home / 第五話「十三歳の傷」

 ミリスからシャリーアまでの道は、長い。

 私はその道をもう何十回も往復している。若いころはもっと長かった。転移魔法陣が使えるようになってから、随分と短くなった。それでも、長い。長いのは道のせいではない。私が途中で何度も止まるからだ。

 止まるのは呪いのせいである。

 説明するのはもう飽きた。だが、書いておく。私には呪いがある。体の中に魔力が溜まり、溜まったままだと大きくなって、死ぬ。出すには男の精を受けて結晶にするしかない。だから、定期的に男と交わる。相手は誰でもいい。誰でもいいというのが、この呪いの一番性質の悪いところだ。

 クリフの魔道具ができてからは、一年くらいは持つようになった。それでも、なくなりはしない。

 何百年、これと一緒に生きてきた。

 最初のころは呪いだと思っていなかった。ただ、そういう体なのだと思っていた。呪いだと知ったのは随分後だ。知ったところで何も変わらなかった。出す相手を探して、出して、また探す。それだけだ。

 変わったのはクリフに会ってからだ。

 あの人は私の呪いを解こうとしている。もう何十年も。解けない。解けないと分かっていて続けている。私はそれを馬鹿だと思う。馬鹿だと思いながら、あの人の隣にいる。あの人が研究をやめたら、私はたぶんあの人の隣にいられなくなる。そういう、卑怯な理屈で。

 ルーデウスから手紙が来たのは半月前だった。

 オルステッドが目を覚ましたこと。龍狩りという一派が動き始めること。ミリスの近くに、治癒の効かない傷を負わせる者がいるかもしれないこと。だから、近づくな、と。

 近づくな、というのはオルステッドの言葉だそうだ。

 私は手紙を読んで、荷物をまとめた。近づくな、と言われて近づかない女なら、何百年も生きていない。それに、シャリーアには曾孫がいる。曾孫が、狙われている。

 私はその子に呪いの話をした。三年前に。

 あのときは話してよかったと思った。今もそう思っている。だが、あの子があの話をどう覚えたのか、私は知らない。知らないことは確かめに行くしかない。

     ◇

 シャリーアのグレイラット家に着いたのは昼過ぎだった。

 ナマエが玄関に出てきた。

 十三になっていた。

 背がまた伸びていた。私の目の高さにもう少しで届く。髪は母親と同じ色で、少し癖があって、それを後ろでまとめていた。顔は父親に似ている。目だけは少し違う。父親の目はいつも困っている。この子の目は困っていない。決めている目だ。

 それから、私には分かることがもうひとつあった。

 この子はもうすぐ女になる。

 体つきで分かる。何百年も女を見てきた。娘たちも、孫たちも、そうやって女になっていくのを見た。あと一年。早ければ、半年。

「エリナリーゼさん。いらっしゃい」

「ナマエ。大きくなったわねぇ」

「半年前にも会いました」

「半年で大きくなるのよ、その年頃は」

 私はいつもの手順で、この子の髪を撫でた。この子は撫でられるままになっていた。十三になっても嫌がらなかった。嫌がらないのは私が曾祖母だからではない。この子は手を覚える子だ。誰の手が、どういう手か。私はそれを三年前の夕食で気づいた。

「オルステッド様は起きたんですって?」

「はい。一年前に」

「返事はもらったの?」

「まだ、分からないって」

「あら」

 私は笑った。あの男が「分からない」と言ったのか。あの、何もかも知っているような顔をした男が。

「それはいい返事ね」

「どうしてですか」

「分からないって言えるのは考えてるからよ。断る相手のことは考えないもの」

 ナマエは少しだけ頬を赤くした。

 この子が赤くなるのを、私は初めて見た。

 家の中は少し変わっていた。

 結界が強くなっている。玄関をくぐるときに、肌で分かった。ロキシーの仕事だろう。廊下の窓には全部鍵が増えていた。庭にはエリスの門下生が二人、何もしていない顔で立っていた。何もしていない顔で立っている人間は、たいてい何かをしている。

