一年生 秋 さん


今ちょっと取り込み中なんです



「はぁ…」

 何度目か分からないこのため息はもちろん、倉持先輩──野球部員全員であるが──接触禁止令のせいである。欲求不満と言い換えても支障ないだろう。
 春頃は姿を拝見するだけで神に感謝し、緊張して会話もぎこちなかったのに。慣れとは恐いものだ。一度蜜の味を知ってしまうと、それを取り上げられた時の反動は如何ばかりか。蹴られたい。触りたい。抱き着いて密着したい。欲求は増えていくばかり。早く、早く倉持先輩成分を供給しなければならない。そんな焦燥感が私を追い詰める。

「はぁぁ…」
「いい加減ため息うぜー」
「ごめんん」
「もう明後日は王谷との試合なんだぞ。禁止されちまったもんはしょうがねーし、自業自得だろ。さっさと切り替えろ」
「金丸くぅうううん」
「おわっ、だっ抱きつくな! 接触禁止だろお前」
「うぅぅぅ」

 甘えるように金丸くんに縋り付けば容赦無く引き剥がされてしまった。女の子の扱いではない。しかし、彼の言う通りだ。稲実をくだした鵜久森に勝ったからといってまだ私達は決して油断してはいけない。むしろここからも油断など有り得ない強敵との連戦が確定している。しかも次の次の成孔戦で御幸くんがクロスプレーにより脇腹を痛めてしまう。王谷戦は無理せず確実に勝っておきたいところだ。その為にも、ピッチャー事情のケアが最優先事項。
 そう、たとえ私が倉持先輩に触れなくなったからといって、金丸くんが塩対応だからといって、ただへこんでいるような暇はマネージャーには無いのだ。私達は今、甲子園出場権という切符の奪い合いの最中なのだから。



「降谷くんは鵜久森戦で成長を見せてくれましたし、王谷戦の先発には沢村くんが良いと思います! 沢村くんは今成長しようとものすごい吸収力ですし、この貴重な機会に経験を積ませ──」
「そのつもりだ」

 私は原作軸から大きく逸れることを恐れ、今ボスに直訴している。なんとしても沢村くんを先発に据えてもらうために固い意思を持ってしてボスに相対したわけだが、畳みかけようとしたところで話を遮られ、返された言葉を脳内で反芻して一瞬思考が止まった。

「…はい?」
「だから、元々沢村でいくつもりだった」

 しばしの沈黙。その間が私には必要だった。まさかボスが降谷くんを先発に考えていないとは思ってもいなかったから。

「そ、そうですか…えと、流石の慧眼ですね。あはは。では…し、失礼しましたー」

 わけも分からず意味不明なことを口走り、目が点になりながら抜け殻のように退室した。
 ……あ、あれえ? ……いや、まあ、いいか。結果オーライてやつだよね。

「もしかして、もう沢村くんはチェンジボールを修得してボスに披露したの? …んんんん? 修得は明日の夜のはず…もしやこれって巷で噂の修正力ってやつ?」

 監督室からの階段でぶつぶつ呟く女を訝る人影は今は無い。
 よく分からないけれど、とにかく原作通りに沢村くんが先発スタートで試合が進みそうだ。沢村くんは軍曹にチェンジボールを教わったはずだし───。

「あーあ、私も青心寮に住みたーーい」

 そうすれば必見なシーンを見逃すことも、倉持先輩のあんなシーンやこんなシーンを見逃すことも無いのに。うら若き乙女の悩みは尽きない。



 かくして私は見たかったチェンジボールイベントをすり抜け、とうとう王谷との試合の日がやってきた。

 初回で相手の戦略にまんまと罠にはめられボークをやらかした、先発の沢村くんは早々に猫目である。そして御幸くんに「どういうことスか」って逆ギレしてる。なんで投手やってるのにボークの条件知らないの? 五輪の書とか読み漁ってた期間に野球のルールブック貸してあげるべきだったかな。
 しかし中盤は好投を見せ、王谷に追加点を許さない。攻撃でも相手の守備の要を逆に利用し同点に追いつく。王谷の守備位置のメカニズムをナベ先輩がスナイパーの洞察力で見抜いた功績である。その後はグラウンドで水面下の騙し合いが繰り広げられた。
 そして六回でランナーを背負った状態で大きなヒットを許してしまった沢村くんのマウンドへ内野手が集まりタイムをとる。そして、倉持先輩が沢村くんのお尻を蹴った。

「あ…あーっ! 蹴ったーっ!」

 タイムのお約束、テンパる沢村くんを無言で黙らせる倉持先輩のタイキック。私はしばらく倉持先輩に触れられていないというのに、倉持先輩に足蹴にしてもらえている沢村くんが羨ましくて羨ましくて、ハンカチを噛んで悔しがった。

「ズルい…。私もあんな風に蹴られたいい!」
「名前ちゃん…」

 沢村くんは倉持先輩に予想外の一撃を食らったものの、倉持先輩に指をさされて何か言われた途端、様子が変わった。次いで、スタンドまではっきりと聞こえるほどの通る声、そしてあの“ムカつく顔”、調子に乗っているだろうことだけは分かる。

「…やっぱり…いいなあ」

 先輩達に背中を押されて調子付いた単純な沢村くんが王谷をそのピッチングでねじ伏せていく勇姿を眺めながら、グラウンドに立つ選手達をなんだかいつも以上に眩しく思った。

「…あれ、名前ちゃん泣いてる?」
「なっ、泣いてないよ! ただ、沢村くんの未来が輝き出した試合だなって思って」
「本当、すごいよね、沢村くん」

 みんなみんな、どうしてこんなにもカッコ良く野球が出来るんだろう。キラキラして眩しいよ。太陽のせいなのかな。……もう、なんでもいいや。声を張りながら、“私も”ってお日様に祈った。

