係恋だけを殺した世界

「久しぶりだね。茉莉」

白昼夢でも見てる気分だ。
私に会えて感激で言葉も出ないのだね、と悪戯っぽく笑うその声音が記憶よりも幾分優しいものに聞こえて、戸惑ってしまう。
何より、昏い森を棲まわせていた瞳は今は夕焼けに似た仄かな明るさが滲んでいた。
事実としては把握していたのに、こうして太宰を目の前にしてやっと4年という月日を重ねていたのだと、肌で感じる。

「…殺しに来たとは思わないの?」
「君に殺されるのは至極魅力的な申し出だけれど、君は私を殺さないよ」

ゆっくりと太宰との距離を縮めて、隠し持った小刀(ナイフ)を太宰の胸に充てがった。

「…今此処で心臓を刺せば、君の予測は外れる」

血と肉で貌(かたち)を為すその身は、内にどんな才を秘めようと、こんな小さな小刀で簡単に事切れる。

「ねぇ、茉莉」

小刀を充てがわれてるというのに太宰の瞳はそんな物は存在しないかの様に煌めく。

「君は此の4年如何過ごした?何を見て、何を感じて生きていたのだい?」
聞かせてくれ給えよ。

寝物語を強請る様に緩やかにそう言った太宰に、小刀を握る指先にぎゅっと力が籠る。

「…昔に、戻ろうと思ったよ。君や中也に出会う前に」
痛くて痛くて、堪らなかった。
何様(どんな)に傷を重ねても消えない痛みを消したくて、君の様に傷を重ねたりしたけれど、無駄だった。

私の言葉に太宰は静かに瞼を伏せた。

「私を恨んでいるのだろうね」

小刀を仕舞う。
如何転んでも此れはもう必要無いだろう。
抑(そもそも)私は此れを振り翳すに足る殺意は持ち合わせていなかったのだから。

「君を恨んだ事は無かったよ」

ぱっと顔を上げた太宰の顔は子供みたいで、何だか少し可笑しかった。

「…彼の人を独りにしないでくれて、ありがとう」

それから、ごめんね。

何故君が謝るんだい、と泣きそうに歪む太宰の乾いた頬を指の背で軽く撫でた。
私泣いてないよ、と眦を少し赤らめた太宰に、うん、と返す。
何と言ったら良いのか、上手く言葉が探せない。
太宰を独りにした事。
織田作を死に追いやったマフィアに今もいる事。
太宰を逃せない事。
何れも間違ってはいないのに、何れも相応しく無い気がした。

「狡いね。こういう事は私が鎖に繋がれてない時にし給えよ」
抱き締められないじゃないか、と拗ねたような泣き笑いのような表情(かお)をするものだから、昔も太宰の時々見せる年相応な顔が好きだったなぁ、と心の中で呟く。

静かに降り積もる雪の様に、何かが心臓にじんわりと滲む。
織田作は悲しみも、怒りも、喜びも、遣る瀬無さも、愛おしさも、雪の様に降り積もって其れが"心"に成ると言った。
此の痛みが心なら、私の中の雪は残らず融けて仕舞えば良い。
そう思うのに、緩やかに滲む温かさは心地良くて、結局今も手放せないでいる。


「…太宰、何で逃げないの?」

あの太宰だ。
易々と捕まる筈は無いし、手錠の解錠なんて朝飯前だろう。
そう言えば一瞬ぽかん、とした後、流石私の部下だ、と莞爾々々(にこにこ)と笑う。

「幾つか理由は在るのだけど、君に会いに来たのだよ」

今度は私が目を丸くする番だった。

「私と行こう。茉莉」

甘くて、優しい誘惑だ。
迷子の子供は、屹度こんな気分なのだろうと思う。
酷く安心して、なのに何でもっと早く来てくれなかったのかと不安と安堵が相混ぜになった怒りが湧く。

「…なんで…」
何で、今そんな事言うの。
何で、置いて行ったの。

子供みたいに理不尽に責め立てる様な言葉を吐いてしまう私は正しく子供でしかなかった。
言外に察したのか太宰はゆるり、と瞳を細めた。

「織田作に言われたのだよ」

ぴくり、と肩が揺れる。

「君を正しく愛するには君の大切にしてるものを私も大切にすれば良い。それで充分だ、って」
あの頃の私はね、茉莉。

太宰の慈しみに溢れた声音が、酷く恐ろしい。
それでも黙れと口を塞がないのは、私が過去にしがみ付く亡霊だからだ。
太宰の吐く一言一言が子守唄の様に過去へと誘う。

「君が傷付いて苦しんで、私以外何も必要とし無くなれば良いと思ったんだ」

私は君が大切にしてる凡てが嫌いだったのだよ。
だから、憎しみでも憐れみでも佳い。
君が事切れる寸前まで私への想いを烈火の如く燃やしてくれるなら、愛される以上の価値があると思った。

「私には織田作や…、癪だけれど、中也の様には君を笑わせられ無かったろう?」

ずきり、と疼く。
太宰から見た私はあの頃どんな風に笑っていたのだろう。

「彼の日、君を共に連れて行けば、私は屹度君が愛するものを根刮ぎ奪っていたと思うのだよ」
「…」

太宰は歪だった。
だけど其の愛に似た執着を跳ね除けなかったのは、私が太宰の歪さに自分を重ねていたからだ。

「中也に届かなかった願いは、私が叶えてあげよう」
私と2人で、遠い場所へ行こう。

太宰の言葉に、喉がきゅっと締め付けられる。
幼かった私の、幼い夢の話。
今はもう叶うべくも無いお伽噺だ。
笑ってしまう。
彼の日、太宰が、首領が中也をマフィアに殆ど強制的に加入させなければ、叶っていたかもしれない夢。
其れが罪悪感なのか、唯私を揺さぶりたいだけの何時もの悪癖かはわからないけれど、少なくとも太宰が誰の心にも留まらなかった私の願いを覚えていた事が、少しだけ嬉しかった。

中也は、屹度忘れているだろう。

「太宰…其の願いはもう要らないの」

太宰の手は、取れない。
其れは私が中也に倖せになって欲しくて、願ったものだから。
最初こそ不本意だったけれど今は此処が中也の望む居場所だ。
結局、あの頃も今も、彼の人に私は必要無かった。
今はもう、それだけだ。

「私は、君に倖せになって欲しい」

そして其れを叶えるのは私で在りたい。

目を丸くする私にゆるり、と太宰の眦が下がる。
陽溜まりを融かした様な温かい眼差しだった。
太宰のこんな眼差しは、知らない。

「君が倖せになれるなら、私は何でもするよ」

舌先で転がす様に柔く音にした言葉に、居心地が悪くなる。

「、…」
太宰の言葉は、嘘じゃないのだと思う。
私が望めば此処から連れ出してくれるだろうし、中也と二度と会わない様にしてくれるだろう。
屹度其れは今の私には正しい道だ。
このままみっともなく中也にしがみ付いて、疎まれ続けるよりずっと真面だと思う。

「…太宰」

だから私は愚かなのだ。
何日、中也の願いを叶えたら、少しは存在した意味のある人間の証明になる気がした。
そんな事は証明にならない事もわかってる。
其れでもしがみつかずにはいられない。

それが私なんだ。

「それでも、彼の人の側が私の居場所だ」

仮令もう其処に私の居場所が無いのだとしても。

「君のそういう所が昔から嫌いだ」

はぁ、と大袈裟に溜息をつく太宰にそうだね、と返す。



「願わくば、君の係恋が一日でも早く死ぬ事を祈るよ」

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