連絡はいつも突然。指定された時間と場所へ、これまた指定された通りに絶対的な信頼をおける関係者一人を連れ立って向かった。
そこには既に連絡をしてきたその人が居て慌てる。エンジンが掛かっていない車の運転席に座る人物と目が合うと、無言のままに乗車を促されたのだった。
「私が運転いたします」
連れ添った部下の男がそう進言すると、運転席に乗った男は僅かに口角を上げて首を横に振った。
そのまま大人しく乗れ、ということだがこれいかに。
悩んでも仕方ないと後部座席のドアを開けようとしたが俺は助手席へ乗るようにと指示される。
上官相手に顔をしかめるようなことはしないが、一体何だというのか。
俺は大人しく助手席へ、部下の男は俺の後ろの後部座席へと座った。
「悪いな、今日のお前たちの予定は押さえさせてもらった」
「……あなたの御意志であれば我々は構いません」
腰を落ち着かせ、シートベルトを着用すればエンジンが掛けられる。
徐に話し始めた声はずしりと重たくゆったりと響いていた。
バックミラー越しに視線を向ければ風見も無言のまま首肯する。
「これから行く場所に住所はない」
「……はい?」
「此処から近い所だ。一発で行き方を覚えろ」
そう紡がれる言葉を受け止めるものの、全く頭がついていかない。
住所がない場所へ連れて行くとは一体どういうことなのか。
この国にそんな場所があるなんて今まで知り得なかったことだ。
隻眼の大男は、ハンドルを握ったままゆっくりと話を続ける。
その内容はこれから向かう場所が一体どんな場所であるかについてだ。
そこは住所がないどころか情報という情報そのものが一切文字に起こされていない。
その場所に『生きているものたち』は居るが場所と同様に具体的な名前や存在についてなども文書にはなっておらず、公安の極限られた一部の者たちだけで詳細な情報を口頭継承をしていること。
そのほとんどが警察の上層部だが、上層部だからといって全ての者が知っているとも限らない。
原則として口外しないこと。
その場所で確かに存在しているものたちはこの世界にとって異質なものたちである。
我々公安の人間がこの情報を知り得ている理由は監視するためとしているが、あくまでも表面上の口実に過ぎない。
実のところ、互いに干渉し合わない約束を古い時代に交わしている。
職業柄、秘匿性のある事柄は階級が上がるにつれて必然と知り得ていくものだ。
その中のどの情報よりも秘匿されるべきものであることを強く認識すること。
運転席に座る上官は声色を変えないまま、ほんのひと呼吸分だけ間を置く。
そうして溜息のような深く長い息を吐き出したかと思えば一度閉じた口を再びゆっくりと開いた。
情報量が膨大過ぎるあまりに詳細なことは追々話すこととするが本案件の重要性は何よりも高く、国家を揺らがしかねないものであると言っても過言ではないこと。
重みを感じるのは気のせいではない。
この国の安寧を揺らがせる可能性を秘めた情報を予告もなしに提示されて、さすがに混乱を禁じ得ない。
語られる言葉の意味を正しく思い浮かべながら咀嚼しようとは思うのに。
かつてこれほどまでに戸惑いを感じたことはあっただろうか。
どんな理不尽にもそれなりに対処してきたはずなのに、その全貌が見えないことでこんなにも緊張感が芽生えてしまう。
言葉を返すことすら出来ない俺と風見が醸し出す雰囲気を察したのか、上官は幾分か穏やかな声を出して笑った。
「そろそろお前も知っておくべきだろうと思ってな」
随分と急で悪いが、アポイントを取ってある。
そう上官が話しているうちにやがて車は減速した。
「着いたぞ」
その声を聞きながら車が停車したのは随分と広い敷地。
目の前に広がる大きな日本家屋に、思わず目を見張った。
上官から指定された場所は勤務地である霞ヶ関内のひと気のない駐車場。
運転席に座った男から促されるまま車に乗り、そこに至るまでの道に関する言葉は一切ないまま話を聞きながらも流れる景色を頭に入れていた。
車が走っていた時間は十分にも満たない。
その程度の距離に、こんな敷地や建物があっただろうか。
公共事業などの理由によりこの国の状況は日増しに更新される。
必須ではないものの、最新の日本地図は脳内に全て叩き込んでいるというのに。
その何処を探ったとしてもこんな場所に該当するものはない。
ありえないと思ってしまった。
「……住所のない、場所……」
驚くことしか出来ないまま、溢れ落ちた声は小さく掠れていて。
車内でぐるりと見渡せば視界に入る風見がしきりに眼鏡を拭いているのを見てなんだか笑いそうになって。
おかしな話だが、人間というものは自分の理解出来ることのキャパを超えると何故か笑いが込み上げてくるらしい。
別に面白い訳でもないのに勝手に釣り上がってしまう口角を押さえられそうになくて。
日本にこんな場所があるなんて知りもしなかった。
当然だ。これこそが一切の文書にされていない一番の理由でもある。
限られた者の中で口頭伝承する意味は確かに達成されているのだろう。
無い情報を探ることは事実として不可能だ。
今の今まで聞かされた話の重要性をようやく理解したような気がする。
この世界にとって異質だというその意味を、俺は今この瞬間に身をもって実感した。
「お、来たな」
再び促されて車を降り、建物の方へと歩いていく上官の背中を追う。
待ってたぜ、という声に目線を移せばさらりと揺れる黒の髪と白磁のような肌が見えて。
