その一番新しい報告によれば、尾形たちはどうやらアイヌの村にいるらしい。
積丹から小樽へと戻ったばかりであるが、鶴見中尉はすぐさま報告にあったアイヌの村へと部下を伴い馬を走らせた。
「…」
ざくざくと雪を踏み締めて進む春臣の胸中はなんとも言い難い感情がひしめき合っている。
元々疑念はあったが、まさか尾形が中央のスパイだったとは。
そのような事は一言も話してくれず、また造反を誘う事すらもなかったのは…やはり自分は尾形にとって信用に足る人物と思えなかったからなのか。
奉天でのあの日からそれなりに覚悟はしていたが、失った信頼はそう簡単には戻らないものだな、と春臣は改めて思う。
「────報告致します鶴見中尉殿!尾形上等兵らは昨日の報告の後、アイヌの村を離れ、谷垣一等卒を追って山に入っております!」
山中から現れた兵士の報告に、鶴見中尉は行軍の足を止めさせ、顎に手を当て思案する。
「谷垣?谷垣 源次郎が近くにいるのか?」
「どうやら怪我を負った谷垣一等卒がアイヌの村で療養していたようで、尾形上等兵らと接触した後、昨夜から一方的に追い立てられているようです」
「そうか。ご苦労だった」
頷いた鶴見中尉は兵士たちに戦闘の準備を言い渡し、再び行軍を始める。
いくら追い追われていても夜の雪山を歩き回る者はそうはいない。きっとどこかで夜を明かしたはずだ。
ならば尾形たちや谷垣との距離は此処からもう遠くはないだろう。
そう考えつつ周りをぐるりと見回した春臣は隊列から外れ山の斜面を登り出す。
「白野!どこへ行く!」
するとそれを見咎めた月島軍曹が小銃を向けつつ鋭く問い質せば、周りの兵士も戸惑いながら銃口を春臣へと向けた。
振り返って一身に向けられる銃口を無言で見つめ、そして隊の先頭にいる鶴見中尉へと目を移せば、相変わらず蛇のような目が春臣を捉えている。
積丹から此処までやけに周りの視線を感じると思ったら…───そうか。尾形同様、造反を疑われているのか。尾形と仲良くやれという命令を出したのは鶴見中尉だと言うのに…酷い話だ。
いつの間にか此方側からの信頼もなくなったらしい。
「月島軍曹殿。相手は尾形です。こうも固まって動いていては良い的だし、奴が真っ先に狙うとしたら狙撃兵である私でしょう。何も出来ずに死ぬなんて御免ですよ」
「だからと言って何も言わず離れるな。勝手な行動は造反と取られても仕方がないぞ」
「では隊列を離れる許可を。距離を取り、狙撃できる位置を見付けねばなりません。尾形を仕留められるのは同じ狙撃兵である私です。鶴見中尉殿にもそう命じられています」
狙撃兵の戦い方だけでなく尾形の事もよく知っているであろう月島軍曹にそう言ってやれば、ぐっと苦虫を噛み潰したように言い淀み、指示を仰ぐべ鶴見中尉へと視線を向ける。
それを受け、暫く無言で春臣を見ていた鶴見中尉だが「…即死はさせるな」とだけ命じると踵を返して再び軍の先頭を歩き始めた。
「…では、許可を頂いたので私はこれで」
「待て、部下を一人付けろ」
「…軍曹殿。狙撃の邪魔です。慣れない者を傍に置いては位置を気取られる確率も上がる」
そこまで言ってしまえば、さすがの月島軍曹ももう言う事がないらしい。呆れたように「好きにしろ」とだけ言うと部下たちを伴って鶴見中尉の後を追って行った。
「…好きにしますとも」
それを見送った春臣は外套を翻して山の斜面に向き直ると、木の枝などを掴んで体を引き寄せ、どんどん上へと登って行った────。
────…まだ雪が残る斜面を登り切り、一度も足を止めないまま山の上を移動し続けていた春臣の呼吸は荒く乱れている。
はぁ、はぁと呼吸をする度に息が白く染まるのを無言で見つめ、そろそろ雪を口に含むべきかと考えた時だった。
「…!」
ダンッと言う短い発砲音が辺りに響いた。
この音は春臣や他の兵士たちも持つ三十年式歩兵銃で間違いない。
