一、目醒め

| こんのすけ

「あ、お目覚めになりましたか?」

 愛らしい声が聞こえたかと思えば、ひょこひょこと近づいてきたそれが視界の端へ入り込む。

「……きつね?」

そう首を傾げたものの、こんな丸っこいのは見たことがないから違うのかもしれないと考えた。

「けほ」

唇から溢れる声は何となく喉を引っ掻くような感じがした。小さな咳を一つする。なんだかこそばゆい感覚が嫌で繰り返し吐き出すと、いつの間にかそれはぴたりと身を寄せてくるのだった。

「ああ、声を出すのがお苦しいですか?」
「ん、…んん、」

確認する術など知らないのに喉の調子を窺うように手の平を喉に当てる。指先で触れた喉からは、一定の振動が伝わってきて。なんだろう、絡みつくというよりは出し辛いような気がする。

「……あー、ああ、」

この感覚が一体何なのかを確かめたくて、ゆっくりと息を吸い込んでみた。それが何かすら分からないのに感覚を研ぎ澄ませてみる。なんだろう、この感覚。そうねえ、強いて言うならまるで。

「いかが致しました?」

ずい、と目前に迫る大きな黒目。

「……大迫力ね。あなたは何?」

気づかぬうちにそれは私の膝の上まで移動していたらしい。獣は警戒心が強いものだと思っていたけれど、そちらから近づいてきたのだからこれ幸いとまじまじ見つめてみる。なに、この子。

「失礼ですぞ!私はクダギツネでございます!」
「……クダギツネ…?」

クダギツネってこんな子だったかしら。思わず首を傾げて思案してみるけれど。分からないわね。

「どこか痛みや違和感は御座いますか?審神者殿」
「…審神者」

クダギツネは畏まったような澄まし顔を浮かべたかと思うとぽふりと私の膝に腰を下ろしていて。

「そうです、あなたはこの本丸の審神者で御座いますよ」
「…本丸、審神者」
「ええ、審神者に就任されるとこの本丸で生活していただきます」

促されるままに辺りを見渡すと、その時初めて自分が和室に居たのだと知る。布団で寝ていた所を目覚めたと同時に体を起こしたのだろう。長襦袢を纏った上半身を見下ろしながら考えていた。

「私はどうして寝ていたの?」
「本丸に足を踏み入れると、此処に溢れる神気に体を慣らすためか深い眠りにつくようです」
「……そう」

言われるがまま素直に頷く。私のその反応を見た後、クダギツネは膝の上からぽてぽてと下りて。

「改めまして私はあなたのサポートを担当致します、こんのすけと申します」
「こんのすけ」
「はい。どうぞ宜しくお願い致します、審神者殿」
「ええ、こちらこそ宜しくお願い致します」

静まり返った部屋の中、一人と一匹で向かい合い深々と頭を下げるのはどうにもおかしい光景かもしれないと思ってしまう。そういえば、もうすっかり声を出すことに違和感はなくなっていた。

「早速ですが審神者殿、あなたには歴史を守る任に就いていただきます」

なんの前触れもなくこんのすけは思いついたままに話を始めるようだ。私に出来ることは、ただ黙って呑み込むのみ。時の政府、歴史修正主義者、審神者。そして、……刀剣男士についてを。

***

 ガラガラ、と思ったよりも軽やかに戸が滑って安心した。締め切られていた本丸中の戸を開けて回る。朝特有の白い光に目を細めると、そよそよとした風が暖かさを室内に運んでくるようで。ゆっくり、ゆっくり。体の隅々の筋を伸ばし筋肉を使うように意識しながらあちらこちらを見て回り、戸を開けていく。本丸はとても広く感じた。これからこの場所には刀剣男士たちを迎え入れるというから時が経てば賑やかになっていくのかと思う。まだまだ実感はないけれど、それならこの静けさは貴重なものなのかもしれない。新しい木と畳の香りを胸いっぱいに吸い込めば気怠かった体が覚醒していくような気がする。多分、それはただの気のせいではないだろう。こんのすけは審神者に必要なことを語ってくれたけれど、私に必要なことは一つも語らなかった。質問をしなかったのだから当然だろうとも思う。でもなんとなく。そう、ただなんとなく私は聞かなかった。こんのすけは、眠っていたから体が起ききっていなかったのかもしれないと言う。私はその意見に異を唱えることなく首肯した。声を出し指先で喉元に触れながら振動を感じた時にふと思ったことがある。あの感覚を強いて言うならば、初めて声帯筋が振動したような感覚で。

「本日は、誠によい天気で御座いますなあ」

そんな声を聞いて振り返った先に居たクダギツネは、眩げに目を細めていた。大きな黒真珠のような瞳が思っていたよりも存外柔らかく外を眺めているものだから、私も自然と口角を上げる。

「そうね、お天道様も審神者就任を見守って下さっているのかしら」

ぱちり、と音でもしそうなほど黒真珠はその姿を惜しみなく曝け出してきて。驚いているのだろうか、と思った瞬間にクダギツネは小さな手足を動かしてくる。畳を踏み締めて歩くだけでたっぷりの毛がふわふわ揺れる。そう距離もなかったから、足元まで来るのに時間も掛からなかった。

「審神者殿」

立ち竦んでいた私の足に体と尻尾を絡みつけ、甘えたように擦り寄ってくる動きがくすぐったい。

「こんのすけは、審神者殿と共に歩んで参りますよ」

ぽつりと吐き出されたその言葉の意味するところは一体何なのか。それはきっと、私の知り得ることではないのだろう。随分と小さな体を踏んでしまわないようゆっくりしゃがみ込み、柔らかな毛並みに手を添え撫でてみた。じっとその場に居ると、太陽の光が移ったかのように真っ白い毛が白銀のようにも見えてくる。暖かな陽だまりのような温もりをゆっくりゆっくり撫でた。

「お力添え宜しくお願い致しますね、こんのすけ」

こんのすけは私を見上げながら何度か瞬いた後、添えていた手の平に頬擦りをしたのだった。