欠ける赤、満ちる朱

あ。

視界に入る欠けた赤。

そう言えば、数日前に塗ってみたんだっけ。
特に理由なんてなく、特に落とすこともなくそのままにしていた。

いつの間にか切りどきかもなほどに伸びていたらしい。
その時に少しかけてて爪本来の色が出てしまってた。

これから仕事なのに、やってしまったとため息がつく。



「…マズイな。……落とすの忘れてた。」



仕方ない。今日の仕事は手袋して、終わったらさっさと落としてしまおう。

今日のミッションはとにかく、早く終わらせることが急務となる。
そのためには、片付けるものを片付け、時間を浪費する元凶に合わないことが近道である。
(むしろ、後者が意として強いがそれは言わない。)


とにかく、仕事に没頭さえすればちゃんと時間は取れる。
私の自由も、約束される。せめてマニュキアを落とす時間くらいは。


今日こそは遭遇しませんように
今日こそはエンカウントしませんように、
今日こそは、



「お会いしましたね。」
「……げっ。」



前言撤回。エンカウントしてしまいました。
こういうときに限って見張ってるのではと疑ってしまうほどにタイミングが良い。

怪訝そうな顔をする私とは裏腹に口元に手を当てては、この男、ゾルフ・J・キンブリーは笑いかけた。



「…人に会うなり、随分なご挨拶ですね?セナ・クラウンさん?」
「これはこれは…。…私に何の御用で?用がなければ仕事を片付けたいので失礼したいのですが。」



露骨な拒否反応を示したものの気にもとめず、さらりと流して彼はくすりと笑う。
帽子に手をかけてふわりと被っていた帽子を脱ぐとにこりと微笑んだ。

白のスーツを綺麗に着こなし、仕草には優雅さえ感じるその一連はまさに紳士的ではあるが、
この男を少しでも知れば、紛れもない幻想だと思い知らされる。

腹の中は真っ黒で、大変危険で凶悪で、なによりヘンタイなこの男を。



「私…警戒されていますか?」
「い、いや……そう思う心当たりくらいあるでしょ。散々あんなことしておいて。」

「つれないですねぇ。貴女のことは隅々まで知っているというのに。」
「そういうところですよ、ヘンタイ!!」



肩を落とすもちっともがっかりそうにみえず、むしろ面白い玩具を見つけたかのようにニヤッと笑う。

消して崩さない丁寧な口調に騙されてはいけない。
この男は異端である。本人もそれは自覚済み。
節々に変態じみた発言をするから、正直申し上げると………この人は苦手な部類だ。
何考えているかわからないし、巷じゃ『爆弾狂』なんて言われてておっかないったらありゃしない。


盛大にため息をつくと、何かが視界に入ったのか勝手に手を取られてしまう。
己自身の油断のなさにも嫌気が差すがそれよりもーーー。



「っ!」

「おや…、身嗜みに乱れが。美しくないですね。」
「なに、が…。」



クスリと笑って、取れかけた手袋をそのままするりと脱がされる。
その手袋をパサリと落とされ、掴まれた手の先を目線で送ると視線の先には欠けた赤のマニュキア。

手袋をしていたのだが、いつに彼に見られたんだ?
なんて考えもするが、この男の前では隠しごとは殆ど意味を成さない。
執着するときはとことん執着するし、なにより狙った獲物は逃さない獰猛ささえ兼ね備えている。


そんな危なっかしい男にあまり構ってやる時間なんて与えない。
あくまで毅然と、冷静に、だ。



「……後で落としますので、お気になさらずに、」
「相変わらず小さく柔らかい手ですね。」

「……あの、離してくれません……?」



ん?話が妙に噛み合ってない。
離してと再度言うも、男は無視して手のひらから指までじっくり愛玩を愛でるかのように触れる。
これをセクハラと言わずなんて呼べばいいのかとため息をついたが、ニタリと男が笑うとぞわっとした感覚に襲われる。

あ、これは嫌な予感がする。脳内で危険信号が激しく鳴り響く。
早く離して、という前に生ぬるい感覚が手首に伝わる。


「ひっ!!」


目に入った光景がただただ信じられなくて呆気にとられていると、彼はなんと指の隙間にべろりと舐めだす。
小さい悲鳴を飲み込むこともままならないで。

少し分厚い舌で丹念に舐めていくその光景は淫猥そのものだが、何より信じられない。
咄嗟に抵抗の意志を見せなければと、自由がきく左手で払った。
(おまけに殴ったろうかと思うもひらりと回避。ああ、知ってたとも!)


あくまで穏やかな表情で男は宥めるようにするも、こちらはそれどころじゃない。
羞恥と怒りとよくわからない感情が混じってとてもじゃないが冷静ではない。



「そうやって反射的に手を出すのは些か美しくありませんよ。」
「そういうことじゃないわ、この変態!!」



まぁまぁ、といった具合にまた手を取られてはそのまま背後を取られる。
こういう隙のない動きには思わず見習いたくはなるが、今はそれどころではない。


薄々自覚はしていたが……妙に狙われている気がする。
気の所為だと思いたいが、とてもそうではないと直感が強く主張する。

あの凍てつくような鋭い目に、背筋が粟立つ。
男の落とす視線がこちらに向くだけでも、危険信号が反応してしまう。
言えることは唯一つ。これ以上関わってはいけないと。本能が強く反応を示す。



「ちょ、離して……っ!」
「警戒をしているなら、ちゃんとしなければ。これくらいはすぐ抑えられてしまいますよ?」



赤子の手をひねるように意図も容易く、背後を取られてそのまま動きを封じてくる。
身じろいだところでびくともしない。

人の話なんて聞かないし、そういう意味では厄介なことこの上ない。
流れる動きでするりと舌を這わせた手を再度取り、今度は耳許にくすぐるように低く甘く囁く。



「今夜はこのことを思い出して、また私に会いに来てくださいね?」
「断固として断ります。」



必死に突っぱねたところでも、まるで微動だにしない。
こうなってしまったら勝ち目なんてないのを知ってはいる。
だが、最初から負けるつもりもないし、根負けするつもりなんて最初からない訳で。

それにも関わらず男は私を見下し、まるで獲物を狙う獣のような眼をしていてた。
ちろりと、獲物を狙うような仕草に気づかないふりをするので手一杯だった。




欠ける赤、満ちる朱
(さて……これから私とご一緒しませんか?仕事のついでに積もる話もありまして。)
(そんな予定こっちには一欠片もありませんのでご遠慮いたします!)