五、消失
| 山姥切国広、薬研藤四郎、一期一振
『どうして?』
そう問いかけたのは、私ではない。
『どうしてなの?』
磔のように両腕を広げ、手足には確かな重みを感じた。一つ一つなら払いきれないわけではない重みは幾重にも重なっているようで、自分のそれよりも随分と狭い面積なのに何重にもなればそれなりの圧力も掛かってくる。だけど、純粋に体重を掛けられているだけではなくて。その小さな手の平には持ち合わせているはずのない強い力で手も足も、首ですら締め上げられていた。
『どうしてなの?ねえ』
まるで大合唱だ。頭の中で幾重にも連なり響いてくる。それでも耳を塞ぐことはないし、顔を顰めることもない。私の心は凪だ。揺れることもなく、叫ぶこともなく。涙を流すことだってない。私は泣かない。あの轟々と吹き荒れる火柱と、全てをも焼き殺す灼熱を見ても。己の何もかもを焼き尽くす痛みはどんな瞬間でも思い出すことが出来る。ぎりぎりと締め上げる力に息を忘れても、開いた瞼から覗く瞳に笑顔の子供たちが居ても。思い出せるということは忘れていないということだ。それでいい。私は、何もかもを呑み込んでしまう焔に傷つけられる痛みを憶えている。
『どうしてなの?ねえ、』
ねえ。私の上に伸し掛かって細い両腕を伸ばす子供は笑った。ぎりぎりと締め上げる力は骨を折ろうともしていたし、喉を潰そうともしていて。そして、私を殺そうともしていた。だから私も笑った。いいよ、お望みとあらばいくらでも。子供たちには、私を如何様にでもする権利がある。子供たちも笑った。相変わらず大合唱を続けながら。どうして、どうしてと私へ問い掛け続ける。『どうして』は私の中に何度だって浮かんでは消える。でも、答えが出たことは一度だってない。考えても無駄、意味のないことなのだろうと思った。ぼんやりと思うけど、多分私は息をしていない。力を緩められたわけでもないのに、痛みと苦しみが鈍くなってきた。でも、それがどうしたことか。私を見下ろして可愛らしい笑顔を浮かべた子供。ああ、頭を撫でてあげたかったなあ。
『どうしてなの?ねえ、おかあさん』
***
目を開けると同時に空気が肺へ流れ込み、引きつけを起こしたかのように勢い良く咳き込んだ。もう手足を抑え込む重みはなく、締めつけるような痛みも感じない。ひゅーひゅーと音を上げるような呼吸を繰り返しながら頭でぼんやり思った。夢だったのか、と。布団から起き上がるものの、酸欠状態の体では頭がぐらりと揺れた。どうにか腕で体を支えて四つ這いになるのがやっと。視線の先にある外はまだ夜明け前。今ならいくら朝が早い子たちでもまだ寝ている。夢を見ていたことは分かるけど夢の内容は一割も覚えていない。思い出せるのはどうして?という問い掛けと、天に昇っていく大きな火柱の熱量。それから、痛みだった。それ以外は何も覚えていないし、乱れた浴衣の内側に見える小さな手の平の痣の理由すら分からない。どうしてだろう、私はどうして忘れてしまうのだろう。ようやく落ち着いた呼吸と頭痛に息を吐いて、立ち上がろうとした。
「主」
凛とした声に呼ばれてはっとする。普段なら絶対にしないのにこんな時ばかり敏い感覚を使ってくるのだから困ってしまう。こちらの許可は必要なかったのか山姥切は障子の戸を当然のように開けて畳を踏んだ。こちらへ向けて悪いなと思ってもいないことを口にするのだからタチが悪い。
「主の許可もなく入ってくるなんてね」
「だから悪いと言っただろう」
「まあ、そう怒るなよ大将」
「…あなたまでどうしたの?」
「失礼致します」
肩を竦める薬研の後ろでは、最後に入室した一期一振が音もなく障子戸を閉めていた。やがて全員が横並びになってこちらを見据える。仕方なしに六つの目を見返しながら、乱れた浴衣を直し体勢をどうにかしようと布団へ腰を下ろす。夜の闇に紛れる長い漆黒の髪で首元が見えるのを出来るだけ避けるものの、目の前の彼等には果たしてどこまで通用するのやら。思わず息を吐いて。
「一体どうしたっていうの?」
