眩暈

無性に、泣きたくなる。
きっと、君に似た瞳を見たせいだ。
君の夢を見たせいだ。
目が覚めて、君はもういないんだと思い出したせいだ。
君の遺した呪いが、余りに幸福なせいだ。

君が私を、優しく愛したせいだ。

「…」

ぺたり、と足の裏の吸い付くような冷たい床の感触が融ける様な錯覚を起こさせる。
頭が覚醒するよりも先に、消毒液の匂いで病院だとわかった。
個室に備え付けのソファは子供の体ではベッドとして充分すぎる。
わざわざ毛布を掛けてくれたのは看護婦か、或いは風見さんか。
携帯を見れば亜里沙さんから警察から保護したと連絡があったとメッセージが入っている。
ベッドの背から顔を覗かせれば、部屋の主たるベッドには零が眠っている。
あの国畜も今日は流石に休養を取らざるを得なかったらしい。
それでもきっと明日の朝には仕事をしているんだろう。

「…」

ぼんやりと、窓の外を眺める。
何故、だろう。
きっかけなんてなかった。
ぽたり。ぽたり。
そこにはあの人の面影なんて微塵もないのに、溢れる。
夜の藍色も、星の煌めきも。
君の姿なんて何処にもないのに。
頬を滑って、雫が服に染みを付ける。
息をするのと同じくらい自然に零れ落ちる。

「…怖い夢でも見たのか?」

背後から投げかけられた声に、ふるふる、と小さく首を横に振る。
ぺたり、ぺたりと足音がして、近づいて来ているのがわかった。
片腕で軽々と私を抱き上げ、自分の膝に乗せる。
それでも振り返らなかった。
今は、零の顔は見たくないと思った。

「…コナン君は、"彼"に似てる?」

ああ。
急に寂しくなったのはそのせいかもしれない。

「…似てるよ」
正義感の強そうな目とか、困った笑い方がそっくり。

そう言ってぎゅっと目を閉じる。
無意識に眉間に力が入る。
瞼の裏にもっと寂しさが滲んだ。

「今も、好きなのか?」
今までも、これからも。ずっと愛してるよ。

独り言の様にぽつりと言葉を落とす。
知ってる。
それでも"彼"にはもう届かない。
どんなに想っても言葉にしても、世界中の何処にも、もういない。

「…妬けるな」

ぽすり、と枕に顔を埋めるように、私の肩に零の顔が埋まる。
うなじや頬を撫でる柔らかい髪が擽ったい。
妬ける、なんて。
愛してるすらも言えない君が言うなんて。
愛してると言えない私に言うなんて。
酷くバカバカしい。
言葉も意味も言うべきタイミングも知ってる。
それなのに口にしない臆病者同士。

ぽたり、ぽたり。

とめどなく。

「…今日の私、は…」
ー何か、おかしい…。

搾り出すように吐き出した言葉は酷く支離滅裂で、要領を得ない。
ぼろぼろと泣く私は中身も正真正銘の子供になってしまったみたいだ。
頭の上で、小さく笑う声がしてから、片腕で身体がぐるんと反転させられる。
交差するグレーブルーが困った様に細められて、私の濡れた頬を指の背で拭った。
目尻に唇を寄せて、酷い女だ、と零す。

「俺の前で昔の恋人を想って泣くなんて」

どんっ、と零の右胸に拳を振り落とす。

「、誰のっ…せい、だとっ…」

誰の為にあの子に手を貸したと思ってる。
誰のせいで、思い出したと思ってる。
何も出来ずに失った無力感を、あの日の寂しさを、あの子の瞳の奥に見えたあの人の面影を。

「全部、君のせいだ…っ」

あの日に酷く似ているんだ…。

昏い空色の中にメソメソと泣く自分が映る。
今はそれすらも腹立たしい。
じわり。視界が更に滲んだ。
寂しくて哀しくて恋しくて。
でもどれも正解ではなくて。

愛してると言えば、もっと恋しくなる。
愛してると言われたらもっと苦しくなる。
もっと息がし辛くなる。
幸せという言葉に当てはまる殆どが私達には不幸せだ。
果てもなく。

「、…」

冷たい指先が髪を掻き分けて左耳の後ろに触れる。

「…舞白」

私を覗き込む様に背を曲げて、距離が縮まる。
宥めるみたいに押し付けられる唇は乾いていて、私の固くひき結んだ唇に重なる度に涙で濡れていく。
長いまつ毛に縁取られた瞼が徐に開いて、薄く微笑む。

「目を閉じて」
「何で」
「お前の目に映る欲情してる自分を見たくない」
「…君はキスすれば何でも許されると思ってる」
「そんなロマンチストじゃない」
−けど、確かにそれで許された気分にはなってる。
自分勝手な男だね。
そういう男を好きになったんだろ?
…好きだよ。

君を置いて死ねないくらい。

そう囁いて首に腕を巻き付けて唇を寄せる。
文字通り目の前にあるグレーブルーが零れ落ちそうなくらい丸く見開いてから、ふわり、と甘やかに細められる。
この表情(カオ)が好きだと思う私も大概絆されてる。
ああ。君の目に映る私も同じくらい欲情した顔をしてる。
なんて顔をしてるんだ…。

「…零。目を閉じて」

私も閉じるから。



泣きたいくらいに。

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