夢の後味 一松くんの白い体は水の中でしなやかになびいていた。水泳なんて全くわからないけど、多分、あれはクロール。一松くんは謙虚にぱしゃぱしゃと音を立てながら、ゆっくりと向こう側へ泳いでは戻るを繰り返しをしていた。 片側一面だけガラス張りになった窓からは、街の明かりがたくさんの色で輝いている。いつも見ている景色なのにその輝きはロマンチックに思えた。そしてその向こうから月と星の光が差し込み、この室内プールの淡いオレンジの光をより儚げにしていた。それらの光は混ざり合い、水に浮かぶ一松くんをつやつやと輝かせた。 室内プールの端には、三人掛けの清潔で真っ青なベンチが5つ置かれていた。わたしはいつも右側から二番目の、一番良くプールを見渡せるベンチに座るのだ。 わたしは水着に着替えてはいるものの、上から一松くんのパーカーを羽織っているだけであの中に入ろうなんて思ったことはない。 一松くんの黒髪がゆらゆらと水の中で踊っていた。それをここから眺めているだけで良かったのだ。ここへくると、一松くんといると、全てが夢のように思えた。一松くんはわたしにとって非現実の国からきた人間だった。 こうやって二人で市内の室内プールへ訪れるのは今夜で4回目だった。決まって平日の夜。ここの室内プールは珍しく夜12時まで営業しているので、一松くんお気に入りなのだ。一松くんは普段の運動不足をこうやって、水泳で解消しているのだ。 今日は珍しく他の客がいなく、わたしと一松くんの二人きりだった。ついさっきまで若い大学生風の女の子がひたすらにプールの中を歩いていたけれど、10時になると同時に足早に去っていった。すると今までずっと二人きりでこの広い室内プールにいたかのように、一松くんが作る水音だけが支配した。もしかしたらあの女の子はわたしだけがみた幻覚かもしれないとすら思えた。けれどプールの淵から出入り口に向かいベージュのタイルが色濃く湿っていて、それは現実なのだと主張していた。 10往復したところで一松くんはプールの淵に手をかけ、とうとうプールから上がってしまった。そして両足でタイルをぺたぺたと濡らしながらこちらへ向かってくる。一松くんの全身はやっぱり水でつやつやと輝いていた。それはとても綺麗で、一松くんの肌の白さを際立たせていた。 「はい、」 「ドーモ」 わたしは綺麗に畳まれたまっさらなバスタオルを、いつものように一松くんに渡す。一松くんはそのタオルでまず顔を拭いた。そのまま髪の毛をわしゃわしゃと拭き、タオルを首にかけわたしの隣に腰を降ろした。最後にプラスチックの軋む音がして、ついに無音が支配した。 一松くんは疲労のせいか口を開くこともなくじっと俯いていた。水の中の余韻に浸るようにも見えた。 わたしはその無言が何より幸せに感じられた。二人でいるのをより実感出来るし、より夢の世界に感じられたからだ。余計な言葉はいらないのだ。 一松くんの濡れた髪が横顔を隠し毛先からぽとぽとと水滴が落ちた。そのおかげで表情が読み取れなかったけれど、不安も何も感じない。きっとそれは一松くんだからなのだろう。わたしは沈黙を守り、じっとプールに視線を送った。一松くんが泳いだ跡を水がゆらゆらと柔らく揺れ、小さな小さな宝石のように輝いていた。 無音と水に支配されたこの空間が、何かに似ていると気づいたのは水のゆらめきが大人しくなってからだった。あの日、雨の日の私の部屋がこんな感じだったのだ。本棚、ベッド、銀色のオーディオ、壁に掛けられた白い淵の時計、小さなテーブル。灰色と、バケツをひっくり返したかのような雨の音に支配された部屋。ベッドの中で小さく小さい抱き合い、囁くように会話をする。全てが混ざり合い無にすら感じたあの部屋だ。 気づいてしまうと、彼の華奢な腕に抱かれる感覚を思い出し、くすぐったかった。あぁダメだ。一松くんといるときは彼のことを思い出してはいけないのに。現実に戻されてしまう。はっとしたのはもう遅くて、何かを弾く音が空気を裂いていた。 「何考えてんの」 じわりじわり痛みが広がり、そこでようやくわたしは一松くんに頬を叩かれたのに気が付いた。一松くんは目を細めじっとわたしを見据えていた。わたしはそれを反らせなかった。額に張り付いた髪の毛から水がしたたり、頬を、首筋を伝いその水が鎖骨に溜まっていった。 「今俺以外のやつのこと考えてたでしょ」 一松くんの声が冷たく響いた。視線は鋭いままだった。 「ちが…」 何が違うの。一松くんの言う通り一松くん以外の人の事を考えていたじゃないか。わかっているのに。わたしは弾かれた右頬をそっと抑えた。 「あいつのこと考えてたんじゃないの」 一松くんは変わらず冷たい声のまま言った。一松くんにこんな風に言われたのは初めてで、まるで彼に怒られているよう感覚だった。彼はわたしが悪ければ怒り、彼が悪ければ彼はきちんと謝る。彼の筋立ては狂いのない彼の腕時計のように、確かで狂いのないものなのだ。 彼に怒られたときの記憶が一瞬にして脳に散らばる。怖い。悲しい。わたし、もしかして彼のところに戻りたいの?そうに考えたら涙が出そうでそれをぐっとこらえた。彼を裏切っていつもこうにしているのに。現実が嫌で非現実をみたかったのに。彼の無機質さですら懐かしく、愛しく思える。 「はぁ。もういいから」 一松くんは呆れたように小さく呟いた。それは生ぬるい空気に溶けていった。 すっと一松くんの顔が近づいたかと思うと、羽織っただけのパーカーにするりと手を滑り込ませ引き寄せられた。わたしはすっかり一松くんの胸の中に収まってしまった。一松くんの手や胸は、プールのなま暖かさが残っていた。密着したその温度はじわじわと私を浸食していくようで怖くて仕方がなかった。 「あいつんとこ帰りたい?」 そうに言われて、ついにわたしは泣き出してしまっていた。なんてズルい人なの。わたしがそうできないのを知っているはずなのに。きっとわたしの頭の上で楽しそうに笑っているに違いないのだ。悔しくて悔しくて涙は止まることはなかった。一松くんはわたしに回答を促すように更にぎゅっと胸に押し付けた。答えはわかってるはずなのに。 一松くんの鎖骨からこぼれ落ちた水滴が、わたしの涙と混じり合い奥深くに落ちて行った。ついにわたしの声は涙に押し殺され出てくることはなかった。 もうどうしようも出来なかった。一度だけ一松くんが子供のように泣いたことがあった。わたしは懸命に一松くんを抱きしめ休むことなく頭を撫でた。そこは街の安っぽいホテルだった。彼とだったら絶対に足を運ぶことのないネオン街の中の一つだった。無数に輝く人工的な光は空に輝く星たちより綺麗に思えた。夢の中のように、休むことなく輝いていた。 明日わたしは彼に合う。毎朝しているようにおはようを言う。そして二人でコンビニにへ向かい歩道を歩いていると、後ろから一松くんがどこ行くの、と声をかけてくる。その頃にはもうプールの出来事や一松くんの水に浮かぶしなやかな体の記憶は、遠い遠い昔の出来事のように蓋をしている。そして夢でもなんでもない1日が始まるのだ。 20081020/20151219 夢の後味 むつごは似て非なるものだ |