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扉が叩かれる。
「オルステッド様。報告に来ました」
俺は扉を開ける。
三年、毎日これをやっている。最初の年は開けるたびに迷った。二年目には迷わなくなった。三年目の今は、足音で分かる。階段を上がってくる音が扉の前で止まる。止まる前に、俺は立ち上がっている。
娘が入ってくる。
十五になった。
背は俺の肩のあたりまである。髪は母親と同じ色で、少し癖があって、後ろでまとめている。目は父親に似ている。父親よりまっすぐだ。それは七年前から変わらない。
変わったのはそれ以外の全部だ。
「今日の報告です。二階の書類、整理が終わりました。傭兵団からの連絡が三つ。北の街道でまた噂がひとつ。全部、箱に入れました。それから、受付のお姉さんが今日で十年だそうです」
「……十年」
「はい。オルステッド様が眠る前から、いる人です」
「知っている」
「お祝いをしてもいいですか。二階で」
「……好きにしろ」
「します」
娘はそう言って、頭を下げる。
それから、俺を見る。
「質問は、ありますか」
三年前、娘が言った。報告に質問をしてもいい、と。俺はそれを覚えている。覚えていて、毎日何か聞く。聞くことを前の晩に考えることもある。何百年、そんなことはしなかった。
「……北の噂は、どういうものだ」
「治癒の効かない傷、だそうです。二年前と同じ。三人、死んだと」
「……そうか」
「オルステッド様」
「なんだ」
「二年前と同じ相手ですか」
「同じ種類だ。同じ個体ではない。あれは、首を落とせば止まる。だが、作れる。あいつらが、作っている」
娘は頷いた。
「以上です」
娘は出ていった。
俺は椅子に座った。
夕方、二階から声が聞こえた。
祝い、というものらしい。職員が全員二階に集まっていた。娘の声が一番大きかった。「お姉さん、十年おめでとうございます」。それから、拍手。それから、笑い声。
俺は階段を降りた。
降りるつもりはなかった。だが、降りた。二階の扉の前に立った。
声が、止まった。
職員が全員俺を見た。顔が白くなった。十年いる職員も白くなった。呪いだ。十年経っても、変わらない。
娘が俺を見た。
「社長も、来ました」
娘はそう言って、職員の方を向いた。
「お姉さんの十年を、社長も祝いに来ました。……ですよね」
俺は答えなかった。答えなかったが、その場に立っていた。
十年いる職員が、震えながら頭を下げた。
「……ありがとうございます、社長」
「……十年」
俺はそれだけ言った。
「よく、いた」
職員は顔を上げた。目に涙があった。恐怖の涙か、別の涙か、俺には分からなかった。分からないことは、言わない。
俺は三階に戻った。
後ろでまた声が始まった。さっきより少し、小さかった。だが、続いた。
◇
娘は一年前から、この事務所で働いている。
言い出したのは娘だ。ルーデウスは反対した。俺は何も言わなかった。何も言わなかったので、娘は「許可された」と解釈した。俺はその解釈を訂正しなかった。
初日のことを覚えている。
娘は朝一番に来た。ルーデウスより早く。扉を叩いて、俺が開けて、娘は「今日から、働きます」と言った。それから、俺の机の横に立って動かなかった。
「……何をしている」
「仕事を待っています」
「仕事は」
「まだ、もらっていません」
俺は考えた。仕事を与えたことがなかった。ルーデウスには指示を出す。職員にはルーデウスが指示を出す。俺が直接、誰かに仕事を与えるという場面が、この事務所にはなかった。
「……箱の紙を、日付順に並べろ」
「はい」
娘は廊下に出て、箱の紙を日付順に並べた。半日かかった。並べ終わって、俺の机の横に置いた。
「並べました。それから、報告があります」
「……聞く」
