「ただ、泣いている君を慰める役割を俺だけにくれないか」

焦がれに焦がれた次の機会は、彼女が言う通り本当にすぐやってきた。

「呼び出してすまないな。今日もお前たちのスケジュールは押さえさせてもらった」

俺たちのスケジュールと共に上官の名前で押さえられたのは、比較的小さい会議室の利用権。
社内クラウドのシステム上に表示されたこの会議室の利用目的は庁内見学者への接待だ。
言われるがままあの日と同じように風見を連れ添った俺に本日与えられた役割は、重役のご令嬢に警察庁内を案内するというもの。
しかも、何故か妙に設定が細かいらしい。
そのご令嬢は俺を大層気に入っており、俺が案内役を引き受けなければ絶対に嫌だなどと言っているらしい。
重役に当たる父と、警察庁と協力関係にある兄からの希望もあってぜひ俺になんていう指名を受けていると説明されて混乱しないはずがなかった。
何故なら、彼女は絶対そんなことを言わないだろうと思っているから。
こんなことを仕掛けるとすればそうだなあ、彼女を妹と呼んだ色構成が同じあの男あたりだろうか。
とはいえ、いつの日か彼女自身が本当に俺を指名してくれたなら、と考えてしまうことは不毛なのだろうか。
全く、年甲斐もなく不純というか下らないと誰かに一蹴されてもおかしくないことを何度だって考えている。
そうじゃなくてもこんなこと誰にも言える訳がない。
彼女とはそういう契約を交わしている。
息を吐き、促されるまま会議室の椅子へと腰を下ろした。

「彼女たちのことについて話していないことが沢山あってな」

そのうちの一つを話そうと思う、と相対する隻眼の男が言った。

「俺が彼女たちと初めて会ってからもう随分と経つが、見た目は微塵も変わっていなかった」

お前たちが目にしたあの家屋も、そこに住むものたちも。
あの場所に存在した全てのものがこの世界にとっては異質なものである。
そう説明する上官に思わず瞬く。
『異質』という言葉が示す意味は我々人間とは異なる存在であり、理を同じくしないからこそ表されるものだと加えられた。

「誰一人、変わっていないのですか?」
「ああ、そうだ」

端的に言えば彼女たちは人間ではないそうだ。
あの目を細めてしまうほどに鮮麗で美しい真っ白の主人は、聞く限りでは随分と大昔からあの姿のままらしい。
それはあの場所を統べる主人だけでなく見目の良い彼等もまた同じ。
時間という概念に当てはまらない概念は、他に存在しない。

「……そんなこと、」
「ああ、そうだな。俺も久し振りに会うまでは正直疑っていた」
「本当なんですね」
「こんな嘘をついても仕方ないからな」

息を吐く上官の言葉は酷く重いものなのに、まるで子供の頃に聞いたお伽話のようだと思った。

「それから、彼女たちとはある契約をしている」

一、審神者と刀剣男士は、人間が生きる現世の出来事に一切関与しない
二、歪に該当するものが他に生じた場合、我々は一切関与せずその対処全てを審神者へ移管する
三、審神者と刀剣男士は秘匿するべきものであり、一部の者のみで伝承し一切の情報を残さない
四、互いに仇を成さず、干渉し合わないこと。

遠い昔に彼女たちと交わしたそうだ、なんていうどこか他人事のような言葉を本当に信じるとすればその契約を交わした人間はもうとっくの昔に居なくなっているのだろう。
あの場所が一体いつからあるのかは分からない。
その契約の通り彼女たちに関する記録は一切残っていないからだ。
当時の警察という組織が今と同じ体制だったかすら怪しい。
その時の警察権を担っていた組織が一体何かは分からないが、彼女たちの存在を知ることが許される者は昔も今も限られた人間だけだ。
高い地位に居ても全ての人間の耳に入る訳ではない。
ましてや『ゼロ』に所属する人間なんてもっと限られている訳で。
自分はラッキーだったと思うべきだろうか、なんて。
想像も出来ないような長い時間を存在し続けている彼女の表情を思い浮かべる。
あの美しい人と共に生き、共に死んでいくことは出来ないのかと思えば胸の内に広がるのは残念に思ってしまう感情だった。

