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「あ、そう言えば清水。これ」

 菅原は女子生徒から受け取ったクリアファイルを、部活終わりに清水へと手渡した。目の前に差し出されたそれに、何の事かと不可解な顔をしていた清水だったが、受け取って納得する。これは親友である名前に貸していたものだ。しかしなぜ菅原が? 清水の瞳からその疑問を感じ取った菅原が先に口を開く。

「部活が始まる前にさ、清水いるかって女子が部室に訪ねて来たんだよ。体育館に居るって教えたんだけど、わざわざ来てもらったし俺から渡しとくって言ってその子から預かった」
「そうだったんだ。ありがとう」
「あー……えっと、友達?」
「え? うん。中学からの」
「名前なんて言うの?」

 菅原の問いかけに清水は少し、顔をしかめた。なぜ、菅原がそんなことを気にするのだろう。
 菅原は慌てて付け足す。

「ほら、また何かあるかもしれないだろ? それに同じ学年なんだから知ってても良いかなって思ったんだけど……」

 清水はやはりその顔のまま菅原を見ていた。その視線が突き刺さるように菅原の心を攻撃する。言葉に覇気はなくなり最後のほうは尻切れトンボのように、ゆっくりと言葉は消えていった。頼む、どうか邪推しないでくれ。菅原は思う。別に、深い意味はないのだからと。

「いや、言いたくないなら、いいんだけど、さ」

 清水にとっては、本人の居ないところで本人のことをペラペラと口にするのは少し気が引ける行為だったのだ。きっとあの子はそんなこと気にもしないだろうし、菅原も特に深い意味があって名前を聞いたわけではないだろうけど。
 菅原は清水が何を考えているのかは分からない。だけど知りたかった。このまま名前も知らないまま、残りの高校生活を過ごすのは何だか勿体無いような気がした。いや、勿体無いとは少し違う。
 例えば明日、廊下ですれ違って、今日のことを彼女が覚えていて「昨日はありがとう」「どういたしまして」そんな会話をするかもしれない。そんな明日は来ないかもしれないけれど、それでも構わない。菅原を動かすのは知りたいという純粋な好奇心である。不純の混ざらない、純粋なそれだけなのだ。

「名前。名字名前。中学から一緒で、今年は私と同じクラス」

 清水の口から零れた名前を、菅原は慌てて拾って頭の中で繰り返す。名字、名前。名字。名前。よし、覚えた。

「そっか」
「私よりたくさん笑うし、よく喋る子だから話すの楽しいと思う」

 ならば先程はだいぶ緊張していたと言うことだろうか。たくさん笑うし、よく喋る。菅原は清水の言葉を繰り返す。元々、清水は感情を表に出さないタイプの人間だ。私よりと言うけれど、それは半数以上が当てはまるのではないだろうか。けれど菅原の心はくすぐられるような感覚に陥る。それは大きな風が吹く前の木々の小さな囁きに似ている。それはきっと、何かを秘めた風だ。

「そっか。今度廊下ですれ違ったら声でもかけてみるわ」
「うん。そうしてみて。私も隣にいることが多い思うし」


△  ▼  △


 早速、廊下ですれ違う。なんてそんなベタなことドラマでもあるまいしあるわけないか。そう思いながらも、どこか期待する胸で日々を過ごしていた菅原だったが、その期待は叶うことなく機会には恵まれなかった。しかし、それとは違う形で転機はすぐにやってきた。菅原が新しく覚えたその名前を口にする日が来たのは、4月も後半に差し掛かった頃のことである。

「失礼します」

 保健室の前に立った菅原はそのドアをノックして扉を開ける。養護教諭がいるとばかり思っていた菅原だったが、その扉を開けて中に入っても白衣を着た人物が見当たらないことに菅原は眉尻を下げた。
 不在か。菅原は自身の指を見つめた。調理実習で切ってしまった人差し指。大きな怪我ではないし、支障が出るわけではないが、バレーの事を考えると正しい処置をして早急に治したい。そう思って保健室を訪れた菅原だったが、どうやら出直しが必要なようだ。
 部室にある救急セットで処置するかと菅原が踵をかえしたとき、奥のベッドから一人の女子生徒が声をかけてきた。

「先生、電話があって出ていったけれど、すぐに戻ってくるみたいですよ」

 その声に菅原は振り向く。あ、と発する形で口が開かれたのは後々思い返すと間抜けだったな、と菅原は思うだろう。
 こちらを見つめる瞳。その女子生徒を菅原は知っている。名を、名字名前。そう、念願の再会を二人は保健室で果たすこととなったのである。

(16.05.15)

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