 そしてとうとう試合は青道ウチが四点リードして九回を迎えた。沢村くんの勢いは止まらず、内野を転がる打球を処理する野手をも鼓舞する。

「んきゃーーっ! 華麗なコンビプレー! ああーん倉持先輩ー! 天下一ぃー!」
「名前ちゃんって守備の時も喧し……ていうかむしろ守備の時の方が、その、元気だよね。すごく目立ってるよ」

 春乃の言う通り、確かに守備の回にここまでテンション上げる部員はあまりいない。どうしても青道側スタンドで私だけが目立ってしまう。しかしそれがどうしたってのよ。

「守備は倉持先輩見放題なんだよ!?」
「うん、なんかそう言うと思ったよ…」

 春乃は私の発言を予想していたように苦笑いしてそう返した。でもね春乃、それだけじゃないんだよ。倉持先輩は攻守どっちも楽しそうにプレイするけど、チーターの如き緊迫感漂うランナー姿とは別に、守備の時は兄弟達とボールで戯れる仔犬のような腕白さが見え隠れするというか。つまりね、どっちも見逃せないってことよ。

「やった…終わったよ名前ちゃん、勝ったよ!」
「うん、勝った!」

 ともあれ大きな一勝を掴み、これで甲子園にまた一つ近付いた。


 その後スタンドから観戦した成孔 対 仙泉。投手戦になるかと思われたが五回表成孔の衝撃的な三者連続ホームランから試合は打撃戦へと一転した。結局打力勝負で成孔に軍配が上がったのを見届けて、次の試合への熱意を燃やしながら私達は球場を後にする。


「沢村、浮かれてるな」

 帰りのバスの中で金丸くんが言った。
 王谷戦、沢村くんは完投してチームを勝利に導いた。初めて公式戦で完投して、しかも一夜漬けの付け焼き刃のチェンジアップをピンチの場面でしっかりと決め、最終的にはチームを勝利に導いたのだから、浮かれるのも許されると思う。

「いやいや、今日は調子に乗ってもいいんじゃない? …あっそうか、金丸くんはあんまり活躍は出来なかったもんね?」
「っ、うるせぇよ。次は打つから見てろ」

 窘めついでに少し茶々を入れると予想通りの反応をくれる金丸くん。いつも通りである。金丸くんだけではなく、みんないつも通り。いつも通りじゃないことがあるとすれば、今日はなんだか倉持先輩との距離が遠く感じた。まだ何か怒っているのかもしれないという不安も拭えないままだ。

「あのね、私もさ、最近ちょっともやもやしててさー、今日はいつもほど試合を楽しめなかったよー」
「嘘つけお前、倉持先輩が出塁した時誰よりも大声で騒いでたぞ」
「えへ。それほどでも」
「褒めてはねーよ」

 あれ、てっきり褒め言葉だと思ったのに。褒められてなかったや。

「まぁ確かにお前ここ数日なんか大人しいよな。…ハッ、なるほど。あー…、なんつーか、…上手く言えねーけど、…っ元気出せ!」

 勝手に一人で納得して何を言い淀んだかと思えば、金丸くんは私を励ましてきた。正直ビックリした。そんなに私のこと気にかけてくれてたなんて気付かなかったから。え、もしかして金丸くんて私のこと好きなの? え、ごめんね。私は倉持先輩しか見えないんだ。

「ごめんね金丸くん。君の気持ちには答えられないよ…」
「はあ? 何の話だよ」



 私が倉持先輩にフラれたと思い込んだらしい金丸くんがそれから数日かけて私の誤解を完全に解くのに骨を折っていた、とある平和な平日。それは授業中のことだった。

「苗字…」
「……」
「おいこら苗字、前見なさい」

 日本史の教師が私の名前を呼び、叱咤した。しかし私は無礼と知りつつ視線を窓の外のグラウンドから外さない。

「すみません、先生。今ちょっと取り込み中なんです」

 私は今日ほど窓側の席である幸運に感謝したことはない。たとえこの幸運が無かったとしても、窓際の席の人と何としてでも席を交換していたに違いない。何故なら、目下のグラウンドでは修学旅行に置いてけぼりを食らってお留守番している二年生の野球部員達が仲良くサッカーをしているからである。いやそこは野球しようよ野球部員。しかし私は別段サッカーに興味があるわけでも、彼らが怪我をしないかヒヤヒヤと見守っているわけでもない。お察しの通り、私はサッカーをする倉持先輩を堪能しているのである。つまり、立派な取り込み中だ。最中と言い換えても差し支えなかろう。むしろ、奇声や喘ぎ声を我慢しているだけ褒めてもらいたいぐらいである。

「何が取り込み中だ。授業中だぞ」
「お言葉ですが、私は今日の授業は気兼ねなくサボれるように予習してきました。私がこの貴重な時間をどう過ごそうと私の自由です」
「ほぉ…、えらく達者な物言いだが、ちゃんと人の顔見て話しなさい」

 その時丁度倉持先輩が死角になったので私は居直って教師を見上げて懇願のポーズをとった。私にとっては些細なことだが、この時の先生の顔は引き攣っていて見るからにキレる寸前の様子だった。恐らくビタミンが足りていないのだろう、可哀相に。

