はあ、なんて凄い御殿だ。
実際に口に出しはしないが、春臣は内心では感嘆の声を上げていた。
小樽を発ち、目的地である積丹に着いた第七師団は刺青の脱獄囚、辺見 和雄を探す者たちと、鶴見中尉に付き従ってニシン漁を取仕切る親方の御殿を訪ねる者たちの二班に分かれて行動している。
春臣は後者で、現在は鶴見中尉と共に親方の御殿の最上階の部屋へと通されていた。
和と洋を混ぜた様な作り、そのあまりの絢爛さには度肝を抜かれた。
ニシン、とても儲かるらしい。
目だけを動かし、小さな動作で部屋を見回した春臣はポロンポロンと軽快に音鳴らすピアノに視線を向ける。
「お上手ですな鶴見さん!この家には弾ける人間がおらん!その洋琴も喜ぶ」
「私の家も多少裕福だった時期がありましてね」
鍵盤を叩き音楽を奏でているのは鶴見中尉で、持ち主ではあるがピアノは一切弾けないと言う親方は興味深そうに耳を傾けている。
と、不意に鶴見中尉が春臣へ視線を向けると何やら怪しい笑みを浮かべた。
「白野上等兵。どうだ、君も弾いてみないか」
「ほう、そちらの綺麗な顔の軍人さんも弾けるのかね?」
「何かの役に立つかと私が叩き込みましてねぇ」
「それはそれは。洋琴を弾く彼はさぞかし華があるだろうな!」
「やはりそう思われますか?」
盛り上がる二人を困ったように見ていた春臣は「…それで、どうだね?」と再度訊ねて来た鶴見中尉に「はい」と頷くしかなかった。
これは断れない。優しく問うているようだがその実は命令に近い。
「久しぶりなので自信はありませんが…」
「構わん」
溜息をつきたくなるのを我慢し、招かれるままにピアノに近付くと春臣は鶴見中尉と場所を代わる。
ピアノを弾くには邪魔になってしまうので、背負っていた小銃はいつでも手が届く傍に立て掛けて置く。
そうしてピアノ椅子に腰掛けると、春臣は二人に見守られる中、細長い指を鍵盤に置いた。
「…」
スゥと肺いっぱいに息を吸って呼吸を止める。
そのまま一拍置いて、二酸化炭素を吐き出すと同時にに春臣は流れるような動きで鍵盤に指を滑らせた。
「、ほお…」
軍人である春臣の手によって奏でられる、どこか物悲しさを感じる音色に親方は思わず感嘆の声を上げる。
「多才の方が良い」と鶴見中尉に弾き方を叩き込まれたのが随分と昔のように懐かしい。
存外音楽の才能があったらしく、少し習っただけでスラスラと鍵盤を叩いた春臣には師である鶴見中尉も大変驚いていた。
軍人にはならず、そういう道を歩むことも春臣は出来たのかもしれない。
しかし本人がそれを望むことはなく、硝煙に塗れ銃を弄っている方がずっとずっと性に合っていた。
「…豊漁、凶漁、自然を相手にする商売は不安定でしょう」
「俺はニシンのことしか知らん。もっこ背負からここまで成り上がった。ニシン漁が滅びれば、俺もこの御殿と一緒に朽ち果てるまでさ」
春臣の奏でる曲を背景に、鶴見中尉と親方は穏やかに会話を交わす。
「ニシンの心は我々には読めないが、人の心は操れる。戦争なんて意図的に起こすことができるものなんですよ」
「ふむ…」
「ぜひ我々の兵器工場建設に投資してください」
「…武器は好きだ」
そう呟いて一度部屋の奥へと姿を消した親方だが、暫くすると機関銃を抱えてピアノの部屋へと戻って来た。その表情はどこか自慢げに見える。
春臣が鍵盤を叩く手を止めれば、ちょうど良いとばかりに親方がピアノの屋根へと機関銃をドンッと乱雑に乗せた。
「見てくれ!軍から横流ししてもらったマキシム機関銃だ」
「ほお良いですな」
そう言って頷く鶴見中尉だが、声にいつものような抑揚があまりない。普段の鶴見中尉を知らない親方がそれを気にする事はなかったが、春臣は不思議そうに目を瞬かせる。
