アンドリュー
コーヒーの香り。
砂糖を1つだけ落とした濃い目のアールグレイ。
左隣が空席の連弾。
子どもみたいなステップのワルツ。
雨が傘を打つ音。
私の好きなもの。
そのどれもがあの人がくれたもの。
両親の愛情すら取り零してしまう私の掌に、角砂糖の様な甘さの滲む小さな幸福を幾つも与えてくれた。
落とさないように。
大切に、大切に。
ずっ、と鼻をすすると、涙は止まった?と困った様な声が降る。
零は形のいい眉をハの字にして、腫れてるだろう目元を親指がそっと撫でる。
羨ましいな。
ぽつり、と落とされた声は静かな病室には充分音になった。
「お前を見てればわかる。お前がどれだけ愛されてきたのか」
飲めない癖に好きなコーヒーの香り。
1人で弾く連弾曲。
でたらめなステップのワルツ。
雨が傘を打つ音。
彼が並べ立てたのは私が好きなもの。
そのどれもがお前の特別だろう?
その声音は憧れとも嫉妬とも似ていて、どれとも違う気がした。
「…きっと彼となら、お前は幸せになれた」
「…」
否定は出来ない。
その未来は確かに私が望んで、だけど彼が死んでしまった事で実現する事は無かった。
零は泣きそうに顔歪めて、ぎゅっと子供の私の身体を抱き込んだ。
「零?」
「…俺は、何も与えてやれない」
妙に冷たい声だった。
一緒に過ごす事も、危険な目にあったら何もかも放って駆けつける事も、全てを包み隠さず話す事も、疑わずに生きる事も。
ペラペラと並べ立てる。
そのどれもが一般的に特別難しい事ではなくて、だけど彼には何よりも難しい"普通の事"。
彼は一体何処で生きているのだろう。
深海とか、宇宙とか、そういう世界に近そうだ。
何でも出来る癖に、放っておけば窒息した事にも気づきやしないのだ。
そういう男だ。
「馬鹿にしないで」
急に"彼となら"なんて言い出した理由はわかった。
酷い侮辱だ。
私に対して。
あの人に対して。
零自身に対して。
ぐっと胸倉を掴む。
グレーブルーの瞳がきょとん、と丸くなる。
君が目が回るくらい忙しい男なのは百も承知だ。
危険な目にあっても私を優先出来ない事も。
今までもこれからも君に話せない秘密は私にもある。
君が生き延びる為なら好きなだけ疑ってくれて構わない。
君が私に与えられないなら、私が君に与える。
それでプラマイゼロになる。
だから、1つだけ。
「…私が君を想ってる事だけは、疑わないで」
どうか。この先も。
そう零して胸にとん、と額を預ける。
思い出と呼ぶには余りにも痛みは鮮明で、だけど恋と呼ぶには随分遠い場所に行ってしまった気がする。
ゆっくりと背中に回る右手が答えの様にとんとん、と数回軽く叩く。
ゆっくりと目を閉じる。
あの人が与えてくれた最後の1個。
あの人が教えてくれた愛を、今度は私が君に返そう。
ふはっ、と気の抜けた笑い声がした。
まるでプロポーズだな。
何がプロポーズだ。
「愛してるなんて言った日には帰って来なくなりそうなくせに」
「…、」
ふっ、と小さく笑い声がして、抱き寄せられる。
怖いんだ。
少し掠れた声が耳朶を撫でた。
舞白。
お前は、お前が思うより多くのものを俺にくれてる。
遠い昔に置いてきた恋も、嫉妬も、切なさも、やるせなさも。
こんな甘やかで幸福な時間は死ぬまで無いのだと思っていた。
必要無かった筈だった。
砂漠を旅する様に、果てもなく渇いた時間を積み重ねるものだと思っていた。
「何も無い方が、幸福だったんだ」
失うものも与えるものも、与えられるものも、何も無い。
それは酷く虚しくて、だけど、酷く安心出来た。
孤独や恐怖に麻痺してるんだと錯覚していた。
独り言のようにぽつり、ぽつりと吐き出される。
その感覚は笑えるくらい私にも馴染んだ。
知っている。
空っぽでいる安心感を。
大切なものが掌に乗る度に怯える臆病さを。
肩口から顔を上げてグレーブルーを見上げる。
「じゃあ君はこれからもっと不幸になるね」
君を知らないで100年生きるよりずっと良い。
【ゼロの執行人 END】
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