はじまりは突然に。

「そういえば、ウーさんはどうして寝子だけ呼び捨てなのかね?」

開店前の暇つぶし、とでもいう風にふらりとぼくのマスク屋にやってきたイトリさんは、新作のマスクを値踏みしながら呟いた。

「え」

一瞬何を言われたのかわからなくて、思わずイトリさんのほうを見る。

「え、じゃないよ。イトリさん、蓮示くんときて、同じ腐れ縁仲間なのに寝子だけ」
「考えたこともなかったなあ」

寝子は、ぼくが4区を仕切っていた頃からの顔見知りで、蓮示くんやイトリさんともその頃からの付き合いがある、もうひとりの腐れ縁。
そういえばそう、かもしれない。でも、理由なんて特に思い当たらない。

「そうか、無意識か。なかなか闇が深いねえ」
「なにそれ。でも、言われてみればたしかに。どうしてだろ」
「だろう?……ほら、噂をすればなんとやら、だ」

そこへやってきたのは、ひと仕事を終えた寝子。彼女は4区の情報を発信するウェブメディアを運営しているフリーライター。最初はアングラで偏った趣味の個人サイトだったけど、昨今の喰種絡みの事件を受けて、喰種の内情に詳しい存在としても注目されている。

「寒い!今日めちゃくちゃ寒い!雪降るよ雪!あ、イトリ久しぶり!」
「寝子久しぶり。ハイテンションだねえ」
「だって寒すぎて!寒くない?寒いよ!」
「寒い、の三段活用で会話されたの初めてだわ」
「褒めても、何も出ないよ」
「褒めたつもりは微塵もないけどな」

このふたりが揃うと、とても賑やかだ。最近は会えてなかったみたいだけど、寝子は一時期、イトリさんのバーを手伝ってたこともあって、元々とても仲が良い。

「おっと、もうこんな時間か。そろそろ開店準備があるからお暇しようかね」
「すれ違いかぁ。また呑みに行くよ、ウタも連れて」
「いいねえ、蓮ちゃんも呼ぼう。久々に同窓会しよう」

じゃあまた、近いうち、とイトリさんはあっさり帰って、ぼくと寝子だけが残された。
頼まれもののマスクのデザインが行き詰っていたぼくは、奥で勝手にお湯を沸かしてコーヒーを淹れ始めた彼女に、ぼくの分も、と頼む。

しばらくしてふたつのカップを持って現れた寝子が、片方のカップをぼくの作業台に置いた。そして店の隅に置いてあったスツールを引っ張ってきて、ぼくのとなりに座った。

「今日も取材だったの?」
「そう。あの、入り口が半地下になってるクラブ、覚えてる?前にウタと行ったとこ。あそこが改装したって聞いて、ちょっと偵察に行ってきた」
「あぁ、バロックというかロココというか、金ピカでゴテゴテした感じの内装、嫌いじゃなかったけどな。胡散臭くて」

あれは、ぼくがマスク屋を始めたばかりの頃。いきなり店に押しかけてきて、カップルじゃないと入れないイベントに行くよ、って勝手にcloseの看板に掛け代えて、ぼくの返事も待たずに突然連れ出されたんだった。

「今回はもっとダーク寄りになってるね。フロントにガイコツとか置いちゃってる。元々、フェティッシュイベントとかゴスイベントとか多い箱だし、客層的にもウケるんじゃないかな」

熱いコーヒーをなんとか飲もうと必死に息を吹きかけている寝子を眺めながら、さっきイトリさんに言われたことを思い出す。

イトリさんや蓮示くんと違うところは、基本的な趣味が合うところ、かもしれないなあ。出会ったころの彼女は一年中ハロウィンみたいな格好をしてたし、髪の毛だってコロコロ変えてた。伸ばしてる、って言った次の日に、突然坊主にしたり、とかね。

イトリさんは会うたび笑い転げてたし、蓮示くんは毎回絶句してたけど、ぼくらふたりの間では何も特別なことではなくて。すべてが普通、とか、いつも、の延長線上で。あ、髪切ったんだ、それも似合うね、みたいな。

なんだか他人とは思えなかった、のかもしれない。

「あ、そうだ。このあたりでいい感じの空き部屋、知らない?」
「何?引っ越すの?」
「20区は平和でいいんだけど、最近忙しくなってきて移動が面倒でさ。引っ越すにはちょうどいいかな、って」

ぼくはしばらく考えて、答える。

「……あるよ、空き部屋」
「どこ?」

ぼくは、天井を指差して続けた。

「ぼくの家、一部屋空いてる。寝子だったら使っていいよ」
「ウタと一緒にここで住むってこと?」
「不服?寝子にとって、これ以上無いくらい理想的な条件の部屋だと思うけどな」
「お邪魔じゃなければ!ウタ様ありがとう!」
「邪魔じゃないけど、その言い方違和感ありすぎて気持ち悪い」

今までだって、取材の合間にぼくの店に寄って休憩とかしちゃってるんだから、いっそここを拠点にすればいい。
そんな軽いノリで誘ったんだけど、話はトントン拍子に進んで、次の週末には引っ越してくることになった。

なんとなく、一緒に住むと楽しそうな気が、するんだよね。