間続けている。

 違うのは、父は判断をしないと決めていて、ナマエは判断をしようとしていることだ。

     ◇

 護身の魔術はロキシーから教わっていた。

 青ママ、とナマエは呼ぶ。ロキシーは最初その呼び方に困った顔をしたが、今は普通に返事をする。

「まず、逃げる魔術です。攻撃は後でいい」

 五年前、ロキシーがそう言ったのをナマエは覚えている。以来、逃げる魔術ばかり教わっている。目くらまし。足止め。音を消す魔術。壁を作る魔術。どれも、相手を倒さない。相手から離れるための魔術だ。

「青ママ。攻撃はいつ教えてくれるの」

「逃げる魔術が全部できるようになったら」

「もう、できる」

「まだです。壁が薄い。ところどころ薄くて、一定ではない。だから、綻びが生じやすい」

 ロキシーはナマエの作った土の壁を、杖で軽く叩いた。薄いところを正確に叩いた。壁はそこから崩れた。

「魔力は足りています。足りすぎているくらいです。足りないのは、イメージです。どれだけ厚い壁を、どこに、どう立てるか。それをはっきり思い描く前に、魔力を流している。だから、厚いところと薄いところができる」

「イメージってどうやったら、はっきりするの」

「繰り返すしかありません。私は魔力が少ないので、イメージを詰めて補うしかなかった。あなたは魔力が多いのでイメージが曖昧でも、何となく形になってしまう。それがあなたの弱いところです」

 ナマエはもう一度壁を作った。ロキシーが叩いた。崩れた。

「青ママ」

「はい」

「魔力って人に渡せるの」

 ロキシーは杖を止めた。

「……通常は、できません」

「通常じゃなければ?」

「魔力付与の魔道具を介せば、一部は。ですが、人から人に直接渡すのは、私の知る限り、方法がありません」

「そう」

 ナマエはそれ以上聞かなかった。もう一度壁を作った。今度は厚さが揃っていた。ロキシーが叩いた。どこを叩いても、崩れなかった。

「……いいでしょう。今日はここまで」

 ロキシーはナマエの顔を見ていた。壁のことを考えている顔ではなかった。

     ◇

 道場ではナマエは目立たない子だった。

 剣の筋は、悪くない。だが、良くもない。エリスの子供たちには遠く及ばない。エリスはそれを承知で教えていた。

「振りが大きい。もっと小さく」

「はい」

「はい、じゃないわよ。小さく、って言ってるでしょ」

「小さくしてます」

「してない」

 エリスはナマエの手を取って、木剣の角度を直した。エリスの手は、硬い。母親の手とも、父親の手とも、曾祖母の手とも違う。何十年も剣を握ってきた手だった。

「赤ママ」

「なに」

「赤ママはオルステッド様と、戦ったことがある?」

 エリスの手が、止まった。

「あるわよ」

「勝った?」

「負けた」

 エリスはあっさりと言った。

「ルーデウスと二人で、負けた。ぼろぼろにされた」

「……そう」

「なんでそんなこと聞くのよ」

「知りたかったから」

 ナマエは木剣を構え直した。エリスはそれを見ていた。

「ナマエ」

「なに」

「守られてるだけじゃ、隣には立てないわよ」

 ナマエは木剣を振った。小さく振った。エリスは何も言わなかった。それが、エリスの「良し」だった。

 帰り道、ナマエは考えていた。

 守られているだけでは、隣に立てない。

 それは分かる。だが、隣に立つために強くなればいいのか。強くなったところで、あの人より強くはなれない。父親より強くなることすらたぶん無理だ。強さで隣に立つのは、無理だ。

 では、何で立つのか。

 ナマエはまだ答えを持っていなかった。

     ◇

 その日の夕食には客がいた。

 エリナリーゼ・ドラゴンロード。シルフィの祖母。つまり、ナマエの曾祖母である。

 見た目は二十代の娘と変わらない。長命種であるエルフの血に加えて、本人の異常なまでの若々しさがある。ナマエは幼いころからこの曾祖母を「ひいおばあちゃん」と呼ぶことを拒否されていた。「エリナリーゼさん、でいいわ」と言われ、以来そう呼んでいる。

 ミリスから来た。夫のクリフは来ていなかった。「あの人は研究で忙しいのよ」とエリナリーゼは言った。少し、寂しそうだった。寂しそうなのを隠していた。隠しているのが、ナマエには分かった。