「後日私をこき使っても構いませんから、今日だけは見逃して下さい」
「…ったく、しょうがないな」

 そう言って折れ、踵を返す教師に、クラスみんなの心の声が「え、いいんだ」とハモったことだろう。あまりにあっさり引き下がったので、私だって思わず先生の好感度が爆上がりしてしまうかと思った。そして後々何か小間使いにさせられたりするのだろうかと不安になった。しかしだ、今はそんなことは気
にしていられないので気を取り直してグラウンドに目を向けるとしよう。この時間は何物にも代え難い価値があるのだ。少なくとも私には。

「っ……」

 途端、息を呑んだ。何故ならば私の両目が好きな人を一秒とかからず見付けた瞬間に目が合ったからだ。まるで彼の方はさっきからずっと私のことを見ていたかのように。否、“ように”ではなく十中八九、今しがたの私と先生のやり取りを遠目に見ていたのだろう。その証拠に彼、倉持先輩は「前向け」というニュアンスのジェスチャーをした。

「…っ、」

 私は両手で口を抑えて悶えながらジェスチャーの内容は華麗に無視し、その後の倉持先輩の華麗なプレーを全力で目に焼き付けた。
 チャイムが鳴った途端、一限分我慢していたものを窓とともに解き放ち思い切りグラウンドへ向けて愛を叫んだ直後、先生に連行されてこき使われたのは言うまでもない。休み時間にジャージ姿の倉持先輩に会いに行くつもりだった私の無念の叫び声が、グラウンドまで聴こえたという。



 時間の経過と共に少しづつ会話はしてくれるようになりはしたけれど相変わらず漠然と倉持先輩に避けられたまま日々は過ぎ、今日の部活は紅白戦だ。そう、ご存知の通り、「カッコイイからに決まってんだろーが」のシーン。差し当たって私が目をつけた特等席はもちろんココ・・

「……」
「何か?」

 何か言いたげにじぃっと見つめてくる軍曹に満面の笑顔で尋ねてみると、意味深な間を置いた後に否と予想通りの短い返事が。そうであろうとも、文句など無いはずだ。マネージャーである私がコーチのすぐ隣に座っていても何の不思議も無いはずだ。スコアを付けるという任務も全うする所存。あまつさえ金属バットも手元に準備してあり、コーチの意をんで手足となることも出来る、完璧な助手になれる。誰にも文句など言われる由もない。私は自信満々で特等席に居座り、レギュラー 対 控えメンバーの試合に臨んだ。まさかソコ・・に座していることを数分後に全力で後悔することになるとは知らずに。

「倉持先輩がんばってー!」

 私の愛を込めた応援の甲斐なく、やはり倉持先輩は第一打席で沢村くんに打ち取られてしまった。そしてベンチに戻ってきた彼に軍曹が声をかける。私は途中までワクワクしながら成り行きを見守っていたが、早々に後悔し始めた。

「お前、なんでスイッチヒッターやってんだ?」
「え? なんでって言われても、それは、カ…」
「『か』?」

 何故ならそれは、非常に居た堪れないからである。心の中では喜びはしゃぎ周りたいほど興奮しているのに、自分がこの場に居るせいで一体どんな表情でいたらいいのか分からない。故に今私は自らのミーハー心を恨み、心底後悔していた。

「いえ…、中学ん頃からずっとそうやってきてるんで…」
「じゃあ監督命令だ。今後一切、右打席には立つな」

 軍曹にこだわりを封じられて少なからずショックを受ける倉持先輩。同情、恍惚、愉悦、童心。ああ、私の中に色々な感情が湧き上がってくるけれど、どの感情も表情に出すには正解ではない。何故なら軍曹のすぐ隣に座している私の表情は倉持先輩の視界に入るからだ。どの感情も空気が読めないそれだということは理解出来るのに正解の表情が思いつかなくて居た堪れないことこの上ない。

「…ふぅ」

 とはいえ、時間は停止することはない。少しの間の居心地の悪さを耐え抜けば、通り雨のようなものだ。気まずい空気が過ぎ去り、ほっと息を付いた私は倉持先輩がベンチに座るのを横目で見送りつつ、すかさず落合コーチに無言で金属バットを手渡す。それを彼は無言で自然に受け取り、春っちに声をかけまたしても監督命令を告げた。

 カキィンと金属バット特有の打球音が響き、そのバットで弾き飛ばされた打球は外野まで軽々飛んだ。まあ、どっちが良いなんて私にはとても口出し出来ないことだし、決めるのは本人だし。そう思いながらちらりと盗み見た倉持先輩はまだ不満げな様子だ。

「っ、」

 おっと、目が合っちゃった。しかも思わず逸らしちゃったよ。なんでだろう私、いつもならウインクぐらいしたはず。私も段々気まずくなってきちゃったのかな。ああもう、それも全部倉持先輩のせいだ。私が何かしたならそう言ってくれればいいのにさ。

 試合はなんと控えチームが一点先制し、予想通りの投手戦となった。というか普通に良い勝負である。軍曹が打線に発破をかけたり、沢村くんのバットにまぐれでボールが当たったり、観ていて面白い。同じポジション同士の対決が水面下で行われているからか、みんなバチバチなのだ。

「サードライナー」

 誰かが実況するのを聞いて思う。地味にサードの戦いが熱い。あれ、金丸くんも日笠先輩もわざとサード狙って打ってるのかも。

 いよいよ倉持先輩の第二打席。

「倉持先輩ー! 倉持先輩が塁に出なきゃ始まりませんよー!」
「るせぇ! 応援か野次かどっちかにしろ!」

 彼は監督命令により左打席に立ちながら、私の野次混じりの応援を一喝。表情もキレる寸前のそれだが、心の中では文句と不満を爆発させているのだろう。ああ、スイングする瞬間の倉持先輩の表情が、カメラに収めたいほど魅力的だ。まるで意地がこもったような金属音が響いて、打球にノビは無いもののそれでもセンター前に落ちた。出塁さえしてしまえば倉持先輩は水を得た魚のように、警戒される中でも疾風の速さで塁を進んでいく。

