プール



ハローワークへと向かう朝での出来事だ。駅のホームに、何がそんなに悲しいのか、泣き喚く小さな女の子が一人。泣きたいのはこっちだ。あの小さな背中をこの手で押していたら。あの子はホームからいとも簡単に落ちていただろう。泣き喚くあの子の母親はあやそうともせずにしきりに遅延している電車を気にしていた。
俺をあんな気持ちにさせるのは泣き声だけじゃあない。台風のせいもあったし、そのせいで遅延している電車だってそうだ。それから…。








帰宅しても、公園を散歩をしても、今朝のあの子の泣き喚く声が頭をぐちゃぐちゃとかき乱し俺を苛立たせていた。ハローワークは散々。雨は朝よりひどくなりごうごうと街のの木々や家のガラスを揺らした。こんな日に散歩をするなんてどうかと思うけど、気を紛らわせるには十分だった。よく手入れの行き届いた公園や花壇はすっかり姿を変えていた。けれど、目にするもの全てが不快で仕方がなかった。





今日のチョロ松は殺気たってるね。そんなことないよ。一つ下の弟とそんな会話ばかりをしていたのを思い出した。奴は俺の背中をぽんと叩き、へらっと笑っていた。気持ち悪い。背中の上からでも手が冷え切っているのがわかっていて不快で仕方がなかった。溜め息ばかりだ。












「ねぇねぇチョロ松くん」

「何ですか」



風が窓ガラスをガタガタと大きく叩いた。窓の外は相変わらずの天気で、もう月は姿を現してくれないのではないかと思えた。
結局この日は夜になっても台風な収まることはなくて、俺は仕事帰りの彼女を駅まで迎えに行き、彼女の家まで訪れたのだ。

部屋の中にいると叩きつける雨の音が籠もったように聞こえる。家の中で聞く雨の音は好きだった。
ここに帰ってきてから一度もつけられることのない蛍光灯は、寂しげに天井に浮かんでいた。灰色に包まれた部屋はまるで深夜の室内プールのように無機質だった。






フローリングの上にぺたりと座り込み雑誌をめくる彼女の後ろに座り、彼女に腕を回した。彼女は一度も私を見ようとしなかった。冷たい空気の匂いが俺の肺にいっぱいになる。まるでそれは塩素の匂いのように不快に感じた。







「今日は溜め息が多いね」

「そうかな」

「うん、さっき溜め息ばっかだったよ。雨だから?」

「まぁ、そんなところかな」





曖昧な言葉で返し、彼女の肩に顔をうずめた。やはり冷たい水の匂いが鼻をついた。彼女の匂いなのか、外の匂いなのか。それとも。


目を瞑る。ふと奴のあの憎たらしい顔が、俺の瞼に映し出された。なんとも不快だった。俺は奴の蔑んだように人をみるあの目が大嫌いだった。心臓を誰かの手によってぐちゃぐちゃにされているような不快感でいっぱいになる。奴の今日のあの言葉が頭に響き、背中に奴の冷たい手のひらの感触が蘇った。





それをごまかすかのように俺は彼女の肋骨から脇腹を撫でた。ゆっくりと何度も。くすぐったいのか身をよじるがそんなことはどうでも良かった。彼女の薄いニットが、雨の冷たさと彼女の温かさが混ざりあい生暖かく湿っていた。
ひたすらに撫でていると、閉じた瞼の裏に住み着いた奴の憎たらしい目がじわじわと闇に溶けてなくなり、いつかみたあの白い彼女の肌が映し出された。



ああ。俺は今、今朝あの小さな背を押そうとしたこの手であなたに触れている。同じ手なんです。この手でなんだってできるんです。




「ねぇ、ほんとに、すみません…」



無意識のうちだった。その言葉は彼女の薄いニットに吸い込まれていった。





「…うん」





彼女はそう返事をした。何か続きを言いたそうに、雑誌をめくる指が止まったけれどまたすぐに規則正しくめくる音が聞こえた。





何を知り何をわかっているのだろうか。何も知らないしもしかしたら何もかも知っているのかもしれない。彼女はそれ以上何も言葉を発することはなかった。
彼女のその一言は続きの言葉を待つかのようにいつまでも部屋の中をクラゲのように漂っていた。そして俺は再び、この部屋は深夜の室内プールのようだとそうに思った。


雑誌をめくる紙の乾いた音がついに止まり、俺のこの手の甲に彼女の指が触れ優しく撫でられた。その手は突き刺さすようにひんやりとしていて、背中がじくじくと痛んだ。彼女はまるで生まれたばかりの赤子の頬に触れるかのように優しく撫でてくれた。その手で一体他の誰の体に触れたのだろうか。



部屋は更に灰色を増していた。手の甲の感触が心地良い。今朝の駅での出来事が遠い昔の記憶に思えた。雨は休むことなく降り続いている。俺は彼女の湿ったニットの中に手を滑りこませた。




20081006/20151220 プール
むつごは似て非なるものだ





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