「ナマエ、大きくなったわねぇ」

「三ヶ月前にも会いました」

「三ヶ月で大きくなるのよ、その年頃は」

 エリナリーゼはナマエの髪を撫でた。ナマエは撫でられるままになっていた。この曾祖母の手つきは、母親とも父親とも違う。何百年も誰かの髪を撫でてきた手だった。

「オルステッド様はまだ眠ってるの?」

「はい。あと二年」

「そう。毎日行ってるんですって?」

「はい」

「偉いわねぇ」

 エリナリーゼはそう言って、笑った。笑ってから少しだけ真面目な顔になった。

「私はね、待つのが下手なのよ。何百年生きても、下手なまま。あなたは、上手ね」

「上手じゃないです。ただ、行ってるだけです」

「それが上手っていうのよ」

 食事の途中、ナマエが聞いた。

「お父さん。オルステッド様の魔力ってどうしたら早く戻るの」

 ルーデウスがスプーンを止めた。

「……戻らないよ。あの人の呪いはそういう呪いだ。眠るしかない」

「眠る以外に方法はないの」

「ない」

 ルーデウスははっきりと言った。娘にこれ以上考えさせたくなかった。

「あるかもしれないわよ」

 エリナリーゼが言った。

 ルーデウスが曾祖母を見た。エリナリーゼはワインを飲みながら、平然としていた。

「クリフが言うにはね。私の体が、そうらしいの」

「エリナリーゼさん」

「あら、隠すことじゃないでしょう。この家の人はみんな知ってるわ」

 エリナリーゼはナマエの方を向いた。

「私にも呪いがあるの。体の中に魔力が溜まっていく呪い。溜まったままにしておくと大きくなって、死ぬ。出すには男の精を受けて、結晶にするしかない。……精を受ける、の意味は分かる?」

「分かります」

 ナマエは即答した。ルーデウスが頭を抱えた。

「そう。だから私は何百年も、定期的に男と交わってきたの。今はクリフの魔道具があるから、一年くらいは平気だけど。……それでね。クリフが私の体を何十年も調べて、言ったことがあるの」

 エリナリーゼはワインを一口飲んだ。

「この体は呪いというより、道具だって。誰かが、何かのために作ったものだって。魔力を溜めて、結晶にする。そこまではできる。でも、その先が、抜けてる。溜めた魔力をどこかに渡すつもりだったんじゃないかって。渡す先がないから、溜まって死ぬだけになってる。……作りかけの道具みたいなものね」

「渡す先、って」

「知らないわ。クリフも知らない。誰が作ったのかも、何のためかも。私はただ、何百年、溜めて、出して、溜めて、出してきただけ。……上手く扱えたことなんて一度もないわ」

 エリナリーゼは少し遠くを見た。

「クリフがね、それを何とかしようとしてる。もう何十年も」

「何とかってどうやって」

「いろいろよ。解くとか、弱めるとか。……移す、とか」

 ルーデウスが顔を上げた。

「移す?」

「呪いを、別の誰かに移す方法。理屈の上ではあるらしいわ。クリフが見つけた。でもね、あの人はやらないの」

「……どうして」

「移された人が、私と同じになるから。私は助かる。その人が、死ぬかもしれない。……あの人はそういうことをしない人よ。だから、私はあの人と一緒にいるの」

 エリナリーゼはそう言ってワインを飲み干した。

 ナマエは何も言わなかった。

 ただ、聞いていた。

 ルーデウスは娘のその顔を見て、嫌な予感がした。何かを覚えたときの顔だった。地下への転移魔法陣の起動を見て覚えたときと、同じ顔だった。

「ナマエ」

「なに、お父さん」

「今の話は忘れなさい」

「うん」

 ナマエは素直に頷いた。

 ルーデウスはそれが「聞いた」の意味であって、「従う」の意味ではないことをよく知っていた。

 食事の後、エリナリーゼは居間でシルフィと話していた。ナマエは少し離れたところで本を読むふりをして、聞いていた。

「あの子、私の話真剣に聞いてたわね」

「うん。ルディが困ってた」

「困るでしょうね。……でもね、シルフィ。私はあの子に話してよかったと思ってる」

「どうして?」

「知らないで待つのと、知って待つのは違うから」

 シルフィは何も言わなかった。

 エリナリーゼはワインを飲んだ。

「私はね、待つのが下手なのよ。だから、待ってる子を見ると何か渡したくなるの。渡せるものがあるなら」

 ナマエは本のページをめくった。読んでいなかった。

     ◇

 地下では報告の後に、練習をする日がある。

 治癒魔術の練習だ。相手は庭から連れてきた猫である。五歳のときにナマエを引っかいた猫の、子供だ。よく怪我をする。木に登って落ちる。塀から落ちる。他の猫と喧嘩する。練習相手には都合がよかった。

