My name is...
どうして、神様はこんなにも脆く創ったのだろう―。
どうして、神様はこんなにも、強く、強固に創ってしまったのだろう…−。
ぼくのなまえ
永い時間が過ぎた。
人間でいえばとうに一生を終えてしまうほどの長い時間。
いつだったか、彼女の言っていた"ずっと"に、少しは近づいただろうか。
答えのない螺旋みたいなこんな自問を今まで何百回、何千回と繰り返してきた。
「…ナイ…」
溜息を吐くように、名前をこぼす。
彼女はいない。彼女を知っている人間も、もう誰もいない。
できの悪い悪夢の様な日々は、誰の記憶にも、心にもない。
僕以外には。
「…ナイ…−」
会いたいよ…。
膝を抱え、ぼんやりと空を見上げる。
名前を呼ぶ声に答えはなく、ただ乾いた風の音が耳を掠めるだけだった。
足下に視線を落とせば、土を盛っただけの簡素な墓がある。
作った時は土肌だったそこも、年月を経て今は草花が覆っている。
墓前に供えられた数輪の青い薔薇は数日前に摘んで供えたものだ。
彼女が好きだった、青い薔薇。
彼女の瞳の中に見た、青い空と同じ色の、青い薔薇。
日を経て色褪せた薔薇にそっと手を伸ばす。
萎れたそれに、今はいないあの姿を重ねれば、指先に軽い痺れのようなものが走った。
−あの日の彼女は、きっと、この薔薇と同じだった…。
希望も絶望も枯れ果てて、憎しみや哀しみですらも生命(いのち)を繋ぎ止められずに、心が全部空っぽになって、深い海に沈むように、散っていった。
沈む青い瞳の中には、僕の青空はもう、いなかった。
歩くたびにカサ、と足下の草が乾いた音を立てる。
季節はもう秋の半ばに差し掛かろうとしている。夏の青々としていた葉は徐々に枯れ落ち、景色は色を失いつつある。
世界は確実に時を刻んでいて、僕もちゃんと世界の一部の筈なのに、切り離されているみたいに溶け込めていない。
まるでこの存在が世界に拒絶されているようだと、自嘲気味に1人笑みを溢す。
此所には、僕以外に誰もいない。
昔のように、僕を化け物だと罵り、怯える者はいない。
昔のように、人の住む村へ降りて行ったりもしない。
もう、誰もいらない…。
僕だけでいい。
彼女の眠る側で、この終わりのない時間を、過ごしていたい。
そうして、いつか、このおぞましい身は塵になって、滅びてしまえばいい。
蔦に絡め取られた古びた廃墟は、かつてナイと、他の人間と、まだ辛うじて人間だと思っていた僕が暮らしていた場所だ。
裏庭に回れば、まるで廃墟を囲む塀のように、青い薔薇が咲いている。
変わらない鮮やかな青に安堵の息を吐き、幾つかの花を手折る。
育てるのが難しいと言われるそれも、吸血鬼という種族の持つ不思議な力の1つなのか、難なく花を咲かせられた。
4輪摘み、最後の1本に手を伸ばした瞬間、背筋を懐かしい感覚が走る。
この数十年もの間、感じる事の無かったそれに、クランは眉間に皺を刻み、その主へと視線を向ける。
吸血鬼…―。
木々の葉が揺れ、一斉に鳥達が飛び立つ。
薄暗い森の奥から小さな足音を立てて、人影が姿を現す。フ−ドを被り顔は見えないが、零れる長い髪と、小柄な身体つきから見て女性か、或いは少年だろう。
だが、そんな事はどうでもいい。
今重要なのは、吸血鬼が、此所にいるという事だ。
「…誰」
2mほどの距離をあけて足を止めた吸血鬼は、特に動きを見せない。
クランの瞳に、さっ、と血の色が差す。
相手が動けば、すぐに殺すつもりだ。滲み出る殺意は相手にも伝わっていることだろう。
「―この森の奥に、血を吸う化け物が住んでると聞いたんだ。君の事だね…?」
低くもなく、高くもない声はそれでも女性のものとわかるもので、その中に恐怖や、嘲りはない。むしろ、この状況を楽しんでいるようにすら思える。
「…だったら、何…?」
この女は僕を"喰らいに"来たのか…?
まだナイが生きていた頃に、"そういうもの"を見た事がある。
身体を切り刻まれても死なない僕等が死ねる、唯一の方法。
同胞(なかま)に、殺される事。
僕達は何処までも、おぞましい種族だ。
だが、それならばそれでも構わない。生きる理由なんてものはないし、この命に執着などないのだから…。
「…僕を、殺しに来たの…?」
女は少しだけ、笑った。
「お前は、殺して欲しいのか?」
「…そうだね…それでも構わないよ」
自分の物言いが可笑しくなる。
まるで、彼女にそうして欲しいと、乞うているみたいだ。
同じことを思ったのか、女は口許の笑みを深めると、そうか、とだけ言った。
「残念だが、私は君を殺しに来た訳ではないよ」
旅をしているんだ、と女は少しだけ楽しそうな声音で言った。
旅…?
終わりのない旅の何が楽しい…?
自分が化け物だと突きつけれるだけの悪夢のような日々の、何が楽しい…?
「そう…なら、早く何処かへ行って。僕の前から、消えて…―」
「―お前は、死にたいのか…?」
「生きたいと思う理由なんて、僕にはないよ…」
これ以上話す事はない、と女から視線を逸らし、中断していた最後の幹に再び手を伸ばし、花を手折ると女に背を向け、歩き出す。
「―青い薔薇の花言葉を知ってるかい?」
唐突に投げ掛けられた問いは、まるで手の中の薔薇の棘の様に、鋭く突き刺さる様な感覚を持って響いた。
『私の1番好きな花なの。青い空みたいな、青い薔薇が…―』
あの時、君は何て言おうとしたの…?