まだ夜明けも遠いわよ?そう言って肩を竦めて見せる。陽もない中、私たちが働かせるのは夜目だ。こういう場合、どう遮っていけば良いのだろうか。生憎、彼等の視線をかいくぐった後の自分を想像することが出来ないから足掻くだけ無駄なのだろうとも思う。だけど、彼等の質問に私は一体何を応えれば良い?自分の意識下では彼等が満足出来る回答を持ち合わせてはいない。何がどうなってるかってそんなの、私が知りたいのに。息を吐きながら体の力を抜き、正座をする。
「主の部屋に来るような出で立ちじゃあないわね」
三振とも手には彼等自身である刀身が握られていた。まるで今から出陣でもするかのような殺気と眼光を放っていて、着ている物が違えばすぐにでも敵地へ送り出せるだろう。そんな三振を見ても、私はいつもの調子で笑った。そんなに殺気立たなくともあなたたちの主はちゃんと此処で生きている。だからどうか安心して欲しいと、穏やかな声色となるように努めながら話してみる。
「大丈夫よ。私は生きて、此処に居るでしょう?」
そんなに不安に思うのならどこからでも確かめてみたら良い。私はこの場所で確かに生きている。すっかり効くようになった夜目でそれぞれの険しい表情を見遣りながら、赴くままに広げた両腕。
「……あんた、それ…」
一番近い所に座っていた山姥切が痛切な面持でこちらににじり寄り、そっと私の腕へ手を伸ばす。
「……大将、…そりゃあねーぜ」
気難しく眉根を寄せた薬研を見るのは珍しい。吐き出された深い溜息に首を傾げるしかなかった。
「痛みはないのか?」
「ええ、痛くはないけど…」
一体どうしたって言うの?首を傾げる私の右隣へと腰を落ち着かせ、身を寄せた山姥切に浴衣の袖を思い切り体の内側へ寄せられる。闇に染まった室内の暗がりでもそれは十分異質に感じられた。腕の隅々に押しつけられたような痕は、右の手首から肩までびっしりと走っている。闇にぼんやりと浮かぶ肌の白さが、幾重にも重なる青黒さを面白いほどに引き立てているようだった。
「……あはは、……これはちょっと……」
子供の手形。私の腕に残る痣は、子供の手の平がつけた青黒い落葉だった。この本丸でいえば、薬研を除く短刀たちの手の平が程よい大きさをしているかもしれない。だけど、生憎とこんな痕を残すような子は此処には居ない。この本丸の子たちは誰も彼も皆、私に優しくしてくれる。くすぐったさを感じるほど丁寧に、温かく触れてくれる子たちばかりだから。こんなにも色濃く残る痕からは優しさや温かさは感じられない。どちらかと言えば正反対の、恨みや怒りの感情だけがひたすらに込められているかのような黒い落葉。こんな風に私に触れる子なんて一振たりとも居ない。そう思うから、私たちはあらゆる感情の中に困惑の色を滲ませているんだろうと思う。
「主殿、申し訳御座いません」
形ばかりの断りを入れたかと思えば、それまで戸の一番近くで黙り込んでいた一期一振が徐に立ち上がる。そして流れるような動作で私の傍へと近寄り、山姥切とは反対側に回った。隣へ腰を下ろした一期をただ見ていると、手に持った己自身をそっと置く。伸ばした先の手は私の胸元へ。
「おい、一期…」
お前、一体何を?訝しげな声色で問い掛ける山姥切はすぐに息を呑んだ。それきり言葉を発せなくなったのか、私の腕に添えていた温かな手が心なしか冷たくなっていく気がする。手袋越しの一期の大きな手で寛げられた胸元に向けられた視線。確かめたわけじゃないけれど、咄嗟に長い髪を流すことで何かしらを隠そうとした私の思惑は的を射ていたらしい。だけど、それも無言のままの一期の手が全てを取り払っていってしまう。するりと背中へ流された髪。そして隅の机に置いてあった手鏡を持ってきた薬研は険しい表情のまま鏡で私の首元を映す。一等強い青黒さが、自分の首の中央に刻まれているのを見てしまい、山姥切や一期のように言葉を失くしてしまった。
「なあ、大将」
ただ流れた沈黙に終わりを告げたのは薬研。両脇に腰を据える二振は祈りでも捧げているかのように腕に縋っている。薬研はしゃがんだ格好のまま眉を下げて、私の頭をゆっくり撫でていく。
「あんたは、一体何なのか説明出来るのか?」