「こいつは出塁率を上げることだけに専念させればいい…とか考えてるんでしょう?」

 隣でふんぞり返っている人に届く声量で呟いた。返事は無い。

青道ウチに来てまだ日も浅いのに、もうチーム力の向上方法を沢山見付けている慧眼は流石だと思います。…でも」

 軍曹が「でも?」と復唱して言葉の続きを促す。でも、選手達一人一人を見てきた時間はボスの方がずっと長いんですよ。と、そう続けるつもりだった。

「いえ…。いずれ分かることです」

 しかし笑顔で言葉を濁した私を軍曹が横目で訝しげに見た。私は笑顔のまま付け加える。

落合監督あなた青道うちの軍曹ですから」

 AチームBチームともに投手交代した後も、スコアだけを見れば一方的だが内容はどちらも譲らず食らいつくような覇気のぶつけ合いで観応えがあった。

「君は、分かりやすいようで掴みどころが無いな」

 合間合間で時折ちらりと、偶然か必然かこの日に集中した来客達──前監督や結城弟だ──の行方をなんとはなしに眺めていた私の耳に、突然軍曹の訳の分からない台詞が届いた。ひと時も見逃したくない倉持先輩の打席だというのに思わず横の人物の顔をまじまじと見上げてしまった。

「え、私のことです?」
「ああ」

 逆に、この人が私のことを分かろうとしていることが私には意外なことだった。無意識に瞬きが増える。

「中年のおじさんが女子高生の心を理解出来る方がおかしいと思いますけどね」
「そう言われてみればそうかもなぁ」
「私は人より少し色々知っているだけです。…予知夢を視るので」

 少し尾を引く会話と驚いたような彼の視線を遮るように、カキィンと打球音が響いた。


「今日当たってたんだナー」
「そーか?」
「左で打ちまくってたやないかい」

 紅白戦の後は辺りはまるで後夜祭のような雰囲気に包まれた。私は喧騒の中の倉持先輩の声に耳をそばだてつつ、雰囲気に身を任せしばし黄昏れていた。

「はぁ…メランコリック」



 成孔との準決勝前日、私は明日の対戦相手の高校へ来ていた。

「……なんすか?」

 小川常松。私の目の前に立ち塞がる巨躯の青年は、一癖も二癖もある投手であり、明日御幸くんの肉離れの原因を作る加害者となる人物である。

「明日、うちの大事な選手に怪我させたら許さないから。私はあんたなんかどうとでも出来るんだからね」
「桝さん、なんすかこの変な女」

 親の仇のような顔で睨み付ける私をそよ風に吹かれたような顔で見下ろす青年は自身の隣に佇む比較的小柄な青年に話しかけた。言わずもがな彼は枡伸一郎である。

「知らねーよ、お前のこと知ってるみてぇだけど?」
「え、じゃあ俺のファン?」

 私の耳は腐ってしまったのだろうか。私が、この木偶の坊の、ファン……だと? 本気でそう勘違いしていそうな表情がすこぶる遺憾だ。生まれて初めて殺意というものを抱いたかもしれない。今すぐ地面に這い蹲らせてやりたい衝動に駆られる。が、努めて冷静に声量を抑えて言う。

「試合をする前に、今、ここで、死んどく?」
「…おい常、お前、この子に何したんだ?」

 私の怒りの深度を察したらしい桝さんが木偶の坊こと小川にひそひそと耳打ちした。もともと声が大きいのか、近距離なので私にもギリギリ聞こえてしまう声量である。

「知らないっす」
「ええ、初対面ですよ。でもこの子熊の躾が出来ないなら、明日試合に出さないでもらえますか? スポーツマンシップに則って野球出来ないなら、迷惑なんです」

 唯一、常識も見識も良識もありそうな桝さんにそう告げると、二人揃って顔を顰めた。流石に言われのない侮辱を受けて腹に据えかねるという顔だ。

「あ?」
「いくら勝利が欲しいからといって、球場はプロレスやる場所じゃないのよ。アンパンマンごっこなら他でやって頂戴」

 このくらい牽制しておけば大丈夫だろうかと顔色を見つつ、そこで踵を返した。

「ちょ、待て、おい。なんでそこでアンパンマンが出てくんだよ!?」

 ツッコミ役を担う枡さんが私の背中に大声を向けている隣で奴は「彼…」と呟きながら虚空を見つめていた。本当にこれで大丈夫だろうか。不安だ。



 日を跨いでも不安は拭えないまま、成孔との試合の日はやってきた。

「御幸くん」
「ん? どした?」
「…」

 朝、御幸くんを呼び止めたはいいが、予知夢を見たなんて言ったら変に気を負うかもしれない。さり気なく、あくまで自然に……。

「今日は寒いから、厚めのインナーをいつもより二、三枚多めに来てた方が良いと思うよ? あ、サポーター巻いたげようか?」
「…またなんか視た?」
「……」

 なんでバレたし。バツが悪く、苦虫を噛み潰したような顔になる。

「お前、顔に全部出んだよ。分かりやす過ぎだろ」
「……」

 言おうか言うまいか逡巡し、無意識に鯉の如く口をパクパクさせてしまう。

「なに迷ってんだよ。言えよ。聞いてやるから」

 どうして私は迷っているんだろう。よく分からない。でも正体不明の懸念が発言の邪魔をしてくる。どうしてか私は沈黙を貫いてしまう。

「……」
「あっそ。じゃあ大人しく見てろ」

 御幸くんは意外とけっこう背が高い。そして時々お兄ちゃんみたいだと思うことがある。私の家族構成に兄は居ないけれど。上から落とされた声音はまさにそんな感じだった。だからか、従順に頷くしか出来なかった。だけど、きっと後悔することになるってことも、この時多分分かっていた。
 離れていくその大きな背中を眺めながら、どうしてさっき言えなかったのか、なんとなく分かった。やはり私は未だに、彼らが輝く舞台への干渉の線引き箇所を迷っているのだろう。はたして私は、傍観者で居るべきだろうか。