だが銃声が上がった場所は鶴見中尉たちの隊が進軍しているであろう予測地点とは少し離れており、春臣のいるこの場の方が音には近い。
鶴見中尉たちが発砲したわけではないなら、考えられるのは尾行の三島か谷垣…それに尾形か。
「…、煙?」
周囲を警戒しつつ空を仰ぎみれば誰かが焚き木でもしているのか、一本だけ煙が上がっている。
銃声が聞こえたのも丁度あの辺だ。
「この辺のマタギ…ではないよな」
足を止めた春臣は一旦そこで呼吸を整え、肩に提げていた小銃を前で持ち直すと、煙が上がる方角へとゆっくり歩を進める。
「、」
すると再び銃声が上がった。
今度の発砲音は先程のものよりも間延びしている。
「…単発銃か?」
マタギが狩りをしているという可能性もなくはないが、直感的に違うと判断した春臣は雪を掬って口へと放ると滑るように斜面を少し下る。
「!」
そうして数メートル斜面を下ったところで視界の端で何かが動いた。
すぐさまその場に屈んだ春臣は双眼鏡を覗き込み、その正体を調べる。
「…兵士とマタギ…?いや、…」
双眼鏡を通して見えたのは二人の男だ。
一人は軍服を着ており、もう一人は薄汚れた外套を纏っている。
「…三島と谷垣か?」
ピントを合わせて見えてきたのはどちらも見知った顔で、尾形の尾行をしている三島と、その尾形が追っているという谷垣だった。
谷垣が手に持っているのは十八年式村田銃…先程聞こえた銃声の正体はこれだ。
二人は近い距離で言葉を交わしており、小銃こそ持ってはいるが、谷垣が発砲した相手が三島ではないという事は一目瞭然だった────。
「だったら、谷垣は誰を撃った…?」
最初に聞こえた銃声は間違いなく三十年式歩兵銃だった。
そうなるとやはり最初の一発は尾形が撃ったと考えるのが妥当だが…────二人は無傷だ。
「…、」
そもそも狙撃を全く警戒していない無防備な三島と谷垣の姿に冷や汗が流れる。
そこまで無防備になれるという事は、狙撃を警戒する必要が無い────即ち、狙撃を行う者を倒したという事…?
「っ」
そこまで考え、双眼鏡から目を離したその瞬間だった。
視界の端で発砲炎が光った。
同時に轟く銃声に、再度覗いた双眼鏡の先では三島が額から血を噴き出し崩れ落ちるところであった。
額を撃ち抜く精密な射撃…
春臣は無意識に止めていた呼吸を息を吐く事で再開させ、安堵の表情を浮かべながら先程発砲炎を見た場所へと双眼鏡を向ける。
下方十時の方向だ。
「、心配して損した…」
そこにいたのは少し咳き込みながら排莢をしている尾形本人であった。
最後に見た時よりも随分と髪が伸びた様子の尾形は、再び小銃を構え谷垣を狙っているようだ。
口角を上げた春臣は双眼鏡を放すと、静かに小銃を構えボルトを操作しその銃口を尾形へと向ける。
今この瞬間、尾形の命は春臣の手の内にある。
どうにも悪くない感覚だった。
ダァンッと銃声が上がる。
しかしそれを撃ったのは春臣でも尾形でもない。
下方より飛翔した銃弾は尾形のすぐ脇にある木の幹にめり込んだようだ。
「…鶴見中尉たちだな」
斜面を下った先に隊を展開しているのは第七師団の兵士たちで、皆銃口を尾形へと向けている。
此処からでは正確な距離こそ測れないが、尾形と兵士たちの間にはおおよそ100メートル以上の距離がありそうだ。
下手な鉄砲数打ちゃ当たるとは言うが…
「…」
手で掬った雪を食み、下の様子を窺っていると兵士たちの動きに変化があった。
木を盾にして尾形との距離を徐々に詰め始めた兵士の様子に、鶴見中尉から尾形の射殺の命令が出た事を悟る。
大方、他の造反者───二階堂でも捕らえたのだろう。第七師団に潜む造反の仲間を吐かせるには一人いれば十分だ。
「悪く思うなよ」
そう呟き、スゥッと狙いを定めた春臣は何の躊躇もなくその引き金を引いた。
ダァンッと轟音を纏って放たれた弾丸は尾形のすぐ横を通り抜け、その先にいる兵士の太腿を撃ち抜く。