「箱の紙に、三年前に読んだ帳面と同じ日付のものがありました。私が猫の傷を治した日です。その日、お父さんは北の街道の噂を書いていました。同じ日に、私は猫の傷を治していて、お父さんは噂を書いていて、オルステッド様は、眠っていました」
「……それが、報告か」
「はい。同じ日に、三人が別のことをしていたという報告です」
俺は何と言っていいか、分からなかった。
「……そうか」
「以上です」
娘はそう言って帰った。
その夜、俺は箱の紙と、帳面を同じ日付で並べてみた。娘の言うとおりだった。同じ日に、三人が別のことをしていた。それを俺は、今まで考えたことがなかった。
娘はそういうことを、報告する。
仕事は書類の整理と、報告だ。二階の職員が箱に入れた紙を、日付順に並べ、三階に運び、俺の机の横に置く。それから、口頭で報告する。俺が質問する。娘が答える。
この事務所で、社長室に自由に出入りできる者は娘だけだ。ルーデウスも用がなければ入らない。職員は扉の前の箱までだ。娘は扉を叩いて、俺が開けて、入る。毎日。
職員が、変わった。
俺に声をかける者が出てきた。三階で娘と一緒にいるときだ。娘が「お姉さん、これ、社長に」と言って、職員が「……はい、社長」と言って、俺に紙を渡す。手は震えている。だが、渡す。七年前はなかったことだ。
娘が、間にいる。
娘がいるから、職員は俺の方を向く。俺を見て、声を出す。呪いは消えない。恐怖は消えない。だが、恐怖の向こうに俺がいることを、職員は知った。娘がそれを知らせた。
俺はそれをどう扱っていいのか、まだ分からない。
分からないまま、三年が過ぎた。
◇
夜、娘は事務所の裏の空き地で、魔術の練習をする。
毎晩だ。
土の壁を作る。厚さを揃える。崩す。また作る。それから、治癒の制御。空き地の端に土の壁が並んでいる。娘が作ったものだ。翌朝、娘が崩す。崩して、また作る。龍狩りの兵がまた来たときのためだと、娘は言う。それは本当だろう。だが、それだけではない。
俺はそれを、三階の窓から見ている。
見ていることを娘は知っている。知っていて、続けている。
二年前の、あの日からだ。
あの日、娘は曾祖母の傷を、自分に移した。禁じられた治癒だ。俺はそれを後で知った。着いたとき、娘は腹から血を流していて、曾祖母の傷は閉じていた。それだけで何が起きたかは分かった。俺は娘の傷を閉じた。魔力を、使った。惜しまなかった。惜しむという発想が、あのときなかった。
その後、曾祖母の呪いが消えたと聞いた。
ルーデウスはそれだけを言った。それ以上は言わなかった。娘も、言わない。俺も、聞かない。
聞けば、答える娘だ。報告する娘だ。聞かれたことに嘘を言わない。だから、聞かない。聞かないと、決めた。あの娘が言わないと決めていることを、俺が聞いて答えさせるのは、違う。
だが、分かることは、ある。
娘の魔力が変わった。あの日から。多かったものがもっと多くなった。そして、増え続けている。俺には魔力が見える。娘の中に、使っても減らないものが、日ごとに溜まっていく。空き地でどれだけ魔術を使っても、そこは減らない。
曾祖母の呪いが、どういうものかは知っている。魔力が溜まる。溜まれば、死ぬ。出すには男の精を受けるしかない。何百年、あの女はそうやって生きてきた。誰が、何のために、あの女の体をそうしたのかは、知らん。ラプラスの仕業だという説は聞いたことがある。あいつが何を仕込んで、何を残したのか、俺に伝わっていないものは多い。
分かるのは目の前のことだけだ。
あの日、曾祖母の呪いが消えた。娘は曾祖母の傷を引き受けた。その日から、娘の中に減らない魔力が溜まり始めた。娘は毎晩、空き地で魔術を使う。減らないことを、確かめるように。
溜まる体があの女から、娘に移った。それは、分かる。
娘がその体で何をするつもりなのか。何ができると考えているのか。それは、分からん。娘は何かを考えている。十歳のとき、帳面に一行書いた。余った分を渡せたらいいのに、と。あの一行と、あの日の出来事を並べれば、娘が何を考えているのかは、見当がつく。
