世界で一番の宝石は僕が佳い
『いつか中也が本当に叶えたい願いが出来たら、中也が幸せになれる事、何でもするよ』
未だ太宰のぽんつくと出会う前、茉莉が言った。
簡単に何でもする、なんてついこの間迄真っ黒な裏社会で生きて来たくせに危機感のねぇ事を言うものだから眉を顰めれば言わんとする所を察したのか簡単に言ってないよ、とあっけらかんと返して来た。
どうだか、と独りごちながらも、俺は願いを言わなかった。
無かったからだ。
金持ちになりたい訳でも、世界征服がしたい訳でもない。
唯、彷徨う様に自分を探して、流れ着いたこの場所で生きてるだけだった。
それに、俺は俺のエゴで此奴を生かした。
罪悪感にも似た其れはしおらしいのは上辺だけで、其の実俺の中身は罪悪感とは程遠く、何かが満たされていた。
屹度此れは恋や愛なんかじゃない。
そんな名前が付くものはもっと柔らかくて、優しくて、綺麗なものなのだろうと思う。
「…ごめん」
其れは恋や愛なんて名前や形を持たなくても、俺の世界で一番の宝石だった。
「、…」
接吻をされた。
茉莉に。
それが武器もなく腕力で俺に劣る彼奴が俺の気を一瞬逸らすために使える唯一の手段だったのもわかってる。
そしてそれは確かにほんの一瞬、俺の気を逸らせた。
彼奴がそんな事をするとは夢にも思わなかった。
完全に油断、だった。
だけどその瞬間、茉莉は首領でも俺でもなく、あの男を選んだのだとわかった。
彼奴はあの男の為に俺に背を向けた。
「、…」
何かがそこから抉られた様に、虚しかった。
「…彼奴を追え。どうせ行き先はわかってる」
ミミックの頭領が織田を呼び出したという屋敷に部下を向かわせる。
やけに静まり返った廊下はゆっくりと一歩踏み出すだけでも足音が大きく聞こえた。
「…」
どうするべきだったのだろう。
太宰の様に、首領に背いてでも織田を助けに行くと言った茉莉に手を貸すべきだったのか。
いや。マフィアに入る時に誓った。
首領が組織の奴隷であるなら、俺はその首領の盾となり剣となる。
首領の命令こそが至上なのだと。
屹度俺は何処かで期待していたのだ。
茉莉も俺と同じだと。
幾ら太宰や織田と親しいと言っても組織の為、首領の命令なら切り捨てるだろうと、そう思っていた。
『…死にたくねぇか』
気紛れにそんな言葉を投げかけた日が、えらく遠い昔の様だ。
あの日気紛れに掬い上げた命は俺と同じで孤独で、理解される事も、誰かに受け入れられる事も、知らなかった。
多分俺はあの時も、期待していたんだ。
"俺と同じ様に世界から弾かれた此奴となら、この息苦しさを分かち合えるのかも知れない"。
そっと喉に触れる。
随分長い間忘れていた息苦しさが今役目を思い出したように、ぎゅうぎゅうと喉を締め付ける。
『…中也…お願い、っ…行かせてっ』
腹の奥がぞわりと粟立った。
頼りなく俺のシャツを握り締めた手に、ぐらりと足元が傾いた気がした。
首には何も巻き付いてやいないのに息苦しさは増すばかりで、ギリッと奥歯を噛む。
誰よりも俺がわかっていると思っていた彼奴の事が、今は何もわからない。
「…」
ミミックの拠点は死屍累々という言葉が相応しい有様だ。
夥しい血の跡と見飽きるほどの死体。
単騎でここまでとは。
織田は俺が思う以上に下級構成員にしておくには惜しい男だったらしい。
今となってはそんな評価に意味は無いが。
そんな事をぼんやりと考えながら大広間にへたり、と座り込む背中に視線をやる。
隣には太宰の姿も、織田の姿も無い。
茉莉の足元の血溜まりを見るに織田は生きてはいないだろう。
何より、生きていたとしたら茉莉はもう此処にはいなかった筈だ。
そう容易く思えるくらいにはこの短時間で思い知らされたものは大きかった。
「…」
茉莉にとって織田が特別な男だと知っていた。
彼奴の為を思うなら、俺は首領に背いても手を貸すべきだった。
それが"正しい"優しさなのだと、思う。
だけど取り乱した茉莉を前にして、ぎゅっと喉が締め付けられて、きっと、今手を離したら、織田の元に行かせたら、生きるにせよ死ぬにせよ、此奴は二度と俺の所へは戻って来ないような気がした。
恐らくその予感は間違って無い。
俺は、其れが堪らなく嫌だった。
『中也』
耳に響く茉莉の声が、今は責め立てる様で、逃げる様に瞼を伏せる。
座り込んで虚空を見つめる頼り無い背中に、振り返りはしないかと幼稚な期待をしている癖にそのまま気付かなければ良いとも思う。
もう何を言っても、どんなに優しく触れても、俺の手は言葉は、鑢の様に傷だらけの茉莉の心を更に削って、擦り減らすだけにしかならないのだろう。
『いつか中也が本当に叶えたい願いが出来たら、中也が幸せになれる事、何でもするよ』
俺は、彼奴が幸せになれる場所が欲しかった。
いや、俺の隣が幸せだと、言って欲しかったんだ…。
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