「…」
被弾した兵士が堪らず転倒する様子を確認しつつ排莢した春臣は表情を変えぬまま、また別の兵士へと銃口を向け再び足を撃つ。
わざと急所を外して撃ってやれば他の仲間は救助と手当をせねばならなくなる。
また、即死させてしまえば仲間の仇をと闘争意欲を湧かせてしまうが、重症程度に留めておけば、痛みに呻く仲間を見て次に撃たれるのは自分かもしれない…と士気を下げられる。
これはロシア兵相手に戦場でよく使った手だった。
「ハハッ」
思いもよらぬ方角からの援護射撃に、尾形はバッと斜面上方を振り返り驚愕に目を丸くしている。
春臣はと言えば、滅多に見れぬ尾形のその姿に覗いた双眼鏡を揺らして堪らず笑ってしまった。
気を取り直すように双眼鏡から手を離し、排莢をしてから再び小銃を構え直すと、今度は一歩踏み出したばかりの勇気ある兵士の腹を撃ち抜いてやった。
計三発も撃ってやれば、さすがの陸軍最強第七師団といえど怯んだらしく、木の影に隠れたまま出て来なくなった。
その隙に外套を頭まで被った尾形は樹木と雪面に紛れるように斜面を登り、追っ手の第七師団から距離を取って行く。
そうして春臣と尾形の距離がある程度縮まり、目視で互いの顔が確認できるまでになると、尾形はまた目を丸くしそのまま一直線に春臣の元へと駆け寄ってきた。
「やはりお前か」
「やあ尾形。元気そうでなによりだな」
「……俺を追って来たのか?」
「そうだよ。晴れて俺も脱走兵なわけだが…お前責任取れよ」
言いたい事は多々あったが、追われている身なので一先ず言うのはそれだけにし、ぎこちなく髪を撫でつけている尾形に「逃げるぞ」と逃走を促す。
「…──うわ、すごい悲鳴」
そして射程範囲外まで逃げ、ここまで来ればそう追い付かれはしないだろうと足を止めた時だった。
後方から断末魔のような尋常ではない悲鳴が上がり、山に木霊していく。
「今の悲鳴、もしかして二階堂?それとも別の仲間か?」
「……わからん」
来た道を振り返って考えるが、まあ確かに悲鳴だけでは誰の声かは判別出来ないし、判別したところで何も出来やしない。
それよりもだ。あの悲鳴の主には悪いが、鶴見中尉たちの意識が割かれている今、此方としてはより距離を稼げる良い機会だ。
「行こう尾形」
「ん」
二人は山に響く悲鳴に背を向け、歩を進めることを選んだ。
「…そう言えば、鶴見中尉たちが来る前に三十年式と村田銃の音が聞こえたが、お前が谷垣や三島とやり合ったのか?」
足を止めないまま少し後方を歩く尾形を首だけで振り返り、そう声を掛ければ何やら目を逸らされた。
「…やり合ったには違いないが…お前が聞いた銃声は俺がヒグマを撃ったものだ」
「ヒグマ?」
「谷垣源次郎にしてやられてな。撃たされた。…その後は発砲炎で見付かって────谷垣に撃たれた」
「……は?撃たれた!?」
これには思わず足を止め、今度は体ごと尾形を振り返る。
そして頭のてっぺんからつま先へと視線をめぐらせるが、尾形の外套や軍服に血の赤は確認できない。
「落ち着け。弾が命中したのは双眼鏡だ。それで命拾いした」
「…、」
溜め息を吐きながらそう話す尾形を前に、自らの首に提げている双眼鏡に触れた春臣はその時の状況を想像し思わず絶句する。
人間という比較的でかい的の、この小さな双眼鏡部分に弾を当てるとは。
腕が良いのか悪いのか────…。
実戦で敵を殺すつもりなら頭を狙えと戦時前からあれだけ言っていたのに…わざわざ胸部を狙うとは、谷垣よ。
だが何にせよ。それで尾形の命が救われたには違いないのだから甘っちょろい谷垣には感謝だ。
「…なら怪我は無いんだな?」
「ない」
「そうか…それは良かった」
安堵の息を吐き、胸をなでおろした春臣は踵を返し止めていた足を再び動かす。
そんな春臣の背を無言でじっと見つめた尾形はゆっくりと前髪を撫で付け、そして自身もまた再び歩き出した。