見当がつくだけだ。
だから、聞かない。
娘は何かを、俺に言わないと決めている。俺はそれを、待つ。
一度だけ、空き地に降りたことがある。
半年前だ。娘が土の壁を作り終わって、座り込んでいた。疲れた顔ではなかった。何かを確かめている顔だった。自分の腹の下に手を当てていた。曾祖母がよくやっていた仕草だ。
俺は空き地の端に立った。
娘は俺に気づいて、立ち上がろうとした。俺は手で制した。娘は座ったままになった。
「見てますよね。いつも」
「見ている」
「……聞かないんですか」
「聞かん」
娘は少し黙った。
「どうして」
「お前が、言わないと決めているからだ」
娘は俺を見た。
「……知ってるんですか」
「知らん」
嘘だった。半分、嘘だった。知らないが、分かっている。分かっているが、知らない。その違いを娘に説明する言葉を、俺は持っていなかった。
「知らないなら、聞けばいいのに」
「聞けば、お前は答える」
「……はい」
「答えれば、お前は、言わないと決めたことを、破ることになる。俺が、破らせることになる。それは、しない」
娘は長い間、黙っていた。
それから、小さく言った。
「……ありがとうございます」
俺は答えなかった。三階に戻った。窓から見ると、娘はまだ座っていた。座って、土の壁を見ていた。
それきり空き地には降りていない。
◇
一度だけ、娘が来なかった日がある。
三ヶ月前だ。朝、足音がなかった。昼になっても、なかった。俺は扉を三度、開けた。廊下には誰もいなかった。
夕方、ルーデウスが来た。
「熱です。大したことはありません。……明日には、来ると言っています。止めましたが」
「……そうか」
「社長」
「なんだ」
「三回扉を開けたと、二階の職員が言っていました」
俺は答えなかった。
ルーデウスはそれ以上、何も言わずに帰った。
その夜、俺は一日というものが長いことを、知った。何百年、一日は短かった。百年を単位で数えていた。一日はその百分の一の、さらに三百六十五分の一だ。数えるほどのものではなかった。
その一日が、長かった。
翌日、足音がした。扉が叩かれた。俺は開けた。
「熱でした。報告が遅れました」
「……聞いた」
「以上です」
「……座れ」
娘は少し驚いた顔をした。俺は椅子を指した。俺の椅子ではない。壁際の、誰も座らない椅子だ。娘は座った。
「今日は、座って報告しろ」
「……はい」
それだけのことだった。それだけのことを、俺は前の晩に考えていた。
◇
エリスが来たのは誕生日の三日前だった。
二階から職員が駆け上がってきた。「エリス様が」と言って、それ以上言えなかった。俺は扉を開けた。
エリスは階段の途中に立っていた。
足が、震えていた。呪いだ。この女には効く。何十年経っても、効く。それでも、階段を上がってきた。俺の前に立つために。何十年前と同じだ。あのときは剣を持っていた。今は持っていなかった。
「……何の用だ」
「言いに来ただけよ」
エリスは震える足で、あと二段上がった。
「うちの子、泣かせたら、殴るわよ」
「……そうか」
「殴れなくても、殴るわよ」
「……ああ」
エリスはそれだけ言って、階段を降りていった。手すりを握っていた。握らないと、降りられなかったのだと思う。
俺は扉を閉めた。
殴らないで済む、と言ったと、ルーデウスから聞いた。その女が、殴ると言いに来た。矛盾している。していない。あの女は許可を出して、条件をつけに来た。それがあの女のやり方だ。
条件は、守る。
◇
ルーデウスが来た。
四十五になった。髪の白いものが増えた。体は前より細い。だが、まだ魔導鎧を着る。着て、傭兵団を回している。俺の記録を整えている。娘を守っている。
「北の噂、読みました」
「娘から聞いた」
「……同じ相手ですか」
「同じ種類だ。娘にも、そう言った」
ルーデウスは頷いた。
「オルステッド」
「なんだ」
「娘は、来週十五になります」
「知っている」