***

「待たせたな」

 よ! と快活に笑いながら片手を挙げた白い男は、シンプルな白いシャツに黒のスラックスを履いている。
俺たちは目立つからなあ、少しでも紛れると良いんだが。
そう言って肩を竦めて見せる様子は特段変わった仕草ではないのに。
やたら見目が良いせいで特別なことをしなくともあらゆる視線を集めてしまうのだろうと思ってしまった。
見ている限り、どうやら本日の引率役は彼のようだ。
後ろに続いてきたのは白磁の肌を持つ黒髪の少年と、自分と同じ金の髪に蒼い目の青年。
彼等も洋服を着ていると随分印象は変わるが、そこに居るだけで人目を引き寄せるなとまじまじと考えてしまう。
そして、あの時とは違って黒の長いウィッグを被ってきたという彼女。
息を呑むような美しい白銀の髪ではないのに、人工的に作られた漆黒の色ですら似合っている。
和服を纏っていた時は厳格さの中に艶めかしさを兼ね備えていたが、今目の前に居る彼女は見た目の年齢に合わせたのか清楚で可愛らしい装いをしていた。
思わず目を細め無意識のまま口を開く。

「和服もお似合いだと思いましたが、洋服もとてもお似合いですね」

お加減はもう大丈夫ですか。
変わらず透き通るような色白の肌はほんのりと柔らかな赤が差している。
思い返してみれば、あの日はもう少し青白かったかもしれない。
申し訳なさそうに眉を下げながら笑う彼女に謝られても首を振った。
ただ、もう大丈夫だという返答には心の底からそれは良かったと頷く。
忙しいには忙しいが、自分の稼働よりもあなたの体の方が心配だからとはさすがに言うことと躊躇ってしまう。
まだ顔を合わせてから二回目だ。
急にがっついているように見えるのはいかがなものか。
口にしても良い言葉と、今はまだ出来ない言葉の分別くらいつけられなくては。
なんて、出来る限りの穏やかな笑みを浮かべながら胸の内でぐるぐるとしているものを覆い隠すようにする。
まあ、あの日はほんの少し顔を合わせた程度だ。
今日は時間が許す限り少しでも長い時間を彼女と過ごせたら良い。
そんなことを考えれば意識せずとも笑みが浮かぶ。

「お褒めいただきありがとうございます」

当たり障りのない返しと人懐っこい笑み。
ドライな反応は十分想定内だ。
彼女は誰がどう見たって俺よりも年下にしか見えない可憐な年若い見た目をしているのに、俺が生きてきた時間なんて比べ物にもならないような途方もない時間を過ごしてきたのだと知ったから。
このくらいの言葉で揺らいだりはしない。
そう思うと、せめて瞳に甘やかな熱を込めるくらい許して欲しいと思う。

「今日はうちの子たちが張り切って考えてくれたもので」
「ああ、なるほど。あなたの魅力が一層引き立てられているのも頷けます」

流れるように返したその言葉は本心だった。
どれだけ気を引き締めたところで素直に思ったことを口にしてしまう。
そんな自分に苦笑するものの、彼女はそんな魅力を持った人だから仕方ないとも思ってしまう。
決して開き直っている訳ではないが、どうも脊髄反射のような感覚で口から言葉が溢れ落ちてしまうことに頭を抱えたくなる。
これじゃまるで安室透じゃないか。
あれもあれで自分だからと言われたらそれまでだが。そうじゃない、そうじゃなくて。
彼女がこれまでに過ごしてきた膨大であろう時間には到底敵わないだろうが、一般的な人間の年齢で考えたらこれでも三十手前の男なのだ。
きっと人よりはあらゆる経験を無駄にしているはずだからもっと大人らしく振る舞えと胸の内で自分を叱責する。
だが、視界に映る彼女の滑らかな白い頬はほんのりと濃い赤に染まっていた。
何故か唇を噛み締めていることに気づいてほんの少し瞬く。
この反応は一体どういう意味なのかと思案しながらも期待しそうになる自分に苦笑した。
愛らしく染まっていた頬はすぐに表情が引き締められたことで見る影もなくなってしまう。
それが残念に思えて、案外思ったままの素直な言葉を贈れば良いのではなんて考えながら背丈の違う彼女を見下ろした。

