十、逢瀬

| 一期一振

 縁側に腰を下ろし投げ出した足をぱたぱたと揺らす。何をするでもなく自分の足を眺めていた。

「お体を冷やしてしまいますよ」

そんな言葉と共に肩へふわりと掛けられた温もりに手を添え、視界の端に映り込むそれを見遣る。

「あら、あなたの一張羅じゃない」

いいの?と首を傾げながら振り返れば私を見下ろしていた一期一振は穏やかな笑みのまま頷いた。

「主殿の御身をお守り出来るなら、本望でしょうからな」
「あはは、男前は言うことも男前ね」

ありがとう。口から出ていった声は思いの外小さかった。流れるような動作で隣に腰を下ろす一期には何も言わず、また投げ出した足を揺らす。こうして縁側に腰掛けていても曇天から幾重にも連なって降ってくる雨は私の足を濡らさない。それに安心もしたし、残念にも思った。なぜか、その理由はよく分からない。一期は私の隣に腰掛けたものの特に何を言うわけでもなかった。他の本丸で聞くのとは異なり、この本丸に顕現した一期一振は寡黙で紡ぐ言葉は端的なものばかりだ。それでも、ただこの空気を共有しているだけなのに言葉のない時間はとても心地良く感じた。言葉数は少なくとも一期一振という刀は物事を見極める目に長けているようで、時たま出る意見は非常に参考になるし的確で心強い。そのことに気づいたのは、彼を近くに置くようになってから少し経った後だったと思う。一期一振を近侍とすることに何か強い思いや決め手があったわけではない。だけど、彼がこの本丸に顕現した時から私の近侍を務めるのはいつだって一期だった。私の行動に対して他の子たちから何かを言われたことはない。その事実に安堵のような、よく分からない気持ちを抱いてしまうのは何故なのだろう。一期一振は優秀な刀剣男士だ。初期刀の山姥切国広、初鍛刀の薬研藤四郎に続き顕現した彼は当然ながら練度も高く第一部隊の隊長をお願いするには相応しい力量を持っている。彼を兄として敬愛する弟たちはもちろんのこと他の刀剣男士たちからの信頼も厚い。そんな風に考えてまるで誰かに赦しを乞うようにあれこれと理由を並べているようだと自嘲した。私は一期一振という刀を心の底から信頼している。その事実だけで良いはずなのに。変ね。そうして一人笑っても、隣の一期は何も言わない。もしかして彼は、私の何もかもを見透かしそれでいて全てを分かってくれているのではないかと思うことがある。

「どうして、」

口をついて出た言葉だ。私の中には沢山の『どうして』が浮かんでは消え、また浮かんでくる。

「どうして、一度感じた灼熱は色褪せないのかしらね」

幾つもあるうちのたった一つにすぎない『どうして』は、さきほどまでの自分の心の内を覆い隠すかのようにして突然飛び出てきた。鉛色の空からさあさあと溢れ落ちてくる雨の音だけが耳に届いている。隣に並んだ一期は、風に揺られて弄ばれる木々たちの動きを眺めているようだった。

「忘れたくないから、ではないかと」

思っていたよりも流れた静寂の間は短く、近い所から聞こえた静かな声に私の肩はびくりと揺れる。互いの視線は一度も合わないどころか、そもそも見ている方向が違う。そうか、と思う。不意に膝の上で広げた両手へと視線を下ろせば、視界の端から手袋に包まれた大きな手が入り込んできた。私の手を取り、手の平に浮き上がる色を失った引き攣りを指先でなぞっていく。薄々分かっていたことだったけれどあまり感覚はなかった。今更のように喉を震わせた声は掠れ、そうと返事をする。徐に指を折り曲げ一期の指先を覆った。そうして今度は、隣の一期が肩を揺らす。

「あなたの熱を、私は忘れたくないのね」

わざと、ゆっくり紡いだ言葉。抱いた指が引き抜かれて温もりが消えてしまったことに寂しさを覚える。折り曲げたままの指を見ていれば、早急に引き寄せられた肩。そうしたのは考えるまでもなく隣の一期だ。そのままこつりと頭を寄せ、肩がぶつかる。変わらずに、此処にあるのは言葉のない空気と雨が降る音。徐に肩口へ頭を擦り寄せると肩を抱く手の平の熱をより強く感じた。

「私は、直ぐに折られるのだと思いました」
「…それはあなた自身が誓った言葉でなくなったことよ」

とはいえ、例えあなたが折られることを望んだとしても私がそれを許さなかったでしょうね。自分から漏れた笑い声は思っていたよりも快活で、一期の大きな手からは痛いくらいの力を感じる。

「折れるなんて、許してあげないわ」

この本丸で顕現したからには何があっても、一振たりとも。例え私自身にですら、あなたたちを折るなんて選択をすることを許しはしない。だから、と声に出して一期の澄んだ瞳を見上げた。

「忘れてなどあげないし、痛がってもあげない」

今もなおあなたを焼く劫火すら呑み込んであげる。あなたが囚われる焔を私の両手に閉じ込めるの。例え、私が死んでも。己が朽ちてもあなたの炎を返してあげないわ。だって私はあなたの熱を、あなたが与える痛みを忘れたくないから。そこまで言うと一度離れた一期の手が私の手へ重なり、指を絡め取られた。そのまま持ち上げられた手に一期が強く唇を押しつけるのを見ても、私はいつも通りの調子で笑う。あなたを焼く焔など私が総て払ってあげる。ねえ、だから。そこまで言ってほんのひと呼吸分の時間を空ける。たおやかな色を滲ませる綺麗な瞳を見上げたまま。

「もう焼け落ちる夢など見なくて良いのよ」

焼けて朽ちるのはいつの日かの私だけで良い。私はきっと自分が焼けた時でさえ笑っていた。赤黒く焼け爛れていく世界の中で、天へとまっすぐに登っていく火柱の下に倒れた子供たちを見ながら。己のあまりの無力さに涙を流すことすら出来ずただ目の前で起こることだけを受け入れて。

「大丈夫」

一期の頬を伝っていく涙に微笑んだ。視線を絡ませながら両手で滑らかな頬を包み額を寄せ合う。

「私は主殿が生きている限り、何を差し置いてでもお傍に在るつもりです」
「ふふふ、いつになく情熱的なことを言うのね」

触れてしまいそうなほど近づいた距離で見つめ合っても、やっぱりいつも通りに笑ってしまった。

「それは、あなたのせいでしょう」
「あら、そうなの?」

ええ、と掠れた声で囁く一期はあまりにも自然な動作でそっと唇に触れてくる。それは一度に留まらず二度、三度と重ねられていった。少し冷たい唇の感触を認識しながら、ふと考えてしまう。一期が口にしたその言葉は、つまり。この刀世では私の隣を誰にも譲るつもりがないということだと解釈することにした。一期が一体何を思ってそう言ったのかは分からない。でも、今はまだそれで良かった。互いにはっきりしたことは全く口にしないまま、再び雨と風の音だけが囁き合う空間の中。一期と私はどちらからともなく唇を触れ合わせ目の前に居る相手の熱を感じていた。