「……十五になったら、返事を聞くと言っています。三年前の『分からん』の、続きを」
俺は何も言わなかった。
「あなたに、聞きたいことがあります。上司としてではなく」
「……言え」
「娘を、どう思っていますか」
ルーデウスは俺を見ていた。困った顔ではなかった。困った顔をやめた父親の顔だった。
俺は少し考えた。
「三年前、分からんと言った」
「はい」
「今は、違う」
「……違う、というのは」
「分かっている」
ルーデウスは息を吸って、吐いた。
「……それを、娘に言いますか」
「娘が、聞きに来たら」
「来ます」
「なら、言う」
ルーデウスは長い間、黙っていた。それから、頭を下げた。
「……お願いします」
俺はこの男が「お願いします」と言うのを、初めて聞いた気がした。いや、何度も聞いた。だが、この意味で聞いたのは初めてだった。
「……家の方は」
俺は聞いた。聞く必要はなかった。だが、聞いた。
「シルフィは止めないと言っています。十年前から、そう言っています。ロキシーは十年前に『十年後にも同じことを言っていたら、尊重して見守る』と言いました。……十年、経ちました」
「そうか」
「エリスは」
ルーデウスは少し口の端を動かした。
「『殴らないで済むわね』と」
「……そうか」
俺はエリスを知っている。あの女は俺を殴ろうとした。何度か。全部、失敗した。それでも、殴ろうとした。その女が殴らないで済む、と言った。
それはあの女なりの、許可だった。
◇
前の晩、俺は眠らなかった。
眠る必要はなかった。俺の体は眠らなくても動く。だが、いつもは、眠る。癖だ。何百年の癖だ。
その癖をやめて、座っていた。
言葉を、探していた。
三年前、探して、見つからなかった。「分からん」しか、なかった。それから三年、毎日娘の報告を聞いた。毎日質問をした。毎晩窓から空き地を見た。半年前、空き地に降りて、聞かないと言った。
三年で、俺の中に言葉が、溜まっていた。
溜まっていることに気づいたのは、この晩だった。
娘の中に減らない魔力が溜まっていくように、俺の中には、言葉が溜まっていた。娘のそれは出す場所がない。俺のそれは、明日、ある。
俺は引き出しを開けた。七冊の帳面と、二枚の紙。もう一度、全部読んだ。三年前に読んだときより時間がかかった。読むたびに、時間がかかる。情報ではないからだ。情報なら一度で頭に入る。これは入らない。入らないので何度も読む。
夜が明けた。
俺は兜を机の上に置いた。
かぶるかどうか、迷った。迷って、かぶった。娘が「取れ」と言うだろう。言われたら、取る。それが俺と娘の、やり方だ。
◇
十五の誕生日。
娘は父親と一緒に来た。
朝だった。扉が叩かれた。俺は開けた。娘が立っていた。後ろに、ルーデウス。娘はいつもの服ではなかった。母親が選んだのだろう。少し、大人の服だった。
「オルステッド様。今日は、報告が二つあります」
「……聞く」
娘は部屋に入って、机の前に立った。ルーデウスは扉のそばに立った。七年前と同じ位置だ。
娘は父親の方を向いた。
「お父さん。報告があります」
「……はい」
ルーデウスの声が少しだけ、上ずった。
「十五になりました。今日、オルステッド様に返事をもらいます。その前に、私から、言います。……お父さんに先に言っておきます」
「うん」
「私は、オルステッド様が好きです。五歳のときから、変わりませんでした」
ルーデウスは頷いた。何も言わなかった。言えなかったのだと思う。
娘は俺の方を向いた。
腰に手を当てた。胸を張った。顎を上げた。
七年前と同じ姿勢だった。だが、七年前とは、違った。様になっていた。エリスの真似ではなかった。この娘の、姿勢だった。
「オルステッド様。私は、あなたが好きです。五歳のときから、変わりませんでした。……返事を、ください」
◇
俺は立ち上がった。
三年前は座ったままだった。立てば、見下ろす。それが違うと思った。今は、違う。立って、向かい合う。それが正しい気がした。