「物々しいわねぇ」

「オルステッド様が起きてからこうなりました」

 ナマエは当たり前のように言った。

「狙われてるって、言われました。オルステッド様から、直接」

「怖くないの?」

「怖いです」

 ナマエは即答した。

「でも、七年前からそうだったので」

 私はそれ以上聞かなかった。

 夕食には全員がいた。ルーデウスは私を見て、手紙のことを言いかけて、やめた。近づくな、と書いた本人が、私を止められないことをよく知っている。シルフィは笑って「来ると思ってた」と言った。ロキシーは私の盾を見て、「新しいですね」と言った。新しかった。ミリスで買った。古いのは三年前に壊れた。

 エリスは私を見て頷いただけだった。

 エリスとは昔からそういう関係だ。話すことはあまりない。だが、あの子は私の盾を見て、私の足を見て、私がまだ戦えるかどうかを、一目で確かめた。確かめて、頷いた。それで十分だった。

     ◇

 夕食の後、ナマエが私の部屋に来た。

 来るだろうと思っていた。三年前と同じ顔をしていたからだ。何かを聞きたい顔。何かを覚えた顔。

「エリナリーゼさん。呪いの話、もう少し聞いていいですか」

「いいわよ。何を?」

「呪いがあるって、どういう感じですか」

 私は少し考えた。

「重いわね」

「重い?」

「体の、ここに」

 私は自分の腹の下に手を当てた。

「ここに、いつも何かがある。重い。溜まってくると、もっと重くなる。出すと、軽くなる。でも、なくならない。なくなったことは一度もない。何百年も」

「……なくなったら、どうなりますか」

「分からないわ。なくなったことがないもの」

 ナマエは頷いた。

「クリフさんが見つけた『移す』方法はどういうものですか」

「それは、教えない」

 私ははっきりと言った。

「あなたには、関係のないことよ」

「でも」

「でも、じゃないの。あれは移された人が死ぬ方法よ。クリフはそれを使わない。私も、使わせない。あなたが知る必要はないし、知ったところで、使う場面はないわ」

「……そうですね」

 ナマエは素直に引いた。引いたが、納得はしていなかった。この子の「そうですね」はルーデウスの「え」と同じだ。聞いた、という意味であって、従う、という意味ではない。

 私はそれを分かっていて、それ以上言わなかった。

 言わなかったことを、私は今、少しだけ後悔している。少しだけ、だ。

     ◇

 翌日、私はナマエと一緒に事務所に行くことにした。

 オルステッドに挨拶をするためだ。あの男には呪いが効く。私はあの男の前に立つと、足が震える。何百年生きても、変わらない。それでも、挨拶くらいはできる。曾孫が七年待った男だ。顔くらい見ておきたかった。

 ジークが一緒に来た。剣を持って。何も言わずに。

 ナマエが「兄は、その辺に用があるんです」と言った。私は笑った。ジークは笑わなかった。

 事務所までの道はシャリーアの町中を通る。人が多い。昼間で、明るい。何かが起きるような道ではなかった。

 道の途中でナマエが言った。

「エリナリーゼさん。呪いって、いつなくなると思いますか」

「なくならないわよ」

「クリフさんが、解いたら」

「解けないわ。あの人が何十年やっても、解けなかった。……解けたら、私はどうなるのかしらね」

「軽くなります」

「そうね。軽くなって、それから、どうするのかしら」

 私は本当に、分からなかった。何百年、あの重さと一緒にいた。なくなった後の自分を想像したことがなかった。

「クリフさんと一緒にいると思います」

 ナマエはそう言った。

「今と、同じで」

 私は笑った。

「そうね。たぶん、そう」

 起きた。

 最初に気づいたのはジークだった。剣に手をかけた。私はそれを見て、自分の盾を構えた。何が来るのかはまだ分からなかった。だが、ジークが剣に手をかけるときは、何かが来る。

 来たのは、女だった。

 人混みの中から普通に歩いてきた。普通の服。普通の顔。手に、短い刃物。それだけだった。周りの誰もその女を見ていなかった。見えていないのかもしれない。私には、見えた。

 女はナマエを見ていた。

「ナマエ、後ろに」

 私は前に出た。

 ジークが剣を抜いた。女はそれを気にしなかった。まっすぐ、ナマエに向かって歩いてきた。ジークが、斬った。当たった。当たって、女は少しだけよろけた。それだけだった。血は出なかった。