 珍しく王者の掛け声を皮切りに試合が始まり、先発の降谷くんは外れたボールは多いもののこれまた珍しく立ち上がりが良い。失点は無いまま裏の攻撃では倉持先輩が早速出塁して先制し、攻撃が上手くハマって二点差を付けた。幸先が良すぎるんだよねぇ。原作知識とか予知夢とかなくても嫌な予感しかしない。

 成孔に五点差をつけた四回表の守備の最後で、嫌な予感は現実となったらしい。三六一のゲッツーで降谷くんが一塁ベースを踏んだ瞬間、何か不吉な類のものを直感したのだ。降谷くんを注視するがやはりポーカーフェイスで確信は持てない。けれど嫌な予感は消えてくれない。鵜久森戦での故障は回避したのに、この再発場面で故障するとか有り得るの?

「まさかだよね…」

 そして五回裏。

「あっ! また右足…!」

 いや、“また”ではない。今回は私が注意しなかったからだ。鵜久森戦の時のように注意するべきだったかもしれない。

「っ…、工藤先輩」

 私が工藤先輩に相談すると、彼は私の懸念をベンチへ伝達しに行ってくれた。その後流れた場内アナウンスから、案の定降谷くんは捻挫していた。溜め息を禁じ得ない。

「はぁ…。やっぱ続投かぁ」

 降谷くんは六回でもマウンドに立った。
 無理しないで、なんて通じない人種だよね、野球選手って。分かってるんだけど、どうしようもなく悔しいよ。結局回避出来なかった自分の無力感が許し難くて。

 その後粘り強いピッチングをしたけれどスコア的にはじりじりと差を縮められていく。青道は中盤からなかなか一本が出ない中、降谷くんは枡くんのピッチャー強襲球に遭いながらも体を張って止め、無我夢中の様子で見事に捌いて七回を締めた。
 そして八回表、前回の試合での好投を買われ、満を持してマウンドに立った沢村くんだったが、早々に四番長田にホームランを打たれてしまった。あっちゃー。青道の面々が頭を抱えているうちにマウンドへ集まる内野陣。

「はっ…! このシーンは…!」

 倉持先輩による沢村くん鎮静化の見事な一撃が繰り出されるシーン! ううう、見たい! 近くで声を聴きたい!

「わっ、私、伝令に行ってきます!」
「何言ってんのあんた!? とりあえず落ち着け!」

 居ても立ってもいられず駆け出そうとすれば、周囲の部員総出で取り押さえられてしまった。

「私も試合に出たいよお〜!」
「本当にどうした!? とにかく大人しくしな」

 頭を押さえ付けられながら、倉持先輩が沢村くんのお尻を蹴って「とりあえず落ち着け」と言っているであろう光景を遠目に眺めた。金丸くんは顎に手を添えて感心している風に見えるので、きっと「なるほどこのタイミングで」と、倉持先輩のツッコミ技術を盗もうとしているに違いない。嗚呼、どうして私はあの場でカメラを構えていないのか。嗚呼、どうしてあんなにも遠いの……。

「グズ…」
「なぜ泣く?」

 しかしその後、持ち直した沢村くんはそれ以上点を許さずにベンチへ戻ってきた。これは確かに降谷くんと沢村くん二人の成長を感じずにはいられない試合だ。

 九回表。同点のまま、延長戦へ縺れ込む可能性を次第に高めながら進む試合。小川が出塁し、枡くんの打席でツーアウトランナー二塁。とうとう私が今日一番恐ろしいと思う状況が整ってしまった。


「アウトーーーっ」

 球場全体が息を呑んだ直後、キャップと審判が片腕を挙げた。呆然として直立不動の小川。倉持先輩が真っ先に心配げに駆け寄り声をかける姿。それに対してヘラヘラ応答している御幸一也。なんだ、これは。この、腹の底でドロドロと重い溶岩がせり上ってくるような、それでいて世界から隔絶されたような孤独感は。今私を惑わしているこの感情の名前が分からない。

「あれ、名前ちゃんどこ行くの?」
「ちょっと野暮用」

 だけどそんなことよりも、じっとしていられなかった。今すぐ殴り倒して首根っこ掴んで退場させたい。小野先輩に交代させれば───。だけど最後に御幸くんが打つホームランが頭を過ぎる。勝利がチラついて判断が鈍る。最低だ、私。

「苗字?」

 裏表交代でベンチに戻ってきた御幸くんの手首を掴んで引っ張った。

「監督、治療の時間を」
「…ああ、分かった」
「御幸、やっぱり怪我を?」

 監督に治療時間を依頼すれば、有無を言わさぬ意気込みが伝わったのか頷いてくれた。太田部長を皮切りに、「おい御幸大丈夫か」と次々に声をかけて心配する部員達。そのまま御幸くんを連行しようとするが、彼は渋った。