だがすぐに「それもそうか」と納得した。
マキシム機関銃は旅順で多くの戦友たちの命を奪った兵器なのだ。
その性能は認めつつも、降り注ぐマキシム機関銃の雨を身を持って知っているからこそ、多少なりに思うところがあるのだろう。
対する親方は気分が良いようで、饒舌にマキシム機関銃を語っている。
親方本人が言うように本当に武器が好きなのだろう。
武器好きの親方に上手く取り入り、兵器工場建設に投資させる。
それこそが鶴見中尉が親方の御殿を訪ねた理由だった。
そしてその企てが目論見通り上手く進もうとした時、────ダンッという乾いた発砲音が同じ階で上がった。
すぐさま立ち上がった春臣は傍らの三十年式歩兵銃を手に取ると、ボルトを操作しながら音のした方へと走り、小銃を構える。
そうして銃口を向けた先に佇む男の姿に思わず目を丸くした。
「、不死身の杉元…」
「!アンタは……」
「────奇遇だな、不死身の杉元」
「っ鶴見中尉…!」
見覚えのある春臣の姿に一瞬唖然とする杉元だったが、拳銃を手に遅れて現れた鶴見中尉の姿を視界に捉えると、杉元は我に返ったように慌てて自身が持つ小銃を此方へと向ける。
しかし今更銃を向けたところで春臣よりも早く発砲することは出来ないだろう。
このまま頭を撃ち抜くのは容易だが、鶴見中尉の許可なしに殺すわけにはいかない。
とはいえ相手は不死身の杉元だ、中途半端に足などの部位を狙えば今度は逆に反撃される可能性がある。
ならば一先ず肺辺りを撃ち抜き呼吸を奪おう。
そう、一瞬で考えを巡らせた春臣が小銃を発砲しようとしたその時だった────。
真横で突如凄まじい轟音が唸りを上げた。
「!?」
突然のことに驚いた春臣は銃口を上げて咄嗟に飛び退き、鶴見中尉を庇うように立つ。
「泥棒カモメが御殿まで入って来たか!試し撃ちにちょうど良いわ!」
「っ!?うおおおお!俺は不死身だッ」
壁や襖を無惨に抉り、杉元へと襲い掛かった轟音の正体は親方のマキシム機関銃であった。
慌てて身を翻した杉元は男を一人抱えたまま部屋を駆け回り、ピアノなどを盾にして弾丸の雨を掻い潜ると御殿の奥へと逃げて行く。
それを追って更に機関銃を乱射する親方は完全に興奮状態に陥っており、こちらの声は届きそうにもない。
いくら不死身の杉元と言えどこのままではいずれ蜂の巣になってしまう。
「やめろ!殺すな」
同様にそれを案じていたらしい鶴見中尉は、ガンッと拳銃のグリップを親方の頭に叩き付け、その意識を奪うことでマキシム機関銃を停止させる。
確かにそれが一番手っ取り早い方法であったが、大事な投資者になるであろう親方へ春臣がそれをやるのは些か不安であった為、鶴見中尉がやってくれて実に助かった。
「奴を追うぞ!白野上等兵」
「はい」
意識を失って倒れた親方はそのままに、杉元を追って走り出す鶴見中尉の後に春臣も続く。
御殿の外へと出ると、騒ぎを聞き付けた部下たちが集まって来ていた為、それを伴って海の方へと走る。
ゴツゴツとした岩場に足を取られぬよう進むのは中々に難しく神経を使うが、今は文句を言ってはいられない。
「船を用意しろ!」
「はっ!」
鶴見中尉の命令に部下たち数人がニシン漁に使う船を調達するべく隊列を離れる。
その間春臣は崖上から浜辺を見下ろし、状況の把握を努めると共に小銃を構える。
銃口を向けた眼下の浜辺では杉元と漁師と思しき男が血腥い戦いを行っており、此方が狙撃しようとしている事には気付く様子はない。
だが標的である杉元たちは崖下にいる為、できないことはないが狙うには少々難しそうだ。