「……人間じゃないわね」

 私はそう言った。何百年、冒険者をやってきた。人間でないものはたくさん見た。だが、これはそのどれとも違った。

 女が刃物を振った。

 私は盾で受けた。受けたはずだった。盾が、切れた。盾ごと、私の腕が切れた。血が出た。

 痛みは後から来た。

 女はもう一度、刃物を振った。今度は、ナマエに向かって。私は間に入った。盾はもうなかった。腕で受けた。腕を、抜けた。腹に、入った。

 熱かった。

 何百年、生きてきた。刺されたことは何度もある。斬られたことも。だが、これは違った。傷が、閉じない。体が、閉じようとしない。閉じるという機能が、この傷の周りだけ、なくなっていた。

 治癒の効かない傷。

 ルーデウスの手紙に書いてあった。

 私は膝をついた。

 ジークが女を斬った。今度は、首だった。女の首が、落ちた。落ちて、女の体が崩れた。人間でないものは首を落とせば止まる。それだけはたいてい、変わらない。

 止まった。

 だが、私の傷も止まらなかった。

     ◇

 ナマエが私の隣にいた。

 膝をついて、私の腹に手を当てていた。光が出た。上級の治癒だ。十三の子が、上級の治癒を使う。ルーデウスの娘だ。当たり前だ。

 傷は閉じなかった。

「……エリナリーゼさん」

「大丈夫よ」

 大丈夫ではなかった。血が止まらない。私は自分の体を知っている。何百年、この体と一緒にいた。この傷は閉じない。閉じないなら、私は死ぬ。呪いで死ぬのだと、ずっと思っていた。刃物で死ぬとは思っていなかった。

 それも、悪くないと少しだけ思った。

 ジークが走っていった。父親を呼びに行ったのだと分かった。ルーデウスなら王級の治癒が使える。それでも、閉じないだろう。この傷はそういう傷だ。

「エリナリーゼさん。動かないでください」

 ナマエの声が、変わった。

 私はナマエの顔を見た。

 決めた顔だった。

「……ナマエ。何をする気」

「治します」

「上級じゃ、治らないわ」

「上級じゃ、ありません」

 ナマエは私の腹に当てた手を、離さなかった。もう片方の手を自分の腹に当てた。

 私はそれを見て、分かった。

「やめなさい」

「動かないでください」

「ナマエ。やめなさい。それは」

「分かってます」

 ナマエは私を見た。

「呪いも、一緒に移るかもしれない。先生にそう言われました。エリナリーゼさんにも聞きました。移された人が、死ぬかもしれない、って」

「分かってるなら」

「エリナリーゼさんは、もう、死にそうです」

 私は何も言えなかった。

 そのとおりだった。

「私は、魔力が余ってます。余った分を渡せたらいいのにって、ずっと思ってました。……傷を渡してもらうのも、たぶん同じことです」

 同じではない。同じではないと、私は言いたかった。言えなかった。血が口に上がってきていた。

 ナマエの手が光った。

 治癒の光ではなかった。もっと、暗い光だった。光と呼んでいいのかどうかも分からない。私の腹から、何かが、引き抜かれる感じがした。傷が、引き抜かれる。痛みが、引き抜かれる。血が、止まった。

 それから。

 重さが、なくなった。

 私は息を止めた。

 腹の下の、あの重さ。何百年、そこにあったもの。溜まって、出して、また溜まって、なくなったことのないもの。それが、なくなった。引き抜かれた。傷と一緒に。

 私は自分の腹に手を当てた。

 何も、なかった。

 軽かった。軽いというのがこういうことだと、私は初めて知った。

「……ナマエ」

 ナマエは私の隣で、倒れていた。

 腹を押さえていた。押さえている指の間から、血が出ていた。私の傷がそこにあった。私の傷と、私の呪いが。

「ナマエ!」

 私は叫んだ。何百年、叫んだことがなかった。

     ◇

 オルステッドが、来た。

 ルーデウスより早かった。どこから来たのか、分からない。気づいたら、そこにいた。兜をかぶっていた。私は足が震えた。この状況で、震えた。呪いというのはそういうものだ。

 オルステッドは私を見なかった。

 ナマエを見た。

 膝をついて、ナマエの腹に手を当てた。

 光が出た。私が見たことのない光だった。治癒だ。だが、私の知っている治癒ではない。もっと古い、もっと強い、何かだ。

 傷が、閉じた。

 私の傷が。私の体で閉じなかった傷が、ナマエの体で、閉じた。

 閉じたのはオルステッドの治癒のせいなのか、ナマエの魔力のせいなのか、私には分からない。たぶん、両方だ。あの傷は閉じるという機能を奪う傷だった。奪われたものを、あの男が力ずくで戻した。それだけの魔力を使った。

