二十六、お帰り
| へし切長谷部
それは焦燥。逸る気持ちが猛烈に迫り上がってきて、喉の奥から焼けつくような熱を感じる。そして羨望。動くものの息吹を躊躇いもなく刈り取り、まるで己の糧とせんばかりに生命を追い求める。人間のような実体という器を手に入れ初めて実戦に出た時。一瞬にして感じた緊張と言い得ぬ高揚に口角が歪むのが自分でもはっきり分かった。自身の形代である刀身を握り締める力を、相手とぶつけ合う濃い殺気を。抉り取られるような痛みも滲み出す汗と呼吸と、鮮血も。ああ、かつて自分を握り振るったあの御人はこんな気持ちだったのだろうか。ふとそんな風に考えてしまえば頭のてっぺんから足の爪先まで血が湧き踊りどくどくと胸の鼓動が大きくなっていく。
「長谷部くん!先行しすぎだよ!抑えて!」
その時ばかりは、生憎と傍に居るはずの燭台切の声すら遠く感じられてしまうから不思議だった。目の前に踊り出てくる敵をただ笑って圧し切る。固い鎧の隙間を狙って肉を抉るように突き刺し、剥き出しになった喉元へ深く一文字に薙ぎ払う。途端に吹き出し、飛び散る鮮血は風に撫でられじゅわりと蒸発して。残るのは己の体と力だけ。追い求める背中や強さが今は近く感じる。擦り傷くらいなら痛みを感じなくなった体が心地良い。さあ、次の敵をと刀身の柄を握り直した時。
「長谷部くん!避けろ!」
突然襲い掛かってきた衝撃と喧騒に、ほんの一瞬だけ意識が持って行かれてしまう。軽々と吹き飛ばされた体が背中の方から地面に打ちつけられ、その時は呼吸の仕方すら忘れてしまった。どくり、と何かが抜け出していくような感覚に仰向けになった自分からはその光景が良く見える。
「気をしっかり持って!本丸に帰るからね!」
じわじわと音もなく命が抜け落ちていくかのように、一瞬で滲んだ血が服を染め上げていく。傍に駆け寄ってきた燭台切が痛いからね、と口にしたかと思えば布が宛てがわれそのままぐっと強く押さえつけられる。馬鹿力がと言葉にすらならない悪態をつきながら視線を向けると、さっきまであんなにも近くに感じられていた大きな背中がどんどん遠ざかっていくのが見えて。そのことがとても、とても残念で。見ていたくない光景だからと目を閉じる。じわりと滲んだ目頭の熱を隠すように腕で覆うと何もかもを愛しむように微笑むあの人の顔が浮かんできた。俺は馬鹿なんだな。今の刀世では、あの人が主なのに。あの人が呼んだから、俺は此処に居るのに。さっきまでの俺はあの人のことを忘れていた。こんな俺をあの人に見て欲しくない。そうは思った所で言葉すら発せないほどに斬られてしまった体は燭台切が簡単に抱え上げてしまう。帰るよ、と言われた言葉に返事をしないなんて幼稚な行動で俺は己の思いを訴えかけるしか出来なかったのだ。
***
「あー……ごめんね、主。僕が任されていたのに」
怪我人を俵抱きにする奴があるかとは思ってもさすがに文句を言えるような立場ではないことくらい分かっている。燭台切は俺を俵抱きしたまま主と対面しているため、その表情は分からない。
「長谷部くん、頑張ってたから。あまり怒らないであげてね」
「ええ、分かっているわ」
愚直なまでに世話焼きというか、直向きに優しいと称するべきか。どうせ眉を下げて笑っているのだろう。此処に下ろせば良いかな?と続く声に頷く気配。動かされた体に走る痛みで顔を顰めると見上げた天井。ありがとう光忠と返す優しい声。瞬いていると視界に入ってきたその人の姿。
「……主、……」
申し訳ありませんとか、次は挽回しますとか。言いたかった言葉は幾つもあったはずなのに。
「それじゃあ、長谷部くん。主に良く診てもらってね」
燭台切の言葉に手を上げることで応える。部屋から気配がなくなり、目の前の主だけが俺を見ていて。何を言おう、何て話そう。そんな風に考えていればさらりと前髪を撫でる温かい手の平。
「……敵を倒すのが楽しかった?」
ゆっくり、ゆっくり。優しく穏やかに撫でられる柔らかな温度が心地良いのに。彼女が浮かべる温度のない表情を見てしまえば、体内を流れる血がひやりと冷えていくような感覚がした。
「血が湧いて、痛みも感じずに。あなたを傍に置いたかつての主の背中や強さを見ていたの?」
長い睫毛に縁取られた瞳に映るのはたおやかな凪だった。揺れることも荒れることもない平穏。怒りも悲しみもどこかへ置き去りにしてしまったような声色の彼女を見るのは、これが初めてのことだった。そして彼女の言葉にどきりとした。この美しい女性はどこまで俺のことを見ているのだろう。何もかもを見透かされているのかと、いけない行為を咎められたような気持ちになる。
「……別に、あなたがどの主を想っても私にそれを咎める権利はないもの」
あなたが誰を想い焦がれていたとしても構わないわ。そんな感情のない声色に、胸が苦しくなる。
「でも……でも、あなたが傷つくことを許すつもりはないわよ」
前髪を優しく撫でていた細い指先はいつの間にか頬まで滑り落ちてきて。ゆっくりと撫でられながら、温かく体を包み込むような温度を感じた。不意に、ぱたりと落ちてきた雫に目を見張る。