「それでは、ご案内いたします」

タイミングが良いのか悪いのか。
上官の声を聞いた彼女が、行きましょうと微笑みながら言った。
やれやれ、出だしからこんな調子でどうするんだ。と、人知れず息をつく。
視線を感じて徐に振り返れば、じとりと半目のまま口を一文字に結んだ金髪の青年とはははと藤色の瞳を細めて笑った少年。
その隣で眼鏡の位置をしきりに直している風見の姿を何とも言えない気持ちで見ていた。

***

本来なら先日のうちに済ませるはずだった彼女との顔合わせを行う。
彼女はあんな風になってしまって申し訳ないと謝るが俺にとっては願ったり叶ったりというか、なんというか。
上官が知る限りの情報ではこれまでに行われてきた交流では年に一度面会することがあれば頻度は多いと言われるらしい。
前回こうして彼女たちと面会するのは上官がまだ入庁したばかりの頃だったと聞くから、直近のうちに複数回顔を合わせることそのものが異例中の異例。
体調が優れないというのが事実だったのかは定かではないものの、あの日の彼女はどこか困惑のような色を滲ませていたように思うから何かしらの理由はあったのだろう。
基本的には報せがないことが良いこととして捉える他ないため、これまでに実現してきた面会を申し出るのは警察側からなのだとか。
そしてその理由の全てが所属する警察官の代替わりのタイミングらしい。
そしてその内のどのタイミングにおいても、先方の主として姿を現すのは美しい真っ白の女性。
どの代のどんな人間が見ても彼女の特徴は変わらないし年を取ったようにも一切見えないという。
これらの情報を全て口頭だけで伝承するのはなかなかに大変だと感じるが、案外そうでもないようだ。
互いに知っている情報にも制限を掛けているためと上官は言っていたが、必要以上に互いへ干渉しないという取り決めがある以上は当然かとも思う。
互いに知っているのは、彼女たちと警察がこの世界ではどういう役割や立ち位置を担っているか。
それと、連絡手段。
互いの手の内は詳細に明かさないし、明かしたところでどうにか出来るものでもない。
知らなくて良いこと、知ってどうにかなることではないことを必要以上に漏らさないことを彼女たちは徹底している。
それは審神者と刀剣男士という存在と人間が邂逅した時から絶対にブレない軸だと言われている。
上官とは久し振りだという言葉を交わす彼女たちは、改めて俺と風見の方を向き直る。
今代の審神者を務めるのがあの場所を統べる女主人・鈴彦姫。
それから彼女に付き従っている刀剣男士の彼等。
改めて挨拶をした後は彼女たちの前で互いの役割にまつわる話を上官の口から聞かされることになる。
知らなくて良いことは知らせないという関係性だとはいえ、知るべきだと言われる情報は膨大だった。
今はかいつまんで話すが、以降はこれまでしてきたように時間を掛けて口頭伝承してようになるらしい。
ただ一つ念を押されるのは、くれぐれもここで知り得たことを他言しないようにとのこと。
彼女たちの存在はゼロに所属する全ての人間が知っているのではなく、選ばれた一部の人間だけが情報を与えられこのような交流を保っているようだった。
とはいえ、国家機密レベルに該当するあの場所のことを知り得る人物は何もゼロの人間だけではない。
ゼロの上に当たる警察庁長官と、更に警察を統括する防衛省長官。
果てには内閣総理大臣と天皇にも情報は継承されているが、それは今代審神者の意向により『伝承』という形で受け継がれているに過ぎないようだ。
情報を途絶えさせてはいけないがいつどこで情報が漏れるともしれない。
天皇や総理大臣が入れ替わる度に面会をしていたのではいずれ何かしらを嗅ぎつける者が現れる。
そこまで考えたからこそ、彼女たちの存在が事実であることを知るのは警察庁長官までに留められている。
ただ、役割的に面会などの交流や連携を取るのはゼロだ。
有事の際に組織のトップが直接コンタクトを取るような状況には絶対ならないだろうという判断がされている。
ゼロの中の限られた者だけが情報を知り得ることができ、更にこうして彼女たちと顔を合わせることが出来るということを絶対に忘れるなと強く念を押された。
風見の存在は問題なかったのかと一瞬感じた不安については何年か前に許可を得たと聞き安堵の息を漏らした。
呼び出しを受ける前に風見の所属や経歴などをひと通り報告させられていることもあって問題ないとは思っていたが、対応する案件が年々複雑化していることもありゼロの負担も大きいからなと付け加えられたら苦笑してしまうのだった。