 あの男の魔力は戻らない。私はそれを知っている。何百年、あの男は魔力を惜しんできた。惜しんで、惜しんで、一年前まで、七年眠った。その魔力を、今、使った。

 惜しまなかった。

 私は震える足で、それを見ていた。

「……ルーデウスは」

 オルステッドが言った。私にではなかった。誰にでもなかった。

「来ます。ジークが、呼びに」

 私は答えた。声が震えていた。

 オルステッドはナマエを抱え上げた。

 抱え上げて、私を見た。兜の奥の目は見えない。だが、見られた。私は何百年ぶりかで、この男に見られた。

「……お前の傷は」

「閉じました。……この子が」

「そうか」

 それだけだった。

 オルステッドはナマエを抱えたまま、歩き出した。グレイラット家の方へ。私は後を追った。追いながら、自分の腹に何度も手を当てた。

 何も、なかった。

     ◇

 クリフが来たのはその日の夜だった。

 ルーデウスが転移魔法陣で呼んだ。私は居間の椅子に座って、クリフが入ってくるのを見ていた。

 クリフは私を見た。

 私は何も言わなかった。言う前に、あの人は分かった。分かる人だ。何十年、私の呪いを見てきた人だ。

「……エリナリーゼ」

「ええ」

「……ない」

「ないわ」

 クリフはその場に座り込んだ。

 泣いた。

 私はこの人が泣くのを、何度か見たことがある。だが、こういう泣き方は初めてだった。声を出さずに、ただ、座って、泣いた。

 私は隣に座った。

「……ナマエが」

「ええ」

「あの子に」

「ええ」

 クリフは顔を上げた。

「……調べる。今すぐ」

     ◇

 ナマエは二階の部屋で寝ていた。

 傷は閉じていた。オルステッドはナマエを寝かせて、何も言わずに帰った。帰る前に、ルーデウスに何か短く言った。私には聞こえなかった。

 オルステッドが帰る前に何を言ったのか、私は後でルーデウスに聞いた。

「『呪いは、効かなかったのか』と」

「……何の?」

「龍狩りの兵の。目を合わせると動けなくなる。七年前も、そうでした。今回もナマエは動けなかったはずです。でも、あの子は動いた。エリナリーゼさんの傷に手を当てた」

 私は思い出した。あの女が私を刺した後。ナマエは動いた。私の隣に来て、膝をついて、手を当てた。動けないはずだった。

「あの子は動けなかった、と言っています。動けなかったけど、動いた、と」

「……どういうこと」

「分かりません。オルステッドも分からないと言っていました。ただ、『覚えておく』と」

 私は何も言わなかった。

 あの子は決めたら、動く。動けなくても、動く。それは呪いや魔術の話ではない気がした。だが、私は魔術師ではない。分からないことは、分からないままにしておく。

 クリフがナマエを調べた。ロキシーも一緒に。一晩、かかった。

 結果を、クリフは居間で全員に話した。ルーデウス、シルフィ、ロキシー、エリス。それから、私。

「呪いは、移っている。間違いない」

 全員が黙った。

「だが、エリナリーゼの場合と違う点がある。魔力の量だ」

 クリフはそこで、少し言葉を選んだ。

「エリナリーゼの呪いは、魔力が溜まると体を侵す。体が耐えられる量には上限がある。エリナリーゼの器はその上限が低い。溜まる魔力はすぐに上限に届く。だから、届く前に、出さないと死ぬ」

「ナマエは」

 ルーデウスが言った。

「ナマエの器は遥かに大きい。上限に届くまでに、何十年もかかる。それに、僕の魔道具がある。エリナリーゼで一年持つものが、ナマエならもっと持つ。……溜まった魔力は、魔術で使っても減らない。それはエリナリーゼと同じだ。減らすにはエリナリーゼと同じ方法しかない。だが、その必要が来るまでが、遠い」