「……主」
一度決壊してしまえば、もう簡単に止まってしまうことはなくて。深い夜を映したかのような大きい漆黒の瞳から大粒の涙が次々と降り注いでくる。深淵まで染めるような夜空から、きらきら光る星が落っこちてきたみたいに。彼女を見上げ続ける俺の頬にぶつかって弾ける様すら美しい。
「あなたを守れない私が、悔しくて堪らないわ」
例え誰を想っていても良い、自分を認めてくれなくても構わない。ただ、願わくば何事もなく無事に帰って来て欲しい。そう願うことしか出来ない自分があまりにも無力で、心苦しくて仕方がない。苦しいと震える声で吐き出すように呟き、涙を流し続ける彼女に俺はただの一言も発せなくなってしまう。ぼろぼろと大粒の涙を溢す瞳が苦しげに形を変えみるみるうちに歪んでいく。乞い願うことしか出来ないと嘆き、柔らかそうな薄い唇を血が出るほどに強く噛み締めている。
「あ、主、血が」
そんな酷く腑抜けた声を出せば見せつけるように唇を更に強く噛んだ彼女が鋭い眼光で俺を見た。
「あなただって血がこんなにも出ているでしょう!」
びりびりと体を震わせるような怒声。とろりと蕩けてしまいそうなほど甘やかに瞳を細め、穏やかに愛を囁くように話すのが普段の主の姿なのに。彼女へこんな瞳をさせ、こんな声を出させたのは紛れもなく俺自身なのだ。そんな風に思うと、どうしようもなく泣きたくなってしまった。
「俺と、……俺とあなたは違う!……俺の血なんて、どうだって良い!」
「良くない!あなたが傷つくことを、私は絶対に許さない!」
その絶対的な圧力に、俺は今度こそ声が出なくなった。びりびりともするような鼓膜を焼く力強い声が、何度も何度も胸の奥を叩いてくるように思えて。視線を絡める彼女の瞳からは絶え間なく涙が溢れ落ち鋭く研ぎ澄ましたような眼光はそのままなのに俺を撫でる手の平だけがひたすらに優しく、愛しみを与えてくれているようだった。彼女の指先から流れてくる温かな神気が己の体に生じる痛みを和らげてくれてる。擦り傷程度なら彼女が触れるだけでたちまち治ってしまうが、重症を負った俺の体を幾度も撫でていく彼女の額に汗が滲んでいることに気づいた。血を流し意識を失い、燭台切に抱え上げられた俺を見た彼女は酷く傷ついていて。初めて見た心から苦しそうに歪んだ表情と、強く噛み締めた唇が裂けて血すら流すほどの悔しさ。温かさと、痛みと。苦しさと強い想いを知り、涙が自然と溢れてくる。こめかみに伝っていく涙が止まってくれない。突然痛みを思い出し、擦り切れそうな緊張感を感じていた心が震える。俺はもう二度とこの人に会えなくなっていたのかもしれない。そう思うと、ぎゅうと心臓が握られるような痛みを感じて。
「……ああ、主……申し訳ありません、……あなたが、俺の主です」
何が、追い求めた背中や強さが今は近くに感じるだ。どんなに鮮明に見えたとしてもあれはもうただの幻影なのだ。俺自身が作り出した泡沫の願望に過ぎない。かつて俺を携え戦場を駆けた男たちはもう居ない。そんなことは俺がこうして人の形を模している時点で知れたこと。なぜ、後ろばかりを振り返っているのだろう。俺が歩いていく道には美しく笑って何よりも愛しんでくれる彼女が居るというのに。彼女の強く優しい神気が溢れるこの場所で、彼女が呼んだ刀剣たちと共に戦場に立っている。その事実を忘れ俺の名を何度も呼んでくれた燭台切の声すら聞くことも出来ずにいたことがひたすらに情けなかった。溢れ落ちるばかりの俺の涙を拭う主が何度も何度も頬を撫でてくれる。その心地良さと甘やかな熱に愛しみを抱いた。この温度を感じ続けたい。この人を泣かせたくない。もう二度と。何もかもを愛しむような瞳で甘やかに笑っていて欲しい。申し訳ありません、すみません、ごめんなさい。溢れる言葉が母親に許しを乞う子供のようなものへと変わる。ただ、許されたかった。彼女が自分の主なのだと思うことを許して欲しかった。不意に、主が醸し出す雰囲気が変化したことに気づく。幾度も優しく撫でてくれる柔らかな体温はそのままなのに。徐に細い指先にぎゅう、と音でもしそうなほど頬を強く抓られる。
「……い、いはいれふ、あるひ……」
思いの外強い痛みが走っていくことでまた勝手に視界が滲んでいく。されるがままになっていると、やがて力が緩められ抓られた頬がゆるりと撫でられて。主は、眉を下げてやんわりと笑った。
「へし切長谷部」
痛いことから逃げなさい。苦しいことを避けなさい。私をあなたの主だと呼んでくれるのならば。
「受け止めることだけが、生きる術じゃないのよ」
変わらずに涙を流したまま笑う彼女へ、手を伸ばす。そうして彼女の滑らかな頬へ指を滑らせた。細く、華奢な手が添えられて熱を感じる。ああ、俺は此処に居る。彼女の傍に在り続けている。
「はい、我が主」
温かな体温を感じながら俺は頷いた。主は柔らかく目を細め俺の手に頬を擦り寄せたかと思うと。
「お帰りなさい、長谷部」
何よりも想っているのだと言わんばかりに優しく囁き、何もかもを愛しむように微笑んでいた。