彼女も刀剣男士も長い時間を存在し続ける九十九神という概念である以上、この世界にとっては異質なものでしかない。
先ほど上官から聞いた契約は彼女本人が当時この日本を取り締まっていた組織の人間たちと随分と昔に交わしたものらしい。
あらゆることに関してお伽話だとカミングアウトするなら今のうちですよと上官へと視線を向けるのに、彼の表情は至って真面目なものだった。
こっそり息を吐きながら頭を切り替えて、件の契約について真剣に考えてみることにする。
彼女たちからはっきりと明言されたことはないそうだが、その契約の根本にあるのは審神者と刀剣男士に関わるなという拒絶の意思だと思った。
我々人間側がどの程度のことまで知り得ることが可能なのかは謎だが、きっとその存在は人間の手には負えないのだろう。
関わりを断つことは一見冷たいようにも感じるものの、よくよく考えれば人間を守ることに繋がるのではないだろうか。
契約の一つに、審神者と刀剣男士が相手するべき歪が他に生じた場合という話があった。
彼女たちは己の存在を歪と評しており、他にも歪が発生する可能性について契約という形でこちらへ教えてくれている。
これまでにそういった出来事が起こったことはないとも聞いたがこれから先もそうとは限らないし、生憎のところ彼女たちはそれを予知する術を持たないのだろうと推測した。
それから、彼女たちの存在を秘匿する理由。はっきり言えば、審神者や刀剣男士は得体の知れない存在なのだ。
世間にその存在が知れ渡った時、一体誰がどんな行動を起こすとも限らない。
人間の醜い欲深さが時に恐ろしい現実を引き起こすことを、俺は嫌というほど知っている。
彼女の判断や行動は正しかった。そう誰もが納得するのだろう。
聡明な美しい神様は長い長い時間を掛けて住所のない居場所と文字にされない包み隠された自身を手に入れた。
そして誰にも知られず、誰からも関心を持たれない環境を作り出し彼女に付き従う刀剣男士という神様たちと無限の時間を過ごすことを選んだのだ。
知る者もなく干渉する者が居なければ、あの場所はただ在り続けることが出来る。
外との関わりを極力絶ち、あの場所だけに流れるゆったりとした時間をひたすらに甘受し続けてきたのだろう。
これからも変わらない時間を過ごし続けるため、その時代の日本を取り締まる者にだけ自身の存在を知らせることで万が一の事態にも備えている。
実際に目にした訳ではないが、その一連の流れからはどこまでいっても人間を慈しんでいるのに己はこの世界の歪でしかないという自戒のようなものを感じた。
あの場所は、まるで鳥籠のようだ。
扉の鍵を外側に居る人間に掛けさせ自らの手では開けられないようにしている。
拒絶するような印象を与えてしまえば外側の人間は決して扉を開けない。
澄んだ空気が充満するあの場所に彼女は自分自身を閉じ込めることにしたのだろう。
そう行き着いた思考は根拠などないのになぜか確信を持っていた。
互いのことをある程度話し終えて、予定通りに施設内を案内すると提案する。
上官は呼び出しの連絡に顔をしかめていたが、この場は問題ないと進言して任せてもらった。
この人も様々に役割を持っているから随分と忙しい人だからと気を遣ったというのもあるが、上官が居ればただでさえ人目を引くこの面々に更なる視線が注がれることになるのは想像するまでもなく分かってしまうから。
涼しい顔をしながらも心なしか急ぎ足になっている上官の背を心の中でそっと合掌しつつ見送ると、俺は行かなくても良いのかという心配そうな声が掛けられる。