「ちょっと待て。俺は何とも無ぇって。それより相手に弱み見せるような真似──」
「弱みって自覚があるなら尚更治療が必要ですよね」

 大体、治療アナウンスが弱みだって言うなら成孔にも薬師にも既に降谷くんの故障は知られてるし、それに比べればクロスプレー直後の治療なんて当然で疑う余地も無い。

「いやそもそもお前、なにまたしれっとベンチここ入ってきてんだよ」

 話のすり替えが露骨だ。何より、口では抵抗しつつ体に全く抵抗の意志が感じられないので、無視して強引に連行した。

「…座って」
「タメ口」

 ヘラヘラ笑いながらそう言う御幸くんに「いいから座れよ」と思わず怒鳴りそうになった。けれど背後に心配そうな面持ちの倉持先輩の気配があることを思い出し、その言葉を呑み込んでキッと睨みあげればとりあえず座ってくれたのでひとまず良しとする。キレるな、落ち着け。冷静に。そう自分に言い聞かせながら患部と思しき部位に氷水をあてがった。接触の直前に微かな抵抗を見せた御幸くんはその瞬間私の予想通り顔を歪めたので予想は確信となった。呆れているうちに大人達も集まって来て、治療の続きを医務員さんに任せた私はさり気なくその場を後にした。


「おい苗字、御幸先輩大丈夫なん…げっ。なんでお前が泣くんだよ」

 うるさいな。これは悔し涙だ。だからそんな少女漫画みたいな台詞を言わないでほしい。私はベンチに逃げ込んだ途端、心無い言葉を放った主を赤い目で睨み上げた。ていうかそういう台詞は倉持先輩に言われたかったのに。バ金丸。

「泣いてない」
「はぁ? いや、泣い──」
「泣いてない! 私が、倉持先輩以外の男の前で泣くわけないでしょ!」

 そう、倉持先輩は今私の背中越しの扉の向こうで御幸くんを心配しきりだ。片時も目を離そうとしない様子がありありと浮かぶ。ずるい。羨ましい。亮さんといい御幸くんといい、なんでそんなに強がるの。ああ、腹が立つ。目から溢れる水が鬱陶しいったらない。ちょっと妬いてるのも認めるけど、私はこれが涙だなんて認めないんだから。私が認めなければ、これは涙じゃなくてただの体液、つまり汗だ。うん、悔し汗だ。……悔し汗って何? まあいいや。
 小さく蹲って、嗚咽を堪えながら呼吸を整える。泣くとすっきりするものだけど、今日はもやもやのまま。

「もうやだ」

 お願い。誰も怪我しないで。こんな気持ちはもうこりごりだよ。お願い神様。もう誰にも怪我させないでよ。
 もう知らないと放り出してしまえたらどんなに良いだろう。そう思うのに心配は私の中から無くならないし。この憤りと蟠りの矛先が分からなくて、答えが無いのが苦しい。願わくば、時間をスキップ出来ればいい。

 試合再開と同時に心にも無さそうな「ありがとな」と一言。次いで扉の開閉音。そして静寂と、扉の向こうから聴こえる雑踏音。唇を噛み締めながらそれらを聴いて、私はしばらく歩き出すことが出来なかった。


 試合は勝った。私はしばらく不貞腐れつつ心の整理をしていたせいで観戦することが出来なかったからどのように勝ったのか分からない。けれど歓声の大きさと、延長十回裏のスコアボードに数字の一が存在していることから、きっと青道の四番がサヨナラホームランを打ったのだろうと予測出来た。けれどスタンドに戻ってグラウンドを見下ろしてから大事なことを思い出して悲鳴を上げた。

「…っあー! 倉持先輩の打席見逃した」

 それが今日一番の後悔だった。


「降谷、お前は太田部長と病院行ってこい」
「キャップは病院行かないんですか?」
「……」

 私は倉持先輩を迎えに来ただけだけど、降谷くんと御幸くんの会話に割り込んだ。というより、降谷くんの台詞を何食わぬ顔で横取りした。

「なんなら救急車が必要な体に今すぐしてあげてもいいんですよ?」
「冗談だろ」
「……」
「え、冗談だよな?」
「はぁ。自分の身体がどういう状態なのか、把握してるんですか?」
「そりゃもちろん」
「痛みの度合いの話じゃなくて、このぐらい無理をしたらどうなるっていう、その先の話ですよ」
「…ああ」
「じゃあいいです」

 注意喚起に対して了承をもらってしまえば仕方無しに私は折れるしかない。「いいんだ」と降谷くんが呟く。だって原作ではしなかった応急処置をした。ならば原作より悪化はしないだろう。

「まあ病院に行ったからってすぐ治るわけじゃないし、状態を正しく把握しているなら簡易的な処置も出来るし。試合、観たいんですよね?」
「分かってんじゃん」

 どうせ神宮大会不参加でその後数週間練習不参加、それだけなのだ。春の甲子園には出れる。まあ明日勝てば、だけど。御幸くんはやっぱり強がる方向で行くらしいので、もう私に出来ることは殆ど無い。
 流れで私はタクシーの前まで降谷くんに付き添ったが、あれやこれやとガミガミ言い過ぎたせいか「もう分かったから。うるさい」と言われてしまった。ちょっとショックだ。

 降谷くんを先生方に任せてから観客席に移動した。倉持先輩の左右はゾノ先輩と白州先輩で固められていて割り込む余地が無かったので沢村くんの隣に腰を下ろした。

「目立てばいいってもんじゃないでしょーが!」
「名選手ほど何でもないプレーに見せるからな!」

 原作を思い出しながら試合展開の観戦をし、周囲の発言を耳半分で聞いてうんうんと無言で頷く私は多分ちょっと浮いている。沢村くんが質問をなげかけてきたのは、だからだと思う。