娘は俺を見上げていた。少しだけだ。三年前より角度が浅い。
俺は言葉を探した。
何百年、探したことのない言葉だ。三年前も、探した。見つからなかった。「分からん」しか、なかった。
今は、ある。
「……ナマエ」
娘の息が、止まった。
名前を、呼んだ。初めてだ。七年前から呼ばなかった。呼べば、何かが変わると思った。変わった。何が変わったのかはまだ分からない。だが、呼んだ。
「……はい」
娘の声が震えていた。
「俺は、約束ができない」
俺は言った。
「二百年の周期の外に、俺はいない。人神と戦う。それが、俺の全部だ。勝てるかどうかも、分からん。勝っても、その後に何があるかも、分からん。普通の暮らしというものを、俺は知らん。与えることも、できん」
「……はい」
「お前は、狙われる。俺の隣にいる限り。二年前より、悪い形で。それは、変わらん」
「はい」
「それでも」
俺はそこで、言葉を切った。
切ったのは迷ったからではない。息をしなければならなかったからだ。何百年、言葉のために息をしたことがなかった。
「それでも、お前が隣にいることを、俺は、断らん。……断らん、ではない」
俺は言い直した。
「望んでいる。お前が、隣にいることを」
娘は動かなかった。
俺は机の引き出しを開けた。
七冊の帳面。二枚の紙。三年前からそこにある。俺はそれを机の上に置いた。
「忘れんと、言った」
娘はそれを見た。
「七年前だ。お前は、忘れないでと言った。俺は、忘れんと言った。……忘れなかった。眠っている間も、起きてからも、一日も」
娘は二枚の紙を見た。五歳のときに描いた、銀色の髪の人間と、その隣の小さい人間。目を開けている方と、目を閉じている方。
「……返事です、か」
「返事だ」
娘はしばらく、動かなかった。
それから、腰に当てていた手を下ろした。
泣いた。
この娘が泣くのを、俺は初めて見た。七年前も泣かなかった。地下で俺が眠るときも。曾祖母の傷を移したときも。俺の前では泣かなかった。
今、泣いた。
俺はどうしていいか、分からなかった。分からなかったので、手を娘の頭に置いた。七年前と同じように。壊れ物を扱うように。あの手は二年前に、この娘の傷を閉じた手だ。
娘は泣きながら、頷いた。
◇
「……社長」
扉のそばでルーデウスが言った。
「なんだ」
「娘は、十五です」
「知っている」
「……はい」
「急がん。俺には、時間の使い方だけは、分かっている。何百年、それだけをやってきた」
「……はい」
「お前が、父親として、言うべきことがあるなら、言え」
ルーデウスは少し考えた。考えて、言った。
「……娘を、泣かせないでください」
「今、泣いている」
「それは、いいんです」
ルーデウスはそう言って、目元を拭った。
娘が笑った。泣きながら、笑った。
「お父さん、報告、終わりました」
「……うん」
「オルステッド様。報告、終わりました」
「……ああ」
「質問は、ありますか」
俺は少し考えた。
「……兜を、取るか」
「はい」
俺は兜を外した。
娘は俺の顔を見た。七年前は、見上げた。三年前は少し見上げた。今は、もっと少しだ。
「……変わってない」
「変わらん」
「私は?」
「変わった」
「どこが」
「……全部だ」
娘は笑った。
「三年前は、分からないって言いました」
「今は、分かる」
「じゃあ、また報告します。変わったところを。毎日」
「……聞く」
娘はそれから、少し真面目な顔になった。
「もうひとつ、報告があります。二つ目です」
「……聞く」
「私は、この事務所で働き続けます。書類を並べて、報告をして、質問に答えます。……それから、狙われます。オルステッド様の隣にいる限り。それは、分かっています。分かっていて、隣にいます」
「……ああ」
「それから、お願いが、ひとつ」
「言え」
娘は少しだけ頬を赤くした。
「毎日、名前で、呼んでください」
俺は少し黙った。
「……ナマエ」
「はい」
「明日も、呼ぶ」