「いえ、庁内の案内をする時間くらい、大した問題ではありませんよ」

それは決して格好つけて言った訳ではなく、例え何か用事があったとしても上官の名前で押さえられた俺のスケジュールを見て呼び出しをしてくるような奴はそう居ないという確信があったからこその言葉だった。
もしそれでも呼び出しを食らうようなことがあった時は、恐らく並大抵の事件ではないだろう。
それこそこの日本の危機だとかそれくらいの規模のやつ。
なんだか雑な思考になったことは否めないがそうじゃなきゃ困る。
というか、キレる。
上官がそんなことのために今日この場を設けてくれた訳ではないと分かってはいるけど、こんな時でもなければきっと彼女と顔を合わせることなど簡単に出来やしないのだから。
時間にしてみたらほんの一瞬に過ぎないものだったとしても構わない。
ほんの少しでも良いから、この時間が長く続いて欲しい。
今日はポアロも休みだし組織も特段急ぎの用はないこと頭に浮かべて不安そうな表情の彼女に微笑む。

「それに、見学しに来たご令嬢が見学もせずに帰る方が不自然でしょう」
「……確かに、降谷さんが仰る通りね」

ほんの僅かに思案するような素振りを見せたかと思えば、すぐに頷いた彼女の本日の『役名』は重役のご令嬢。
対する俺は彼女から直々にご指名いただいたエスコート役。
きっとふざけて与えられた設定だとしても先方からそう申し入れてきたのだから俺は最大限にこの役割を全うしたい。

「それでは、行きましょうか」

肩を並べて立つ鈴彦さんとは随分と背の高さが違った。
あくまでも目測でしかないが恐らく二十センチと少しくらいの差はあるように思う。
小さいなと感じるのはすらりと伸びた手足がやけに細いから。
彼女が懸命にこちらを見上げる表情は自然と上目遣いになるからこれはこれで辛いものがあって。
こればかりは仕方がないなんて思っていれば、するりと伸びてきた手が腕に触れる。

「ええ、あなたと一緒なら何処までだって行きますよ」

優しくて穏やかな声だった。透き通るような音が俺の体を包み込みじんわりと内側まで染み込んでいくようなイメージが途端に脳裏を過っていくのを感じてしまえば思わず息を吐いてしまう。
心地良いと思うのはこれが初めてではない。
だからこれから先、何度聞いてもまたこんな気持ちになるんだろうなと思ってしまった。
腕に触れる温もりの正体は分かっているのに、頭の処理が追いつかなくて。
下ろした視線の先には首を傾げる彼女がにこりとあどけない笑みを浮かべている。
冗談抜きで心臓が止まるかと思った。
俺が内に秘めている気持ちなんてこれっぽっちも知らないであろう彼女はなんて非道い女性なのかと小さく唇を噛み締めてしまう。
びしりと固まってしまった体を叱責したところで動いてはくれず年甲斐もなく頬には熱が差していることも分かっている。
そんな俺に驚いた彼女が目を瞬くのを見ていればなんだか悔しくなって添えられた手を掴んだ。
白魚のような指を慎重に握り、並んでいた位置から真正面で向き合う位置へと移動する。

「あまり、そのように男を煽ってはいけませんよ」

丸く、小さな指先が決して壊れてしまわないようにそっと柔く触れながら撫でて。
音もなく口元に引き寄せてみる。
当たるか当たらないかの距離を保ち、口づけするかのような動作をしたまま。