『何』という言葉の中に薬研が詰め込んだ意味は一体幾つあるのだろう。この幾重もの痕と、痕を刻んだもの。その目的。そもそも彼等がここへ来るに至った理由とか。それから私自身だろうか。薬研の問いの意味は分かる。でも私の意識下には何一つ答えらしいものは見当たらなく、彼が欲しいと思っている回答をあげることが出来そうになくて。視線を落としながら首を横に振る。
「……ごめんなさい」
「それは、俺たちには話せないって意味か?」
「いいえ、私は答えを持っていないのよ」
そうかと頷く薬研を見ていればまた沈黙が流れるかに思われたけれど、眉を下げたまま笑われた。
「おい、その辺にしとけ山姥切。そら、いち兄もだ」
すっかりいつも通りになった薬研の声色に肩を揺らした二振はやがてゆっくりと顔を上げていく。
「あんたら、なんて顔してんだ」
うちの大黒柱がそんな情けねー顔するとはなあ。向かい合っている薬研があまりにも呆れた顔をするものだから、どうにも気になって自分を挟むように座ったままの二振へと視線を移すのに。
「…あんたは見るな」
「…ご勘弁ください」
頭から布を引き下ろす山姥切と懸命に顔を背ける一期。そんな二振を見遣れば、不安に揺れていた私の心もようやく凪ぎ始めたからほっとした。ぐいっと肩を引き寄せると二振の頭に挟まれる。
「大丈夫よ。私は此処に居て、あなたたちの前で笑っている」
あなたたちの手の届くところで、こうして生きている。勝手に死んだりしないわ。これは約束よ。口から出てくる声が穏やかなもので安心した。そうして笑うと、一番に反応してくれるのは薬研。
「まずは俺っちたちで気をつけていけば良いさ」
そうやってゆっくりやってきただろう。大将が生きている限り、俺っちたちが折れることはない。逆に俺っちたちが折れなければ大将が死ぬことはない。そう言って、頭をくしゃりと撫でられた。
「難しいことじゃあないだろ?」
「ええ、そうよ。だから大丈夫ね」
頼んだわよ、うちの大黒柱さんたち。二番目に応えるのは山姥切。背に回った手が温度を取り戻している。私の浴衣を固く握り、そのまま額をこめかみにぐりぐり押しつけてきて堪らずに笑う。
「あんたに言われずとも、そんなの当たり前だろう」
「あはは、可愛い子ね」
擦り寄ってくる山姥切のさらさらな髪の毛を撫で、もう一方の一期の肩をゆっくりと撫でていく。
「いつも澄ましているのに、あなたも随分心配性だからなあ」
「良かったなあ、いち兄。大将のお墨付きだぜ」
「はは……これはこれは…」
普段なら滅多に聞かないような、あまりにも力のない声を出すものだから不憫になる。せっかくの男前なんだからと自分よりも大きな体を強く抱き寄せると、素直に寄り掛かってくる一期。
「大丈夫よ、あなたがよく分かっているでしょう」
この本丸は少しずつ、ゆっくり強くなっている。慎重に焦らずを信条とする私の方針には焦れったさを感じている子が居ないわけじゃないけど。それでも、確実に戦い勝ってきた。三振目として顕現した一期はそれを良く知っている。大丈夫、皆でゆっくり確実に歩みを進めていけば良い。
「…主殿、」
「なあに?」
徐に顔を上げた一期へと視線を向ければ、もうすっかり澄ました面持ちで私を見据えている。
「この身を焼く炎をも使って、私は主殿の剣となりましょう」
忘れもしない初めて会ったあの時にも一期はそう言っていた。その真意を尋ねてみたことはないけれど。これはきっと彼なりの、彼だけが持つ誓いなのだろうと考えて口角を上げながら頷く。
「ええ。宜しくお願いしますね、一期一振」
あの日、返せなかった返事を気に掛けていた。ようやく口に出来たと心の底から安堵して笑う。
「別に、一期だけがあんたの剣じゃない」
「もちろん分かっているわよ、可愛い子」
よしよし、と双方を撫で繰り回していれば、存外嬉しそうに頬を寄せてくるから少しだけ驚いた。それを内心に留めながら外には微塵にも出さずに笑い、ぎゅうぎゅう音がしそうなほど肩を抱く。
「やっぱり、うちで一番の男前は大将だな」
快活な声を上げて笑う薬研。ふと気づけば、部屋へ差し込む白い光に夜明けが近いことを知った。