#28



 結局、ひとつきが経っても孝ちゃんへの返事を出来ないままだった。インハイ予選を3日後に控えた平日のことである。何を迷っているんだ、私。好きですって言えばいいじゃない。そう何度も何度も思うのに行動に移せない。何かがずっと邪魔をするのだ。その何かが私の心を阻む。

「最近浮かない顔してるけどどうしたの? 大丈夫?」

 いつもと変わらぬ笑みで及川くんは言う。

「大丈夫……とは言えないけど」
「えっ、何があったの? 俺で良ければ聞くよ?」

 それは優しい瞳だった。バレーをしているときの真剣で獰猛な及川くんの瞳とはかけ離れている。その瞳にほだされるように私は口を開いたけれど、言葉を発する前にぎゅっと固く口を閉ざした。この人に言ってどうしようというのだ。

「……別に」
「別にって顔には見えないけど。最近の名前ちゃん、心ここにあらず、って感じだし」

 それは自分でも自覚していた。受験生なのに何やっているんだろうとも思う。するとどんどん自分がどうしたいとか、どうなりたいとか、そういったものの答えが何なのか分からなくなるのだ。

「……及川くんはさ」
「うん?」
「私のこと、好きにならなくなったりしないの? 違う人を好きになったりしないの?」

 口をついて出たのはそんな疑問だった。及川くんは考えるような仕草を見せて、笑う。クラスの喧騒が遠く感じるようになるくらいには、その瞳に引き込まれた。

「名前ちゃんには好きな人がいるから、確かに俺が君のこと好きじゃなくなったり、違う子を好きになったりしたら、丸く収まるんだと思うよ。……たまに、好きになるの止めれたら良いのにって思うこともある。けどさ、そういうの頭では理解できていても、心は納得してくれないんだよね。気持ちは止まってくんない。それはいつか何かしらの形で無くなってしまうかもそれないけど、俺は、少なくとも今の俺は、名前ちゃんのことが好きなのを止めれない」

 冷静に客観的に考えたら、教室で、しかも昼休みに何語っているんだって思う。でも及川くんの真剣な眼差しに、苦しいほどに理解した。恋とはそういうものである、と。頭がどんなに考えても、こうしたほうが良いって思っても、心が一致しないと駄目なのだ。上手くいかない。

「だから、答えはノーだよ」
「……そっか」

 及川くんが微笑む。それは、どうしようもないほどに優しい瞳で私は苦しかった。そんな顔をしないで。優しくしないで。欲しい言葉を渡さないで。私の心に入ってこないで。全部伝えられたら良いのに、それは1つも言葉にはならなかった。


△  ▼  △


 インターハイは孝ちゃんの最後の試合ではない。と思っている。春高の試合、出るだろうし。最後の試合にならないにせよ、勝って欲しかった。いつだって勝ち続けて欲しかった。実際、烏野はトーナメントを勝ち進んで青城とぶつかった。各高校の応援の声が体育館に響くなか、私は眼下で繰り広げられる試合を、声も出さないまま見つめていた。
 烏野と青城の公式戦。孝ちゃんに勝ってほしい。そう願う反面、及川くんに視線が持っていかれる。それは多分、孝ちゃんがスタメンでなかったこともあったと思う。控えで応援の声を上げる孝ちゃんの姿を見つめながら思った。孝ちゃんは今、どんな気持ちでいるんだろう、って。5月頃に孝ちゃんから、影山くんと言う天才セッターがいるという話は聞いていた。聞いていたけれど、いざ孝ちゃんが控えにいるのを見ると複雑だった。
 結局、試合はフルセットの末、青城の勝利で終わった。その青城も、そのあと白鳥沢との戦いで敗戦となったのである。私はその場でどちらかと顔を合わせたくなくて、早々にして家へ戻った。二人には『おつかれさまでした』という連絡をする。二人からの返事は夜までこなかったけれど、どういうわけかそれか逆に私にとってはありがたかった。もう寝る、という口実で連絡を締めようとすると、孝ちゃんが『少し会って話がしたい』という連絡をよこした。玄関を出ると孝ちゃんが家の柵の前に立っている。こうやって話すのは久しぶりで緊張する。

「ごめんな、こんな時間に」
「ううん、大丈夫」

 若干の気まずさを隠しつつ、笑顔で答えた。

「今日、応援ありがとな」
「……うん」
「まあ、スタメンじゃないし、負けたけど。かっこいいとこしか見せたくなかったのに、ごめんな」

 孝ちゃんは苦笑して言って、意思ある瞳で続ける。

「でも、次は勝つから」
「春高の予選、だよね?」
「おう」

 それが本当の最後。孝ちゃんにとっても、及川くんにとっても。同じ県内にいるのだから、勝ち進めばいずれはまた戦う。そして必ず勝敗はつく。

「……俺はさ」
「うん」
「小さい頃から、名前のヒーローになりたいって思ってた」
「ヒーロー?」
「そ。強くなって、名前のことを守り抜くヒーロー。辛いときとか苦しいときとか、泣くときには必ず俺がそばにいてやるって子供ながらに思ってた。そして俺が名前のヒーローになれたら、好きだって伝えるんだって、ずっと考えてた。でも名前、泣かなくなったよな」
「え?」
「少しずつ離れていって、俺の知らない名前がいて、そうやって変わっていって。……本音言うとちょっと焦った」

 いつも思っていた。孝ちゃんはいつだって私に優しい。それは苦しくて泣きたくなるくらいに。胸が痛いくらいに。それは今も、この瞬間も変わらない。

「……小さいときの約束覚えてるか? ずっと一緒にいようなってやつ」
「覚えるよ。……孝ちゃんも覚えてたんだね」
「忘れるわけないだろ。……だけどさ」

 孝ちゃんは大きく息を吸った。

「約束に縛られるのだけは、やめてくれな。あの約束が名前を縛り付けるのは嫌だから」
「……孝ちゃん」
「俺の気持ちが名前のことを悩ませるなら、忘れてほしい」
「えっ、や、それは、違う。忘れるのは、嫌だ」
「じゃあ、無理すんな」
「え?」
「名前が今、どんな風に悩んでるのか正直、分かってやれないの辛いけど、俺のことを無理矢理好きでいる必要はないんだからな。あんな顔して、好きって言われても説得力ないからな? 俺は名前の悩みの無さそうな笑顔で好きって言われたいんだよ」

 孝ちゃんは笑う。いつもの優しい孝ちゃんの笑顔。私の好きな笑顔。ずっとそばにいてくれた笑顔。その笑顔に泣きたくなったのは初めてだった。孝ちゃんだけを好きでいた、孝ちゃんだけを見つめていた、孝ちゃんのことだけを考えていた過去に戻りたいと思った。だけどそんなのは無理で、嫌がおうにも時間は進む。変わらないものと変わりゆくものの狭間で人は生きていくのだ。

(16.03.09)