「俺も、あなたとなら何処までもお供します」

蕩けてしまいそうなほどに美しい蜂蜜色の瞳を覗き込んだ。
呼吸を忘れた彼女は、まるで時が止まってしまったかのように固まっている。
比喩としての意味ではなくこのまま本当に時が止まってしまえば良い。
そうすれば俺は彼女とずっと一緒に居られるのに、とどうしてかそんなことを考えてしまう時の俺は妙に自信家だから苦笑してしまう。
いつだって『運命』の二文字が誰にも見られることのない頭の中を幾度も過るのになんで俺はこの女性と共に生きていくことが出来ないのだろうか。
彼女はそんな俺の気持ちも知らずに、何もかもを愛しむような微笑みを浮かべる。

「降谷さんって、女を喜ばせるのがとってもお上手ですね」

小さな唇が紡ぐ言葉はその穏やかな声色とは裏腹に随分と鋭利だなと思ってしまった。
自然と下がってしまう眉は俺の感情の浮き沈みをはっきりと彼女に伝えてくれるだろうか。
なんて、簡単には揺らがないと決めたはずなのに自分の都合でしかないことを彼女が汲み取ってくれやしないかと期待するのがなんとも情けない。
そして、俺はどうしようもないほどに傷ついているのだろう。
組織の任務という言い訳を盾にして時と場合によっては女性を喜ばせるような『パフォーマンス』で情報を得ることもある別の自分が苦しげに顔を歪めていた。
強く奥歯を噛み締め、固く握った拳を震わせながら鈍く痛む胸の内を宥めるようにゆっくりと深呼吸を繰り返しているのが嫌というほど分かってしまう。
お互いの関係性上、深いところまで話すことは出来ないから彼女は俺が抱えている事情なんて何一つ知らない。
だから、彼女が口にするその言葉に込められているのはきっと彼女の都合だけであって決して俺を傷つけるような意味は含まれていないのだとも理解出来るのに。
こんなの、勝手に傷ついているだけだ。別に俺だけじゃない。
この世界の何もかもを愛しむような表情のまま甘やかに笑う彼女は優しい声色で全ての人間を突き放すのだろう。
非道い女だと、そう思えたなら楽なのに。
そうじゃない。そうじゃなくて、非道いのはきっと俺の方だから。
どんなに傍に居たいと願っても、どんなに隣に置いて欲しいと焦がれても。
それが叶うのは彼女から見れば泡沫のような刹那だけだ。
そんな風に一度でも思ってしまえば眉を下げて笑う他なくなってしまった。
さあ行きましょうと引かれるままに従うと背中へ声が掛けられる。

「俺たちは好きにしてるから、お姫様のことは降谷くんに任せよう」
「ちょっと、何言ってるのよ鶴丸」
「良いだろう?降谷くん」
「はい、もちろんです」

真っ白い彼の提案にほんの僅かに驚きはしたもののはっきりとした声を出しながら頷く。
真剣な表情を浮かべる俺の顔をまじまじと見つめる鶴丸殿は妙に満足気な顔をしたかと思うと徐に持ち上げた片手をひらひらと振ってこちらに背を向けた。
ほらお前たちも、なんて促しながら傍に居た山姥切殿と薬研殿だけでなく風見までも連れて行ってしまう。
それからはいよいよ二人きりだ。

「ごめんなさいね、降谷さん」
「いいえ、問題ありませんよ」

あまりにも申し訳なさそうに頭を下げられてしまうから、そんな風に謝らないで欲しいと思いながら出来るだけ穏やかな声が出るように意識する。
鶴丸殿の真意はいまいち掴めないものの、少しでも長く彼女との時間を過ごしたかった俺にとってはまたとないチャンスなのは間違いないから。
先を示せばはあいと素直な返事が聞こえた後、左腕にするりと添えられた手の熱を出来るだけ長く感じていたいと思った。
彼女の歩幅に合わせることを心掛けたつもりだが、きっとそれは小さな建前でゆったりと過ごしたいという自分本意さが根本にあったのだろう。
当たり障りのない説明ですら頷きながらこちらを見上げて反応してくれる姿をずっと見ていたいと思ってしまう。
擦れ違う誰もが物珍しそうな顔で彼女と俺を見ているのが分かる。
ふわりと淡く微笑む姿に男女関係なく目を奪われていたに違いない。
あれは一体どこのご令嬢だとコソコソ話す声が聞こえた。