「はい」
「以上か」
「以上です」
娘はそう言って、頭を下げた。
ルーデウスが扉のそばで、天井を見ていた。天井には何もない。あの男は困ると、天井を見る。十年前から、そうだ。
◇
二人が階段を降りていく音を、聞いていた。
二階で声がした。受付の職員の声だった。「ナマエちゃん、目が赤いよ」。娘の声。「返事、もらった」。それから、沈黙。それから、職員の小さな悲鳴のような声。喜んでいる声だと後で分かった。恐怖の声と、喜びの声は似ている。似ているが、違う。俺はその違いを、この三年で、少しだけ覚えた。
ルーデウスの声が、「静かに」と言っていた。静かにならなかった。
◇
二人が帰った後、俺は一人で座っていた。
机の上に七冊の帳面と、二枚の紙。俺はそれを引き出しに戻さなかった。戻す理由がなくなった。
窓の外を見た。
シャリーアの町並みがある。十年前、俺はここから同じものを見ていた。五歳の娘に求婚された日だ。あのとき、俺は何を見ていたのか。何も見ていなかった。見えるものがなかった。
今は、ある。
娘は何かを、俺に言わないと決めている。
俺はそれを知っている。あの日から、娘の中で何かが変わった。曾祖母の呪いが消えた。娘の中に減らない魔力が溜まっていく。それが何を意味するのか、俺には見当がつく。確かめてはいない。
だが、聞かない。
あの娘は報告する娘だ。言うと決めたら、言う。言わないと決めていることは、言わないと決めた理由がある。その理由も見当はつく。見当がつくから、聞かない。
聞けば、娘は答える。答えれば、俺は考える。人神と戦うために、それが必要かどうかを。娘はそれを、させたくないのだろう。
俺はそれを、させない。
娘が言うと決めた日に、聞く。それまで、待つ。
待つのは得意だ。何百年、そうしてきた。
……いや。
違う。
何百年、俺は、待っていたのではない。繰り返していただけだ。待つというのは待つ相手がいることだ。
今は、いる。
明日も、扉が叩かれる。足音が階段を上がってくる。止まる前に、俺は立ち上がる。扉を開ける。娘が入ってくる。報告をする。俺が質問をする。
それが、俺の、明日だ。
何百年で、初めて、明日というものが、あった。
俺は五冊目の帳面を開いた。
三年前に目を止めた一行がある。
「あまったぶんを、わたせたら、いいのに」
三年前は意味が分からなかった。分からないまま、覚えた。
今は見当がつく。
娘はあの日、猫の傷を治して余った魔力を床にこぼした。こぼれた分を、床の下の俺に渡せたらと思った。十歳で、そう思った。そして、十三で曾祖母の体を引き受けた。魔力の溜まる体を。傷と一緒に。
娘はそれを、俺に渡せるものだと考えているのかもしれない。
渡せるのかどうか、俺には分からん。あの女の体が何のために作られたのか、俺は知らん。娘はクリフに調べさせただろう。クリフが何を言ったのかも、俺は知らん。聞いていない。
だが、娘が渡さないと決めていることは、分かる。渡せると考えていて、渡さないと決めている。理由は言わない。言わない理由は見当がつく。
俺は帳面を閉じた。
あの娘が渡さないと決めたものを、俺は求めない。それがあの娘の決めたことへの、俺の返事だ。言葉にはしない。言葉にすれば、娘は俺が見当をつけていることを知る。知れば、娘はまた何かを決める。決めさせない。
これも、待つことだ。
◇
人神との戦いは、続く。
北の噂は消えない。作られた兵はまた来る。娘は、狙われる。俺の隣にいる限り。
それでも、娘は隣にいる。
俺はそれを、断らなかった。
断らなかったことを、俺は後悔しない。何百年、後悔というものをしなかった。する余裕がなかった。今は、ある。あるが、しない。
娘の名前を、俺はもう一度、口にした。
誰もいない部屋で。
「……ナマエ」
返事は、なかった。
明日、聞く。
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