"…ずっ、と…―"
「花、言葉…」
「知ってるかい…?」
女はもう1度問うた。
長い間この花を育ててきたが、花言葉に関心を寄せたことはない。今だってその筈なのに、何故か、自然と心が答えを聞こうと傾く。
「"不可能"」
「!っ…」
まるで、心臓を鷲掴みにされたみたいに、ギュッと締め付けられて、震える。
「―私達が拒絶された青い空のようなその花は、まるで私達を表しているようだと思わないか?」
息が止まる。
世界が、ぐらぐらと揺れる。
これは、この花は彼女の、ナイのもので…ナイは吸血鬼(僕等)を憎んでいて…でも僕は、吸血鬼で…っ。
もう、これしか、僕にはないんだ…。
はぁ、はぁ、とそんなに長い距離を走った訳でもないのに、息が乱れる。後ろを振り返っても、女の姿はない。
質問に答える前に、まるで逃げる様に駆け出した。
「はぁ…はぁ…はぁ…っ」
荒い呼吸を何とか整えながら、近くの木の幹に手を置き、崩れ落ちそうな体を支える。
無我夢中で走ってきたが、どうやらナイの墓へと続く道に来ていたらしい。
幹から手を離し、よろよろとおぼつかない足取りで、いつもの場所へと向かう。
1秒でも早く、彼女の側に辿り着きたい…。
あぁ、そうだ…。さっきの言葉は、聞かなかったことにすればいい…。
そうすれば、僕はまだ、彼女の眠る側に、いられる…。
いさせて貰える…。
自分に言い聞かせるように、何度も心の中で呟く。
恐怖に震える心臓は、あの日と、よく似ていた。
腕に乗る柔らかな重みはない。
掻き消えてしまいそうな声は、聞こえない。
何も映さなくなった曇った青空も、ない。
彼女の存在を証明する温もりは、感じない。
「っ…」
それなのに、震えるこの心臓だけは、あの日と同じだ。
「っ、ぁ…」
木々が開け、ナイの墓が姿を現す。
昼間は陽がたくさん降り注ぐように、枝の開けた場所を選んだ。今は、太陽の代わりに、月明かりがそこを照らしている。
「…ナイ…」
僅かに震える手で、薔薇を供える。
盛られた土に触れようとしてから、手を引っ込める。
「ナイ…僕は…」
「っ、ごめんね…」
どうして、この身はこんなにも穢れているのだろう…。
眠る君に、君が好きだった花を贈る事さえも、どうやら僕には罪みたいだ…。
どうしていつも僕は、君が幸せになれる事を、してあげられないんだろう…。
風が冷たい。
熱かった心臓は夜風に冷ましてもらったみたいに、冷たく、凍えている。
風が止んで、かさり、と小さな足音がした。
さっきの女だ。
「墓…」
女はナイの墓に視線を落としてから、僅かに目を伏せる。
「そこに眠っているのは、人間(ヒト)だね…」
先ほどよりも優しげな響きが、憐れんでいるのだと分かった。
この女は何故ここに眠るのが人間(ヒト)だとわかったのだろう。
「私達の同胞(なかま)の多くは、墓を作らない…人間(ヒト)とは違って、死んでも何も残らないし、土に還らないからね…」
僕らは死ねば、砂とも塵ともつかないものになる。そうして、世界から消える。
死んでも、僕は彼女と同じものにはなれない。同じ場所には行けない。最期までこの身は化け物でしかない―。
「…僕達のせいで、彼女は死んだ…」
僕が孤独にした…。
僕が奪った…。
僕が、彼女を追い詰めた…。
だから此処に、吸血鬼は、いらない…。
「お前も、吸血鬼だろう…」
本当に、その通りだ…。
「…彼女は、青い薔薇が好きだったから…」
「彼女が大切にしていたものはもう、これしか、残っていないから…僕が守る」
全てを失った彼女に残った、最後の宝物。
だから、憎まれても、呪われても、この命が続く限りは、唯一つそれを守ろうと、彼女に約束した。
それが、せめてもの贖罪だから…。
夜風に、青い花びらが揺れた。
「僕を殺さないなら、何処かへ行って…此処から消えて…吸血鬼」
「 」
「?…何…?」
風に乗せる様に呟かれた言葉に、女を見る。緩く弧を描いた口唇は、先ほどと同じ言葉を形作り、声に乗せる。
「私の名前だ。お前の名は?」
「名前…」
ナイの墓の上で揺れる青い薔薇に目を向ける。それから目を伏せ、ふ、と口許に自嘲的な笑みを浮かべる。
「さぁ…忘れたよ…」『名前、わからないの?』
これは、夢、かな…。
「昔は、"クラン"って、呼んでくれた人がいたけれど、今はもう、いなくなってしまった…」
今はもう、懐かしい、君の声が聞こえる…。
『じゃあ、"クラン"って呼んでもいい?』「なら、"枢"と呼ばせてもらう」
「え…?」
顔を上げて、初めて女の目を見た。薄い色の、僕とよく似た、静かな瞳(め)。
「私の故郷の呼び方と文字で―」『君の名前は、"クラン"!』
―それなのに、名前をつけてくれたあの日の彼女の瞳(め)にも、よく似ていた…。
「その人が付けてくれた君の名前は、大事に持っておくといい…今度は失くさないようにね―」
「そうすれば、お前の守るものは2つになる…そうだろう?"枢"」
大事にするんだよ、と女はまた、彼女によく似た瞳で、笑った。
【END】
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