実の所、案内して面白いと思ってもらえそうな場所はそう多くない。
というかそもそも警察庁内で部外者に案内出来る場所自体が少なかった。
これが一般の人間にも庁内を案内して回るツアーをイベントとして設けているような警視庁なら話は違ったのかもしれないが、それでもゆっくりと行ける限りの場所を案内する。
それは結局自分がそうしたかったからの一言に尽きるけど彼女は一つ一つ丁寧に相槌を打ちながら話を聞いてくれていた。
その仕草の全てが彼女の性格というか誠意のようなものなのだろうと思えば時折俺を見上げてくれる表情がますます魅力的に見えてしまうのも仕方なくて。
俺の想いなど知らないはずの彼女から向けられる一挙一動にどうしたって喜んでしまう自分と、目の前の女性にきっと他意などありはしないのだとどこか呆れたような顔をしたまま落ち着けと嗜める自分がせめぎ合う。
ほんの束の間の時間を甘く噛み締めたいと思うのに、舞い上がった所で彼女と相入れることなど出来やしないと上がるばかりの熱を冷ましながら次に向かったのは自分が所属する部署の居室だった。
此処の近くに自分の部署があるんです、なんて案内していれば向こうから歩いてきた同僚たちに声を掛けられる。
こんにちは。鈴が転がるような声で挨拶した後は俺の背中に隠れるように一歩下がってしまう彼女を食い入るように見入っている同僚たちの視線に気づき、ほとんど無意識のままじとりと目を細めてしまった。
そんな俺の様子に慌てたのか笑いながら疲れただの腹が減っただの寝たいだのとあれこれと口にしてくるから苦笑してしまう。
本日の彼女はご令嬢として此処に居るが、それはあくまでも役名の話。
幸いお咎めを受けるようなことはないとはいえあまり失望されるのもなんだか嫌だった。
まあ、本当のご令嬢を前にした時はそんな話は一切させないからなと密かに決意を固めておく。
いつまでもこんな話は聞かせられないし切り上げようと思えば背中を優しい温もりがそっと撫でていく。

「……っ、ああ、すみません」
「え、……いえ、すみません、私こそ」

今、自分の後ろには彼女しかいない。
だから必然的にその温もりの正体が彼女だということをすぐに理解するけどあまりにも優しくそっと撫でられたことに驚いて振り返った。
視線を向けた先で何故か謝る彼女の驚いたような表情を見るに無意識だったのだろうかと思案する。
戸惑ったような、それでいてどこか申し訳なさのような感情を少しずつ滲ませていく彼女の真意をはっきりと理解することは出来ないのがもどかしいものの、自分にすら見えない胸の奥深い所で甘やかな想いがふつふつと煮えていくような気がする。
表情が緩んでしまう前に同僚との話を切り上げた。

「すみません、付き合っていただいてしまって」
「……いえ、本当にこちらこそごめんなさい」
「いいや、あなたが謝ることではないでしょう」

前回とは違って今日はこちらがホストだ。
先方からの申し出とはいえせっかくこんな所まで足を運んでいただいたのだから、自分ばかり舞い上がっても仕方ないとは思うのに。
住所のないあの場所に閉じこもらざるを得ない彼女に、せめて少しでも楽しんでもらえるように努めたいと思う。

「もう十分なくらい案内していただきましたので、そろそろ」
「……そう、ですか」

肩透かしを食うとはまさにこういうことを言うのだろう。
そっと胸の内で気を引き締めたばかりだったこともあって、口から溢れ落ちていった声はしょぼくれた情けないものだった。
さすがにお仕事を邪魔できないわと微笑む彼女に気なんて遣ってくれなくても良いのにと思ってしまう。

「ふふ、うちの小さい子たちと同じ顔」
「え?」
「まだ遊び足りないって時にそういう顔をするの」
「え、俺そんな顔して……⁉」
「あはは、そんなに慌てなくてもなんとなくですよ」