「苗字、この試合もどっちが勝つか知ってたり?」
「…さて、どうかな」

 やっぱり私はこういう時隠し事が下手なようで、振り向いた全員が私を見てから、あ、絶対知ってるなこれ、という顔をした。えーえー知ってますとも。別にここで隠し立てする意味もありませんよーだ。でも青道ウチは薬師と相性悪めだし、弱点がはっきりしてる三高と戦いたいのが本音だよね。弱点とは勿論天久光聖のやる気の不安定さである。

「逆に皆さんはどっちが勝つと思いますか? 夏は、ペースを崩された三高が乱打戦の末敗れましたが」
「う〜ん、今度こそ三高か…?」
「でもまだ真田も投げてないしな」

 球場に視線を落とす。打席には轟雷市が立っていた。天久さんも轟くんも、すっごく楽しんでそうだな、野球。観ていてこっちまでワクワクドキドキが感染してくるくらい。


 轟くんの打席は、一打席目本塁打、二打席目安打、三打席目内野安打だった。そして今は八回表、薬師の攻撃。点差を引っくり返すランナーを一二塁に置き、轟雷市の第四打席を迎えた。市大三高はタイムを取った末、勝負を選んだことを暗に示す。思わず身震いしてしまうこのシーン。名門の傲慢と誇り、そしてそれを砕かんと武者震いするダークホース。

「たまんないな」

 三高バッテリーは見事な配球で轟くんを三振に仕留め、球場が沸いた。
 ただ、ここから薬師の逆転劇が起こる。野球が恐いのは、こういうところだ。

「あーあ。本当、野球って恐いよね」
「苗字?」
「たった一人の選手が、流れを引っくり返すことがあるんだから」
「え、引っくり返すって…」

 私の呟きに、まさか、という顔をしてサナーダ先輩を注視し始めた沢村くん達。ここまでスライダーが続いたのになおストレート一本に狙いを絞った彼は運を手繰り寄せ、そして掴んだ。天久さんは良かれと思ってストレートを投げたが、この一球が試合の勝敗を……否───。勝敗を分けたのはきっとこの球ではなく、この後の───。


「市大三高、選手の交代をお知らせします」

 逆転された直後、天久さんのピッチングは「萎えた」と言わんばかりに脅威を失った。市大三高の監督は素早い判断と決断で選手交代を告げ、アナウンスが流れる。

「……」

 試合が終わるまで、誰も何も言葉を発しなかった。


「むしろ手の内を知り尽くしてる薬師の方がやりやすくていい」

 御幸くんが明日の決勝に向けて皆の士気を上げようと口上を述べている。うんうん。ん? ……あ、そうだ、まずい。ゾノ先輩止めてあげないと。

「都大会と練習試合で一勝一敗。明日きっちりケリつけてやろうやないか!」

 赤っ恥をかかないように咄嗟にゾノ先輩のユニフォームの背部を鷲掴んだが、全く効果が無かったようで、目の前に座っていた彼はすっと立ち上がって大声をあげてしまった。山彦が返ってきそうなほど誰もが無言を貫き、沈黙が痛い。ゾノ先輩は視線をも痛がっていそうだ。可哀相に。隣の沢村くんはいつの間にか立ち上がっていて、表情だけは迎合しているのに何故か口を開かない。……と思ったら不意に声を張り上げた。

「おーしおしおし」
「遅いねん沢村!」
「ゾノ先輩、ドントマインド。人はそうやって大人になっていくんですよ」
「やかまし!」

 丁重にフォローして上げたのにツッコミを頂いてしまった。解せぬ。


 学校へ戻ってから、屋内練習場で粛々と全体ミーティングが行われた。

「雪という言葉には───」

 キターーー! 倉持先輩の名口上! ああっ、録画の準備するの忘れてた。私の馬鹿!

「邪魔するヤローは全殺しで」
「キャウッ…!」

──バタッ

「っちょ、名前ちゃん!? どうしたの!?」
「あー、こりゃ文字通り骨抜きって感じ」
「見て、この幸せそうな顔。ふふ」
「もういっそ沢村と一緒に倉持にシメてもらっちゃう?」
「しょ、しょんなご褒美ぃ…うふふ、わたし、耐えられませんよぉ…うふふん」
「……」

 倒れた私がその後意識を取り戻したのは十数分後だった。私は知らない、この時倉持先輩が私を食堂まで運んでくれたことを。幸か不幸か、誰もそれを教えてくれなかった為悶絶することも悔しがることも終ぞ無かった。


 明日の試合開始が昼過ぎで集合時刻もそれに合わせて遅い為、今日は夜食を作ったりした。帰りは遅くなった為、珍しく倉持先輩が駅まで送ってくれることになった。明日に響くからと断ろうしたのだが、気晴らしのついでだと言われれば好意に甘える他ない。い、いや、好意って言っても、深い意味なんて無いからね。

「……」

 こんなご褒美展開は滅多に無いので手が震えるほど緊張していた。意外と小心者だな、私は。このまましばらく沈黙が続くかと思われたが、倉持先輩が先に口を開いた。その声はいつもより軽く、ふわふわとしていてわた飴みたいだと思った。

