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「すみません。潔子ちゃん、いますか?」

 男子バレー部の部室の扉を、控え目に2度叩いた音が訪問者を告げる。着替えを終えた菅原がドアノブを回し、目にしたのは制服を着た一人の女子生徒だった。マネージャー以外でこの扉をノックする人間なんて滅多にいないのに、その扉の向こうにマネージャーでもない女子生徒がいるのは、菅原が烏野高校バレー部に入部してから初めてのことである。

「え、あ、清水?」
「はい、そうです」

 予想外の事に驚いて問い返す菅原の耳にもう一度、彼女の声が届く。真っ直ぐに自分を見つめる瞳に、菅原の心にえも言われぬ感情が芽生えたが菅原は動揺を隠すように笑みを浮かべた。
 そもそも、この女子生徒は誰だ。清水の友人だろうか。菅原の疑問を余所に女子生徒は質問の答えを待っていた。菅原は女子生徒を見つめながら、ようやく答えを伝えた。

「ええっと、清水はいつも女子更衣室で着替えて真っ直ぐに体育館に向かうからここには来ないよ。何かあった?」
「あ、そうなんですか……。実は、借りてたプリントを返すの忘れてて。明日、小テストあるから今日中に返さなくちゃいけないかなと思って部室に来たんですけど……なら、体育館に行ってみますね。ありがとうございます」
「あ、ちょっと待った」

 少し残念そうに女子生徒は答える。軽くお辞儀をした彼女は菅原に教えて貰った通り、その足で体育館に行こうとしたが、突然の制止に「え?」と驚いて声を挙げた。だが、驚いたのは声を出した菅原自身も同じだった。考えもなしについ呼び止めてしまったと菅原は焦る。咄嗟に口をついて出たのだ。ちょっと待たせて何があるわけでもないというのに。

「いや、えっと……。それ、俺から清水に渡しておこうか? わざわざ行くの面倒だと思うし」

 思考を巡らせ、出した言葉はそれだった。菅原の言葉を噛み砕きながら女子生徒は菅原の瞳を見つめた。互いを写し合う瞳に、菅原は少し気恥ずかしさを感じていた。女子生徒の澄んだ丸い瞳に、菅原は後悔を覚え始める、もしかすると出過ぎた真似だったかもしれない。余計なお世話になっていたらどうしたものか。
 菅原の心配をよそに、女子生徒は口角を上げた。その様子に菅原の胸に安堵が広がる。

「じゃあ、すいません。お言葉に甘えて」
 
 女子生徒は肩にかけた鞄からクリアファイルを取り出して菅原に渡す。何枚かのプリントが挟まってある。その表紙のプリントの右上には女の子らしい付箋が貼られていた。『プリントありがとう!助かったよ〜!あと返すの遅くなっちゃってゴメンね(>_<)』そう書かれた字は少し丸みを帯びていて可愛らしい。付箋を目に入れた菅原は女子生徒に気付かれないように微笑んだ。

「じゃあ、これ。俺からちゃんと清水に渡しとくから」
「うん。お願いします」

 女子生徒は浅い角度で頭を下げた。頬を掠めた髪を耳にかける仕草を菅原は見つめる。
 あ、なんか良いかも。
 ひょこり影から顔を出した感情はクスクスと菅原に笑いかける。何がとか、どこがとか。そう言うのははっきりと言えないけれど、なにかグッとくるものがあった。

「それじゃあ、失礼します」

 女子生徒はそう言い、菅原の揺られる感情には気付くことなく背中を向ける。菅原は遠ざかるその背中を見つめる。彼女のその背中が完全に見えなくなったとき、菅原はようやく気が付くのだ。そう言えばあの子の名前はなんと言うのだろう、と。

「スガー? 何だった?」
「あー……えっと、清水いるかって清水の友達が。プリント預かった」

 ほんの少しの名残惜しさを感じながら立ち竦む菅原に、主将の澤村大地が後ろから声をかける。はっと気を取り戻して部室に戻ると、事の顛末を伝えた。澤村は「そうか」とだけ答え、特にこれ以上何かを聞く様子はなさそうである。預かったプリントを見ながら菅原は口を開く。

「……清水と仲良い女の子って大地、知ってる?」
「清水と? クラス違うし俺は知らないな」
「だよな」

 同じ学年だが菅原は初めて見る顔だ。いや、もしかしたら廊下ですれ違ったこともあるかもしれない。けれど今まで気に止めることもなかった。あの子は多分、緊張していた。少し強張っていた様子が思い起こされる。
 清水潔子は美しい。他校の生徒が見ても、自分達が見てもそう思う。しかしあの女子生徒には、誰もが認める清水潔子の美しさとは違う、別の美しさがあるのではないかと菅原は思った。それを言葉にするのは難しいけれど。

「スガ、行くぞ?」
「ん」

 黒に染まるジャージのファスナーを上げる。右手には先程彼女から受け取ったクリアファイル。それを見つめながら菅原は脳裏に残る彼女の声を、密やかに再生した。

(16.04.11)

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