春臣は角度を調整して狙いを定めつつ、追跡の際に鶴見中尉から聞いた話を思い出す。
「どういうわけかはわからんが、杉元が抱えていた男…恐らくあれが辺見和雄だろう」
男の正体が辺見和雄だとは知らなかったのか、先程までの杉元は弾丸から辺見を守るように大事に抱えていた。
だが正体が割れたのか、今では銃剣で胸を突いて容赦なく殺そうとしているのだから、杉元の切り替えの速さは全くもって恐ろしい。
「…」
迫り来る死に抗おうと未だ抵抗している辺見を先に仕留めるべく、ついでに不死身の男の無力化も狙って春臣は杉元越しの狙撃を試みる────が、
「は、?シャチ…!?」
突然巨大なシャチが海から現れガブリと辺見を咥えると、杉元から奪うように海へと逃げて行くではないか。
このままでは刺青人皮がシャチに食われてしまう。
「チッ…!」
シャチが海中に潜る前になんとか仕留めるべく、狙いを変えて小銃の引き金を引く。
しかしそれと同時にシャチが頭からざぶんと海へと潜り、春臣の放った弾丸はシャチの背鰭を撃ち抜くだけに留まる。
「白野!船で奴らを追う!」
狙った獲物を一発で仕留めきれなかった悔しさに再度舌打ちを零し排莢していると、船を調達したらしい鶴見中尉が春臣を呼び戻す。
その声に従って崖を下り浜辺に出ると、既に船へと乗り込んでいる鶴見中尉と部下たちが目に入った。
皆に倣って春臣も小舟に飛び乗ると、部下たちが一斉に櫂を漕ぎ出し海へと繰り出す。
漕ぎ手が多い為、春臣たちの乗った小舟はぐんぐんと進み、あっという間に先に出発していた杉元たちが乗った小舟を前方に捉える。
「船上でも狙えるな?白野上等兵」
「勿論です」
第七師団の小舟と杉元たちの乗る小舟との間にはまだそれなりの距離があり、更には波による揺れもあって並の兵士では小銃を構えることすらまともに出来ないだろう。
春臣は胡座をかくように座ると左腕を片膝に乗せ、その上に銃身を置くことで安定させる。
これは尾形に教わった座位での銃の構え方だ。
「まずはシャチを狙え」
「はい」
頭の中で不規則なシャチの動き、波の揺れを計算しつつ狙いを定めていると、杉元たちの小舟に動きがあった。
遠目から見て恐らくだが、杉元と思しき人物が全裸で海へと飛び込んだのだ。
どうやら海中へと潜ったシャチを追ったらしい。
…刺青の為とは言え、この極寒の海へ飛び込むなんて不死身の男はやる事が違う。
「…杉元を仕留めてしまっても問題ありませんか?」
「良い」
「では狙いを変えます」
杉元が潜ったのなら次に浮かび上がって来た時にはきっと辺見を抱えているに違いない。
では狙うべきはシャチではなく杉元だ。
小舟周辺にアタリをつけて狙いを定めているとザバッと海面から軍帽が飛び出した。
「っ、!?」
その瞬間に引き金を引いた春臣だったが、それとほぼ同時に波で舟が揺れ、櫂を漕いでいた部下がよろめきひっくり返ると、不運な事に銃を構える春臣へとぶつかってしまったのだ。
それにより照準が大きくズレた。
放たれた弾丸は狙っていた杉元ではなく、頭一個分下の杉元が抱えていた辺見の方を撃ち抜いた。
「っ白野上等兵殿…!申し訳ありませんッ」
「…」
慌てて身体を起こし謝罪する部下を春臣は無言で退かし、ボルトを操作して排莢すると再度狙いを定めようとする。
だが、その間に杉元と小舟に乗っていたアイヌの少女が綱を結んだ銛をシャチへと投げ付けており、それが突き刺さったシャチは痛みから逃れようと暴れ、物凄い速度で杉元たちの舟を沖へと引っ張って行った。
これではもう狙えない。
「止まれ。あの速さでは追い付けんし、狙撃も無理だろう」
鶴見中尉の命令に皆は櫂を漕ぐ手を止め、舟を停止させる。
