十六、物言う花

| 和泉守兼定

 少しだけ夢見が悪かった。あまり大したことは覚えていないが今感じている平穏が零れ落ちていく様子を見ているのが酷く苦しくて、どうにももどかしくて堪らなかった。痛みに耐えるように奥歯を食い縛りながらじくじくと焼けていくような胸の辺りを掻き毟っていると突然目が覚めた。見渡す先には、すやすやと気持ち良さそうな表情を浮かべる姿を幾つも確認して深い息を吐き出す。飛び起きた体にはびっしょりと汗をかいていて気持ち悪い。固く握った拳が震えていた。和泉守は朝起きてから使うはずだった洗面用の手拭いを掴むと気配を消して部屋を出たのだった。

***

 珍しいこともあるもんだ。本日の昼餉は審神者が自ら腕を奮ったものだという。我等が本丸を統べる主は黙っていれば息を呑むほどに美しいと思ってしまう見目をしているくせに、存外やんちゃなところがあるからきっと気紛れにやったことなんだろう。それでも、鬱々とした気持ちが晴れないまま早い時間から起きていたオレは主が自分のために作ってくれたのではなんて都合良いことを考えてみたりもするのだ。こんな風に思い悩む時は体を動かすに限るなんていうのも主の信条であることは知っているが、国広からの誘いを断ってからは特にこれといった当てもなく本丸の中を散策している。普段生活する分には実感をすることがほとんどないから当然あまり考えたことはなかったが、自分が思っているよりもこの本丸はずっと広いということを知った。

 自分たちが拠点としている本丸という場所はそこを統べる主の霊力で保たれていると誰かから聞いたことがあったように思う。それが正しいとすれば、あんなにも華奢な見た目をしているわりに主がその内側に秘めている力はかなり強いということだろうか。まあ、主は極稀にしおらしいところを見掛ける時があるくらいで、大概は豪快で快活なのだ。短刀のチビたちと全力を出し切って鬼ごっこをしている姿はとても淑女とは程遠いように思う。とはいえ、あの鶴丸や鶯丸もゆったりと浮かべた笑みとは裏腹に心底大真面目に影踏みをしているところを見掛けることもあるから。この本丸に相応しい主なのだろう。温かな喧騒を思い出すと、自然と笑みが溢れていた。

「おやまあ、アンニュイねえ」

憂鬱そうな表情ですら美人さんなのね。そんな声に振り返れば、一体どこから現れたのかは知らないがへにゃりと笑う審神者が居た。こてりと首を傾げてお隣良いかしら?なんて聞かれてしまえば特に断る理由もねえからと頷くことにして。ありがとう、と微笑む表情はやはり美しかった。

「その美人ってのは褒め言葉なのか?」
「そうよ、和泉守はとびっきりの美人さんなの」

にっこりと笑う表情に、どうも調子が狂う。隣に座った我等が主は徐にオレの髪を一房すくった。

「ねえ、髪をいじっても良い?」
「ん?ああ、良いぜ」

体格差がある主の目線は自分よりも低いところにある。すぐに触れ合えそうなほど近い距離に居ることを不意に認識してしまい慌てて目線を移すのに。オレの髪に添えられた白魚のような指になぜか息を呑んでしまった。さわさわと頬を撫でていく風が気持ち良い。豪快で快活さに溢れていると思っていた主は、驚くほど繊細にオレの髪を扱っていく。時折後ろから掛けられる痛くない?だの、大丈夫?だのという声があまりにも心地良くて笑ってしまった。それ以外に主と交わす言葉はない。それでも湧き上がるばかりだった鬱々とした気持ちは頭を過ぎらなくなっていた。

「ふふふ、でーきた」

自分の背中の方へ回り腰を下ろしていた主が満足気な表情のまま笑って隣へと戻ってくる。そっと後ろへ手を伸ばすと、腰の辺りまで伸びた髪がでこぼこと波打って一本に束ねられていた。

「ポニーテールを編み込みにしてみたの」

生憎と私はそんなに細かいことが得意じゃないから、光忠みたいに器用には出来ないけどね。そんな風に言いながら肩を竦めてみせる主に十分器用だと答えれば、柔らかく細められた大きな瞳。

「アンニュイな和泉守も美人だけど、そうやって子供みたいに笑っていて欲しいわね」

そうして向けられるのは、何もかもを包んで慈しむような笑み。今にも溶け出しそうだと思う。短刀たちのようなチビではないのに、まるで母のような表情を向けられるのは存外悪くなかった。

「あんたが望むなら、幾らでも」

その瞬間。ざあ、と音を立てて舞うのは桃色の花弁。オレと主が持つ漆黒の髪を彩る様にどちらからともなく笑った。決して言葉では言わないが、きっと主はオレを慰めにきたのだ。今、この場にはオレと主だけ。今この時だけは、オレだけの主だと思っても誰かに咎められはしないだろう。そんなことを考えて、花弁の飾りをつけたままの小さな頭を撫でる。ふと、戻ったら燭台切に髪の結い方を習おうと思った。美人の髪も美人なのねと声を弾ませていた主の綺麗な髪を、今度はオレが結ってやろう。きっと髪を結った我等が主は、いつにも増して美人になるだろうから。