 石の床の前で、猫を膝に乗せて前足の傷に手をかざす。

 光が出る。出すぎる。傷は塞がるが、光が余って床にこぼれる。教師が言った「余る」というのは、これだ。

「制御」

 ナマエは声に出して言った。もう一度手をかざす。今度は少しだけ光を絞った。絞りすぎて、傷が塞がりきらなかった。

「……難しい」

 猫が膝から降りようとした。ナマエは押さえた。もう一度。今度はちょうどよかった。光が傷の大きさに収まった。傷が塞がって、光が消えた。余らなかった。

 猫は膝から降りて、階段を上っていった。

 ナマエは床を見た。

「オルステッド様。今ちょうどよくできました」

 床は、何も言わなかった。

「余らないようにできました。……余った分を、渡せたらいいのに」

 言ってからナマエは自分の言葉に少し驚いた。

 余った分を、渡す。

 それは曾祖母の話を聞く前から、考えていたことだった。考えていたことに今、気づいた。

 ナマエは立ち上がった。埃を払った。床に向かって一度頷いた。

     ◇

 風呂の後、母が髪を梳いてくれた。

 十歳になってもナマエはこれをやめなかった。やめる理由がなかった。母の手は、柔らかい。父の手は、大きい。曾祖母の手は、慣れている。赤ママの手は、硬い。青ママの手は、細い。全部、違う。全部、覚えている。

「ナマエ」

「なに、ママ」

「今日エリナリーゼさんの話、聞いてたね」

「うん」

「ルディ、心配してたよ」

「知ってる」

 シルフィは櫛を止めなかった。

「ぼくはね、ナマエが何を決めても止めないって、五年前に言ったんだ。ルディに」

「知らなかった」

「言ってなかったから」

 シルフィは少し笑った。

「でも、止めないのと、心配しないのは違うから。ぼくも心配はする。それだけ、覚えておいて」

「うん」

「……まだ、好き?」

 ナマエは少し考えた。

「分からない。五歳のときは好きだった。今は報告してるだけ」

「そう」

「でも、報告をやめようと思ったことは、ない」

 シルフィは櫛を置いた。娘の髪を両手で撫でた。

「それは、たぶん好きっていうんだよ」

 ナマエは何も言わなかった。

     ◇

 寝る前に姉が部屋に来た。

 ルーシーは二十三になっていた。もう家にはいない。近くに家を持って、たまに帰ってくる。今日は曾祖母が来るというので帰ってきていた。

「ナマエ。ちょっといい?」

「うん」

 ルーシーはベッドの端に座った。

「エリナリーゼさんの話、聞いてたでしょ」

「聞いてた」

「……あれは、あんまり真に受けない方がいいよ」

「どうして」

「あの人の呪いはあの人を何百年も苦しめてきたものだから。渡せる、なんて簡単なものじゃない」

「知ってる」

 ナマエは姉を見た。

「知ってるけど、聞いた。聞いたことは忘れない。それだけ」

 ルーシーはしばらく妹を見ていた。それからため息をついた。

「お父さんが困るのも分かるな」

「お父さんはいつも困ってる」

「それは、そう」

 ルーシーは少し笑った。立ち上がって、扉のところで振り返った。

「ナマエ。……あと二年だね」

「うん」

「起きたら何て言うの」

 ナマエは少し考えた。

「まだ、決めてない」

「そう」

「でも、決めたらまずお父さんに言う」

 ルーシーは「そうだね」と言って、部屋を出た。

     ◇

 その夜ナマエはもう一度、地下に降りた。

 一日に二回降りるのは初めてだった。

 石の床の前に座って膝を抱えた。帳面は持ってこなかった。書くことではないと思った。言うだけにしようと思った。

「オルステッド様」

 報告するだけ、と自分に言い聞かせた。

「今日覚えたことがあります」

 床は、何も言わなかった。

「エリナリーゼさんの体は魔力を溜めて、誰かに渡すために作られたかもしれないって。クリフさんがそう言ってるって。渡す先がないから呪いになってるって。……先生は傷を移す魔術は、やってはいけないって言ってた。呪いも一緒に移るかもしれないからって」

 ナマエはそこで言葉を切った。

 二つの話を頭の中で並べていた。並べて、繋げた。繋げてから、繋げたことに自分で少し驚いた。

 傷を移す魔術は、呪いも移す。

 エリナリーゼの体は、魔力を溜めて渡すための、作りかけの道具。

 オルステッドは、魔力が戻らない。

「……まだ、言いません」

 ナマエは床に向かって言った。

「あと二年、考えます。考えて、決めたらまずお父さんに言います。それから、オルステッド様に言います。……言うかどうかも、考えます」

 床は、何も言わなかった。

 ナマエは立ち上がった。

 階段を上りながら指を折って数えた。両手を使って一回と少し。五年前と同じ数え方だった。今は、合っているかどうか、自分で分かる。

 十二まで、あと二年。

 治癒魔術の初級は今日、褒められた。

 制御を覚えなさい、と言われた。

 覚えるつもりだった。初級だけではなく、その先も。

 部屋に戻ってナマエは帳面を開いた。

 今日の日付の下にもう一行、足した。

「きょう、おぼえたことがあります。まだ、かきません」

 帳面を閉じて本棚の決まった場所に戻した。五冊目の背表紙が四冊の隣に並んだ。

 あと二冊。

 ナマエは、灯りを消した。

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