自分の失態で杉元を逃がしてしまったと慌てた部下は再度大きく頭を下げて謝罪をする。
「申し訳ありませんっ鶴見中尉殿ッ白野上等兵殿…!」
「……良い。だが次は無いぞ」
「は、はい…っ!」
またしても狙った獲物を仕留められず不完全燃焼な春臣であったが、苛立ちを極力隠して部下へと苦笑を浮かべる。
「杉元の奴…アイヌともつるんでいたか」
「してやられましたね」
拳銃を収め、溜め息を吐いて水平線を見つめる鶴見中尉に春臣は肩を竦める。
「ニシンに群がるクジラたち。そのクジラたちを待ち構えまんまとありつくシャチたち────。ではその頂点のシャチを喰らいたければ…シャチになって戦うか?」
「…」
「あるいは殺し合って底に沈んできたシャチの死骸を喰う気色の悪い生き物になるか…」
「……気色の悪い生き物でいた方が痛手は少なそうですがね」
「同感だ────」
⌘
浜へと戻り、再び御殿を訪ねると親方が意識を取り戻すところだった。
賊の侵入に加え、死人が出た事を不安がる親方の妻と娘に春臣が「御自宅に賊が侵入するとは災難でしたね。大丈夫ですか?」と声を掛ければ、忽ちカァと頬を染め恥ずかしげに顔を隠す。
「この壺が飛んで来たんですよ。私が見てたので間違いありません。君も見てたな?白野上等兵!」
「はい間違いありません」
「どこから飛んでくると言うのだ…!?」
「人生何が起きるかわかりませんなぁ。是非我々に投資を」
小口でも構いません、と矢継ぎ早に続ける鶴見中尉だっだが、親方は「その前に家の建て直しだ!死人が出ては女房と娘が気味悪がって住めないだろッ!」と鼻息を荒くしながら侵入した賊への怒りを露わにしていた。
これではもう親方からの投資は見込めなさそうだ。
鶴見中尉もそれを悟ったらしく、呆れたような顔で鼻を鳴らして溜め息を吐く。
そうして喚く親方を適度にあしらい、春臣を伴って御殿を後にした鶴見中尉の元に今度は部下が駆け寄ってきた。
今度は一体なんだと言うのか。
「鶴見中尉殿!尾形 百之助上等兵が病院から消えました」
「、…」
部下の言葉を耳にし、春臣は思わず言葉を失い狼狽えた。
そんな春臣をじろりと見やる鶴見中尉だったが、その絡み付くような視線に気付かない程春臣は酷く動揺していた。
「それともう一人、二階堂 浩平一等卒の姿が数日前から見られません」
「…小樽へ戻るぞ」
「はっ!」
一通り報告を聞いた鶴見中尉が小樽へ戻ると号令を掛ければ、部下たちは慌ただしく馬を用意したりと帰還の準備に取り掛かる。
それを尻目に、鶴見中尉はまるで尋問をするように蛇のような目で春臣を見やる。
「…尾形 百之助から何も聞いていないか?白野上等兵」
「……なにも、聞いておりません」
「二人は良き戦友のように見えたがなぁ。まさか白野ではなく、二階堂を供に選ぶとは」
「……尾形の中での私は、結局信用に足る男ではなかった、という事なのでしょうね」
「うう〜ん、残念だな。とても残念だ」
「…力及ばず申し訳ありません」
絡み付く視線から逃れるように深々と頭を下げて謝罪する。
俺が戻るまで大人しくしておけと言ったのに。
何か不測の事態でも起こったのだろうか。
それにしてもまさか不在の間に脱走するとは思いもしなかった。
鶴見中尉に報告した通り、尾形から一切何も聞かされていないのは紛れもない事実だ。
春臣はチクリと痛む胸をグッと押える。
「…起きてしまった事は仕方がない。その代わり白野、お前がしっかり奴を仕留るんだ」
尾形 百之助に銃で対抗出来るのはお前だけだ、そう続ける鶴見中尉に春臣は顔を上げて「はい」と短く答え、肩に提げた小銃の負い紐を強く握った。