まさか自分がそんな顔をしていると思っていなかったから頬に差した熱を取り繕うことすら出来なくて。
そんな俺を見る彼女がからからと快活に笑うものだから滲んだ赤が一向に引いていかない。
三つの役割を演じ分けている自分のプライドも彼女の前では形無しだ。
本当に、非道い人だと思う。格好つけることすらさせてくれやしないのだから。
そんなことを思えば、声が聞こえた。

「降谷さん?」

よく聴き馴染んだその穏やかな声色は決して大きくないのに、妙に聞き取りやすいんだよなと思いながら視線を向ける。
淡い水色の髪と、和らいだ蜂蜜色の瞳を持つ男が柔和に微笑んでいた。

「ああ、お前か」
「お疲れ様です、お姿が見えたもので」
「休憩中か?」
「ええ、さすがに頭が回らなくなってきて」
「お前でもそんなことあるんだな」
「はは、買い被りすぎですな」

おや、と緩やかに細められた瞳が彼女を見る。

「そちらが、見学にいらっしゃった御方ですね」

穏やかに響く声の音もまた、彼女へと向けられた。

「うちの部署の者です」
「初めまして、粟田口一期と申します」

すっと伸びた姿勢のまま綺麗に一礼する。
こういう所が、他部署の女性たちから騒がれる理由だ。

「……初めまして、粟田口さん」

ふとその声が苦しそうに聞こえた気がした。
彼女の表情は酷く穏やかなのに水中に沈みきってしまったような窮屈さを感じる。
何故そう思ったのかは分からないけど彼女が泣いていると思った。

「何も面白いものはない所ですが、彼がエスコートしているなら心配ありませんね」
「ええ、降谷さんのおかげで興味深く見学させていただきました」
「ははは、それは良かったです。時間は気になさらずゆっくりお過ごしくださいね」
「お気遣いいただき、ありがとうございます」

笑みを向け合う粟田口と彼女は何もおかしくない。
大きく聞こえる心臓の音はきっと気のせいだ。
そう言い聞かせて粟田口にちゃんと休めよと手を挙げる。
ええ、そうします。笑う粟田口もひらりと手を振っていた。
その背を見送る間に小さく息を吐いて、出来る限り柔らかく目元を細めて。

「あいつは、とても優秀な奴なんですよ」
「そうなのですね」
「ええ、文句一つ言わずにどんな仕事もさらっとこなしてくれて……」

俯いた彼女の体が震えていることに気づくと、心臓がぎゅうと強く掴まれたかのように痛んだ。

「鈴彦さん?」

透き通った蜂蜜の瞳と視線が絡む。その色はあいつと同じだと思った。

「……っ、…うう……」

大粒の涙を溢し両手できつく覆った口からは悲鳴のような声はくぐもって漏れている。
一度決壊した涙は彼女の白い手を濡らし、重力に従って落ちていくばかりだった。
蜂蜜がとろりと溶け出しているようで綺麗だ、なんてバカみたいなことを考えながらどうしたって目が離せなくて。
どうして彼女が泣いてしまったのかはなんとなく分かってしまった。
少し強く掴んだ手首が随分と華奢で初めて乱暴に触ってしまったなと頭では思いながらも強引に空いている会議室へ押し込む。
一つしか無い扉を早急に閉め、そこに背を預けては涙を流す彼女の体を引き寄せ抱き締めた。
薄暗い無人の会議室で俺のジャケットを握り胸に押しつけられた顔。
丸い頭頂部に口元を埋め目を閉じる。俺たちは運命で繋がっている。
繋がっているからこそ、言葉がなくたって分かってしまうんだ。
どうしてか彼女は粟田口のことを知っている。
そして、今も彼を愛しているんだろう。

「何も、」

声を殺して泣き続ける彼女を無言のままきつく抱き締める。

「何も教えてくれなくたって構わない」

何も話してくれなくて良いなんてただのやせ我慢だ。
それでも、どうしても欲しい役割があった。

「ただ、泣いている君を慰める役割を俺だけにくれないか」

彼女がこれまでに過ごした時間が想像もつかないほどに長いのだろうことは分かっている。
例え傍に居られるのがほんの刹那だとしても、それでも君の涙を拭うのは俺だけでありたいと思った。