随分と見目の良い少年だと思った。
「本日はお時間をいただきありがとうございます」
「なーに、こちとら暇してるんだ。たまの話し相手なら大歓迎だぜ」
流れるような動作で深々と頭を下げた上官を目の前にぎょっとする。
見た目の割に達観した雰囲気を感じさせるとは思ったが、線の細い少年に大男が恭しく頭を下げるなど誰が想像しただろう。
「立ち話もなんだ、案内するぜ。大将が待ってるもんでね」
ゆるりと微笑む姿はこちらへ背を向けた。
どうやら案内役として外に出てくれていたらしい。
すらりとした背丈をしているが見た目はどこからどう見たって少年のそれだ。
小さな背中を追うようにして歩き始める上官の後へ続き、屋内へと足を踏み入れる。
広い玄関に立っただけで随分と澄んだ空気を感じた。
蓄積した疲労が一瞬で拭われるような感覚を覚えて、軽くなった体に驚く。
「あんた、随分と此処の気に馴染みやすいんだな」
不意に振り返った少年は見定めるようにこちらを見る。
細められた藤色の瞳が見つめるのは、俺。
「……そう、なのでしょうか……」
見目から抱く印象のままつい軽く声を掛けそうになるが、上官が敬語で話す以上は俺もそうすべきだろうと判断してワンテンポ遅れて返答する。
見た目と中身が伴わないのではと首を傾げてしまうような少年を一人知っているが、あの子とは違う。
その言葉の意味を完全に理解することは叶わないとはいえ、目の前の少年やこの建物から感じられるのは明らかに知らない気配だった。
結果として、その場所に存在しているものたちとのファーストコンタクトは予想外の早期撤退を余儀なくされた。
事情が事情だったために特に不満もないままに上官が運転する車へまた乗り、霞ヶ関の勤務先へ戻ってきた後は自由行動を言い渡される。
上官は宣言通り本当に午後いっぱいのスケジュールを押さえていたようでいつぶりかのフリーな時間を与えられたのだ。
乗っていた車を降りればまた後日連絡すると言い残した隻眼の男は業務へと戻っていき、風見もそれに倣うようで。
生憎、スケジュールを押さえられたところでその間の仕事が消えてなくなる訳ではない。
一人残されたひと気のない駐車場で徐に背伸びをすると、脳裏に浮かんだのはデスクに積み上げられた書類の山。
とりあえずあれを一旦片付けるかと息をついてから己の部署へ戻っていった。
ひたすらに積み上げられた書類は自分で思っていたよりもスムーズに片づいていく。
仕事はそんなに遅い方ではないと自負しているものの、それだけではないと思った。
その理由はあの場所の澄んだ空気と触れ合った瞬間に感じたこと。
気が馴染みやすいと表現されたその意味を自分の言葉で言い換えるなら、蓄積された疲労が根こそぎ霧散したとでも言えば良いだろうか。
初めて訪れた場所なのに、酷く安心感を覚えたのは何故だろう。
澄んだ空気の中には確かに何かの気配が沢山潜んでいたのに、体は強張るどころか緊張感すら湧き上がってこない。
こんな経験は初めてだったと思う。
いつどんな時であっても緊張と仄かに混じる死の匂いに絡め取られないようにと気を張っているはずなのに、あの場所ではそれが出来なかった。
体の芯まで安心出来るような、そんな甘やかな感覚に包まれたことがとても信じられなかった。
そして、純白を纏う彼女の姿を見て心臓を握られたかのように息を呑んだあの瞬間。
その姿から目を離すことが出来なくなると同時に、どこか様子がおかしいことにも気づいていて。
ぱちり、とチャンネルが合ったかのような意志が灯る金の瞳を見つめれば、自分の体を駆け巡っていくバチバチとした衝撃に瞬いた。
じくりと胸の奥に広がる狂おしいほどの熱を自覚して、正直に言えば訳が分からなかった。
まさかと己を疑ってみるのに。
何度自問を繰り返そうとも、己の本能が叫ぶ想いの方が何倍も強かった。
甘ったるい蜂蜜色にとろけるような金の瞳をずっと見つめていたい。
太陽の光すら弾きそうなほどに透き通る白の頬を何度も撫でたい。
そよ風にすら拐われてしまいそうなさらりと流れる白銀の髪に口づけたい。
名前を呼んだら笑って欲しい。
そうして流れるように自然と甘やかな言葉を幾つも並べ囁きたい。
手を伸ばしたい。抱き締めたい。それから、それから。
あれをしたい、これをしたいと彼女へ対する想いが浮かんでは消え、また浮かび漂ったまま消えていかない。
帰り際に向けられた柔らかな笑みに息が詰まり、思わず伸ばした手は彼女が従える少年に掴まれた。
正直言ってほっとした。
もし、もしも彼女が俺の手を受け入れたとしたら。
その時はきっと止まれなかっただろう。
トリプルフェイスを使い分ける自分が理性を保てないことに驚く他なかった。
『また、直ぐにお会いできますから』
そうして絡まった蜂蜜色の甘やかな視線の糸をきっと何度でも思い出すのだろう。
早く、早くまた会える日が来れば良い。
そう彼女も思ってくれていたならと年甲斐もなく思ってしまうのだ。
『はい、必ず』
たったそれだけの返答に込めた、とても自身には堪えきれないほどの熱量が彼女にも伝われば良いのに。
アラサーに片足を突っ込み掛けている男の思考とはとても思えないな。
ふと我に返りながら苦笑を浮かべて、くしゃりと長めの前髪を思わず掴んでしまう。
沢山のものを失くしてきたはずなのに、子供みたいに運命なんてものを信じたくなった俺を彼女は笑ってくれるだろうか。