「つまり」

「死なない。……たぶん」

「たぶん?」

「呪いだ。絶対はない。だが、少なくともエリナリーゼが何百年苦しんだ形では、あの子は苦しまない。使い続けていれば」

 ルーデウスは長い息を吐いた。

「……それから」

 クリフは続けた。

「僕は、この体は、魔力を溜めて誰かに渡すために作られたものだと考えてきた。エリナリーゼの体では、渡す先がなかった。溜めて、結晶にして、それで終わりだった。作りかけの道具だ」

 クリフはそこで、少し言葉を選んだ。

「ナマエに移って、調べ直した。溜める性質は、ある。結晶にする性質も、ある。そして……渡す性質も、ある。交わることで、相手に魔力を渡す。エリナリーゼの体では、溜まる量に体が耐えられず、渡す前に出すしかなかった。ナマエの体は耐えられる。だから、渡せる。……理屈の上では、だが」

 誰も何も言わなかった。

 私は自分の腹に手を当てていた。癖だ。何百年の癖だ。もう、そこには何もない。それでも、当てた。

「……で、どうすんのよ」

 エリスが言った。

「呪いが移った。死なない。渡せる。分かったわ。で、どうすんの」

「……ナマエが起きてから本人に聞く」

 ルーデウスが言った。

「本人に? 十三よ」

「十三でも、本人だ。あの子が決めたことだ。あの子が次にどうするか決める」

 エリスは何か言おうとして、やめた。やめて、私を見た。

「エリナリーゼ」

「なに」

「あんた、軽くなったの」

「……ええ」

「よかったじゃない」

 エリスはそれだけ言って、部屋を出ていった。

 あの子はそういうところがある。私が何百年、重かったことを、たぶん誰よりも分かっていなかった。分かっていなかったから、一番まっすぐに「よかった」と言えた。私は少し泣きそうになった。泣かなかった。

 シルフィが私の隣に来て、座った。

「おばあちゃん」

「その呼び方はやめなさいって」

「今日だけ」

 シルフィは私の肩に頭を乗せた。

「よかったね」

「……ええ」

「ナマエのこと、心配?」

「心配よ。……でも、あの子は私より上手く扱うわ。もう、分かってる」

 ロキシーは何も言わずに、クリフの書いた紙を読み返していた。何度も。あの人は分からないことがあると、そうする。分かるまで、読む。

     ◇

 ナマエが目を覚ましたのは翌朝だった。

 最初にルーデウスを呼んだ。

 私は部屋の外にいた。聞くつもりはなかった。だが、扉が少し開いていた。

「お父さん。報告があります」

「……聞くよ」

「エリナリーゼさんの傷を私に移しました。呪いも、一緒に移りました。分かってて、やりました」

「……うん。クリフさんから聞いた」

「死なないって、言われました」

「うん」

「クリフさんが言うには、渡す性質があるって。エリナリーゼさんの体では使えなかった性質が、私の体だと使えるって」

「……うん」

 沈黙。

 それから、ナマエが言った。

「お父さん。お願いがあります」

「なんだい」

「オルステッド様には、言わないでください」

 私は扉の外で、息を止めた。

「……どうして」

 ルーデウスの声は静かだった。

「魔力を、渡せます。私が。オルステッド様に。……でも、渡すには交わらないといけません」

「……うん」

「オルステッド様は、私のことを分からないって言いました。好きとも、嫌いとも言ってません。……そういう人に、魔力を渡せるから交わってくれって言ったら、それは迫ってるのと同じです」

 ルーデウスは何も言わなかった。

「私は、それは、しません。……だから、言いません。渡せることを知られたくないです。知ったら、あの人はたぶん、考えます。人神と戦うために、必要かどうか。……考えさせたくないです」

 長い、沈黙があった。

「……分かった」

 ルーデウスが言った。

「言わない。家族にも言わないように言う」

「ありがとうございます」

「ナマエ」

「はい」

「……お前は、報告が上手いな」

「お父さんが、教えました」

 私は扉から離れた。

 昼過ぎにナマエは居間に降りてきた。

 全員の前で正座をした。十三の正座は様になっていた。五歳のときとは違うのだと、ルーデウスが後で言った。

「報告があります」

 ナマエは父親に言ったことを、もう一度全員に言った。移したこと。移ったこと。死なないこと。渡せること。そして、オルステッドには言わないこと。

 全員が黙って聞いた。

 最後にナマエは言った。

「みんなにも、お願いします。オルステッド様には、言わないでください」

 シルフィは頷いた。ロキシーも頷いた。

 エリスは腕を組んでいた。

「言わないわよ。……でも、聞くわ。あんた、それでいいの」

「いいです」

「言えば、オルステッドの魔力が戻るかもしれないのよ。あいつは魔力のために七年も寝たのよ。これから先も、足りなくなるたびに寝るのよ。あんたが言えば、それが変わるかもしれないのよ」