「明日勝てば甲子園か。ここに来るまで長かったけど、明日も長い一日になるんだろーな」
「そうですね」

 こうして二人で話せるのがひどく久しぶりに感じる。もう怒ってはいなさそうな物腰だけど、結局私は何が原因で倉持先輩の機嫌を損ねてしまっていたのか分からないままだ。

「甲子園か…」

 感慨深げにそう呟いた倉持先輩。彼が甲子園に行くのは来年の春と夏の二回。それを正しく現実になるように、私は注力したい。漫画とかだと、ここで「私を甲子園へ連れてって」とか言うのだろうか。でも何か違うという感覚がある。それに別にそんな約束なんか無くても、私はきっと大丈夫だし、彼もまた大丈夫だ。私が大丈夫にしてみせる。きっと。

「私は信じてますよ。応援だっていつも通り、声が枯れるくらいします」
「…おう。よろしく頼むぜ」

 少し肌寒い季節。夜の懐に落ちてくる倉持先輩の声の響きが心地良い。ああ、好きだなぁ。大好きです。

「……、」

 恋情が胸を苦しめるから言葉にして楽になりたいけれど、そういう雰囲気ではなさそうなので、仕方無く口を閉じた。

「そういや御幸のあのクロスプレーは知ってたのか?」
「あ…はい。回避出来なくて、すみません」
「お前が気にすることじゃねーよ」
「倉持先輩はどう思います? キャップ、誰にも気付かせず処置もせずに痛みも我慢して、大会終わるまでそうするつもりでしたよ」
「あいつはそういう奴だからな。けど…治るのか?」

 横目で盗み見ると心配そうに物憂げな顔があった。クロスプレーの直後も、御幸くんを真っ先に心配して駆け寄ったのは倉持先輩だった。本当に仲間思いなんだからこの人は。それだけに心配させた御幸くんが憎い。いや、憎むべきは小川常松か。故意にタックルするなんて高校球児の風上にも置けないふてぇ野郎である。

「まあ、神宮大会の後はオフですし、じきに治りますよ。でも、明日の決勝も出るつもりでしょうし、キャップにとってはかなり苦行を強いられることになるでしょうね。弱音吐けない性格ですし、相当痛そうです」
「ったく」

 思わず吐き出してしまう愚痴。でも倉持先輩は御幸くんがどうして気付かれないようにしているのかちゃんと分かっているはず。でもだからこそ、悔しさだけが行き場を失ってしまう。

「私も悔しいです。こっそり成孔まで行って脅したのに、結局夢と一緒」
「おま…、成孔に…!? 何しに行ったんだよ? まさかあの一年ピッチャー殴ったりしてねーよな!?」
「してませんよ。私、倉持先輩の中でそんな暴力的なイメージなんですか? ちょっとショックです。ただ少しお話しただけですって」
「お話って何だよ。逆に怖ぇ」
「だから、ちょーっと脅しただけなんですって。でも私がもっと、こう、トラウマになるくらい追い詰めていたらラフプレーもなかったかもしれ──」
「ふざけんなぜってーやめろ! もう二度とそんな真似すんなよ! 分かったか!?」
「うぃ…すみませんでした」
「つーか誰か大人にチクられてたら不戦敗になってたかもしんねーんだぞ」
「それは…、すみませんでした」

 夜道を送ってもらうという貴重な体験をしているはずなのに何故か怒られてしまったのでとりあえず猛省。

「まあ、あれです。御幸一也は修行中ってことにしましょう」
「はぁ?」
「精神力を鍛えてるんだって、ポジティブに考えましょう? だって骨でも折らない限りどうせポジション譲りませんよあの人は」
「だな」
「じゃあもう最後まで修行に徹してもらいましょう。怪我が治った頃には御幸一也はより強靭な精神と共に復帰してくれますよ。明日の試合さえ勝てば万々歳じゃないですか」

 御幸くんが犠牲という考えではなく、御幸くんも成長する機会を得たと考えればデメリットなど無い。御幸くんを心配するあまり倉持先輩が思うようにプレー出来ないなんてことがあったら死んでも償いきれる気がしないので、この方向性を猛プッシュする。

「大丈夫です、きっと。キャップのことはキャップに任せて、倉持先輩は自分のプレーに集中してください」
「…バーカ。なに要らねぇ気ぃ使ってんだ」

 全部お見通しだったようだ。流石倉持先輩。好き。惚れ直しました。
 私は思考を放棄して、思わず抱きつこうとしたところでちゃっかり防がれた。


「送ってくれてありがとうございました。気をつけて帰ってくださいね」
「ああ。お前も気をつけて帰れよ」
「美人で巨乳のお姉さんに声をかけられてもついて行っちゃ駄目ですよ」
「どんな心配してんだよ!」
「美少女が降ってきても、お持ち帰りしちゃ駄目ですよ」
「…お前なぁ、」

 有り得ないことなのに、考えれば考えるほど心配になってきた。だって、倉持先輩はこんなにも魅力的で男前で、思春期の男子高校生なのだから。

「……、だーっ、くそっ、…じゃあまたな!」
「あっ…はい、お疲れ様でーす」

 何かを言いかけて、けれど諦めたように最後にそう言い捨てて倉持先輩はくるっと踵を返した。何が「くそっ」なのかは分からなかったけれど、なんとなく、私のことを考えてくれての葛藤だったような気がする。

「はぁ、そろそろ限界だよぉ」

 土手の一本道を歩み段々小さくなっていく背中を眺めながら、恋心は静かに暴れ狂う。倉持先輩に触れたい。抱き着きたい。夜も、倉持先輩に抱き着いたり、抱き着こうとして避けられたり、そういう夢ばかり見る。末期なのだ。さっきだって、これだけ至近距離に居たのにとうとう触れられなかった。まあ結局抱きつこうとしたけれど、阻止されてしまったのでノーカンということにしておこう。
 とにもかくにも。

「明日は大一番だ」





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