「はい」

「それでも、言わないの」

「言いません」

 ナマエはエリスを見た。

「赤ママ。好きでもない相手に、魔力を渡せるから交わってくれって言われたら、どうしますか」

 エリスは少し黙った。

「……殴るわね」

「私は、殴られたくないです。オルステッド様に」

 エリスは笑った。声を出して笑った。それから、「分かったわ」と言った。

 それで家族会議は終わった。

     ◇

 その夜、私はナマエの部屋に行った。

 ナマエは起きていた。寝台に座って、窓の外を見ていた。

「エリナリーゼさん」

「聞いたわ。ルーデウスに、言ったこと」

「……盗み聞きですか」

「そうよ。何百年、そうやって生きてきたの」

 私は寝台の端に座った。

「どうして、私を助けたの」

「死にそうだったから」

「それだけ?」

「それだけです」

 私は笑った。

「あなたのお父さんも同じことを言うのよ。困った人を見ると、理由もなく助ける。理由を聞くと、困った顔をする。……あなたは困った顔をしないのね」

「困ってません。決めたことなので」

「そう」

 私はナマエの髪を撫でた。この子は撫でられるままになっていた。

「ナマエ。教えておくわ。私が、何百年かけて覚えたこと」

「はい」

「クリフの魔道具を外さないこと。それから、何年かに一度クリフに診てもらうこと。溜まった魔力は魔術を使っても減らないわ。私はそれを知るのに、百年かかった。……あなたは、上限まで遠い。遠いけど、近づいてくる感覚は、覚えておきなさい。ここが、重くなる感覚を」

「はい」

「それから、もうひとつ」

 私は少し迷った。迷って、言った。

「渡せるからって、渡さなくていい。……私のは出すだけだった。出すために相手を選べなかった。誰でもよかった。誰でもいいから、受けた。あなたのは違う。渡すためのものだと、クリフは言った。渡す相手を選べる。選べるなら、選びなさい。選ばないのも選ぶことよ」

 ナマエは私を見た。

「エリナリーゼさんは選べなかったんですか」

「選べなかったわ。……クリフに会うまで」

 私はそう言って、立ち上がった。

「クリフはね、今泣いてるのよ。あなたに移ったことで。私が助かったことで。両方で。……あの人はそういう人なの。だから、私は、あの人を選んだ」

「はい」

「あなたも、そういう人を選びなさい。……七年待った相手が、そうだといいわね」

 ナマエは答えなかった。

 答えなかったが、少しだけ頬が赤かった。

     ◇

 私がシャリーアを発ったのは三日後だった。

 オルステッドには会わなかった。会いに行く勇気がなかった。あの男は私に「お前の傷は」と聞いた。何百年で、初めてだった。それで十分だった。

 クリフは先に帰った。研究を続けるそうだ。解く方法ではない。移った呪いを、ナマエの中で少しでも軽くする方法。私はそれでいいと思った。あの人は研究をやめない。やめないなら、私は隣にいられる。

 ナマエは玄関まで送ってくれた。

「エリナリーゼさん。また、来てください」

「来るわ。……ねえ、ナマエ」

「はい」

「今、ここ、重い?」

 私は自分の腹の下を指した。

 ナマエは自分の腹に手を当てた。

「……少し」

「そう」

「でも、まだ、遠いです。クリフさんがそう言ってました」

「そうね」

 私はこの子の髪を、最後にもう一度撫でた。

 それから、歩き出した。

 腹の下は軽かった。何百年で、初めて。私はそれを道の途中で、何度も確かめた。確かめるたびに、あの子の「少し」を思い出した。

 私の呪いは今、十三の子の中にある。

 その子はそれを、使わないと決めている。渡せる相手が目の前にいるのに。渡せば、あの男の魔力が戻るのに。使わない。好きでもない相手に、迫ることになるから。

 私は、何百年、受ける相手を選べなかった。

 あの子は、渡せる相手を、選ばないことを選んだ。

 これほど無駄で、これほど正しい使い方を、私は知らない。

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