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  サラ・ベルナールは言った。
『一目惚れを信じることよ』と。




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 それから1週間が経とうとしていたが、名前の押してだめなら引いてみろ作戦にピリオドが打たれることはなかった。効果が出るよりも先に、赤葦不足の身体に名前が絶えられなくなるのが先だと思われた頃、ようやく物語は進展することとなる。
 ある日の部活後、木兎に誘われて木兎と赤葦の自主練に付き合っていた名前に木兎が普段は使わない気を、ここぞとばかりに発揮したのである。体育館の利用可能時間を存分に利用した木兎がびしっと赤葦を指差して高らかに言った。

「木兎さん、人を指差すのはちょっと⋯⋯」
「よく聞け、あかーし。お前はちゃんと名前を送っていくように! 以上!」
「⋯⋯は?」

 は? と思ったのは鞄を肩にかけようとした名前も同じだった。ちょっと木兎先輩! なんでこのタイミングでそんな気を使ってくれてるんですか! と思っているのに、心の半分くらいでは二人きりで帰れるなんてラッキーと思っているからどうしようもない。
 赤葦が名前のほうを見る。頷きたい。喜びたい。でも、これまでの苦労が無駄になる。と名前は険しい顔をして感情を表に出すのを堪える。見かねた赤葦はため息を吐くだけだった。

「だって。帰ろうか、名字」

 とは言え、赤葦に見つめられて、そんなことを言われて断ることが出来る名前ではない。もはや赤葦の後ろに後光が見えるようになってきた彼女は心の中で合掌しながら「ハイ、ヨロコンデ」と応えるのであった。

「⋯⋯そんなに離れなくても良いんじゃない?」

 だからこれは、名前のせめてもの抵抗なのである。前を歩く赤葦は名前よりも6、7メートル程先にいる。名前の歩調に合わせても、名前が隣に来るのを待って立ち止まっても、彼女は必ずこの一定の距離を保つように歩きを遅めたり、立ち止まったりするのだ。そのあからさまな態度に赤葦は深いため息を吐いた。

「ハァ⋯⋯これじゃあ一緒に帰る意味ないと思うけど?」
「で、でも私から赤葦くんの姿は見えてるから大丈夫!」
「俺から名字が一切見えないことについては? いきなり名字が消えても気がつけないけど」
「いきなりは消えたりしないし⋯⋯」
「暗いから危ないって言ってるの」

 赤葦くんか私を心配してくれている。嬉しい。たまらなく嬉しい。本当は隣を歩いて、あわよくば手なんかぶつかって照れたりなんかしちゃって。月が綺麗だねって言ったら名字のほうが綺麗だよとか言われちゃったり。そんなことを思いながら名前は悩ましげに赤葦を見つめる。
 
「名字は俺の隣歩きたくないの?」

 狡い。そんな風に言われたら首を横に降るしかない。こんなにも赤葦くんを好きなのに、歩きなくないわけないじゃん。赤葦くんだって、私が赤葦くんのことすごくすごく好きなの知ってるくせに。そう名前はジレンマを抱える。
 その横をバイクが通りすぎた。エンジンの音が過ぎ去って、生活音だけが残る。駅までの道のりがこんなにも愛しいとこれまでの名前は知ることはなかった。誰かを想うこと。呼ばれる自分の名前。届きそうで届かない距離のもどかしさ。夢中になること。全て、赤葦がいて名前が得たもの。そういったものの、ほんの少しでも赤葦は自分から得ていたりするのだろうかと、自分に近づいてくる赤葦を見つめながら名前は思った。

「⋯⋯赤葦くんは狡いよ。私はこんなに赤葦くんのことでいっぱいなのにさ、赤葦くんはちっとも私のこと考えてくれないんだもん」
「だからそうやって俺から離れようとするんだ?」
「離れようとしてるわけじゃ⋯⋯ただ、少し物足りないなとか寂しいなとか思ってくれたら良いなとは思ってるけど」
「名字は本当に俺のことが好きだね」

 目の前にやってきた赤葦が言う。何を今さらと名前は赤葦を見上げた。こんなに近くで赤葦を見るのは初めてかもしれない。見つめあって、ちょっと手を伸ばせば抱き締めることだって出来る。望んでいた距離は現実になると、ときめきよりも切なさのほうが勝るのだと名前は知った。

「⋯⋯そうだよ、好きだよ。バレーが上手なところも、字が綺麗なところも、頭良いところも、ちょっと冷たいところも、たまに子供みたいに笑うところも、気にかけてくれるところも、声も目も耳も口も、もう全部大好き! 一生好き!」
「それ、告白? 4回目の」
「⋯⋯意図せずだけど」
「相変わらず強烈なセリフ」

 泣きそうな名前とは反対に、赤葦はとても優しい顔をしていた。駆け引きが下手で、真っ向勝負しかできなくて、単純で。いつの間にか、赤葦自身も気が付かないうちに名前の騒がしさは赤葦にとって生活の一部になっていたのだと赤葦はようやく認めることが出来た。まだ自分の事で悩ましげにいてもらうのも悪くはないかもしれないけれど、周りの心配だとか何より彼女自身のためにそろそろはっきりとさせるべきなのだろう。

「わかってる。どーせ、ハイハイアリガトーって思ってるんでしょ。赤葦くんが受け入れてくれるまで、5回目も6回目もあるんだからね!」
「俺に拒否権はないのか⋯⋯」
「もー! さっきから赤葦くんすごく意地悪な事ばっかり言う! なんで!」
「ごめん。けど俺、名字にはいつも通りでいてもらいたいなって」
「え?」
「無理に俺の事避けるんじゃなくて、今まで通りアホみたいに単純で気の抜けるような笑った顔してる名字のほうが良いんだけど」
「いつもの私、迷惑じゃないの?」
「え、そういう心配あったんだ?」
「⋯⋯ほんの少しは。赤葦くんが本気で嫌なら好きなの止めなくちゃって考えたりもするよ私だって。ほんとにちょっとだけど。1パーセントくらいだけど」

 そっと名前の頭に赤葦の手が置かれる。こんな風に優しく触れられたのは初めてだと、名前は泣きたくなった。苦しい。この人を好きになった中で今が1番苦しい。なのに嫌じゃない。こんなにも胸を締め付ける痛みがまだ残っていたなんて知らなかった。

「いいよ、名字はそのままで。それに迷惑だったらもっと早くから名字にちゃんと言ってた」
「⋯⋯私、これからも赤葦くんのこと好きだよ。すごくすごく好きだよ。世界で1番に大好きだよ。それでもいいの? 私のこの愛は広くて深いよ?」

 この1週間我慢していた分が爆発する。目があったら笑いたいし、声をかけられたら元気に返事をしたい。格好いい瞬間も可愛い瞬間も目に焼き付けたい。これ以上ないってくらいの愛を表現したい。
 赤葦の並べる言葉に感情が追い付かないまま、名前は赤葦を見上げる。好き。今この瞬間を切り取れるなら、私きっと最強になれる。なんだって出来る。赤葦は名前を見つめながら微笑んだ。

「知ってる。結局、名字のそう言うところが好きなのかも」

 ただでさえもう十分だと思っていた名前にとてつもない爆弾が放たれる。

「⋯⋯え? 今、好きって言った? 赤葦くんが私のこと好きって言った? 聞き間違いじゃない?」
「告白されたんだから、返事はするでしょ」
「うそ⋯⋯赤葦くんが私のこと愛して止まないって私のためなら全てを投げ出してもいいって言った⋯⋯」
「いや、それは言ってない」

 むしろこれは夢か? と疑いだした名前に「家に着くの遅くならないようにもう行くよ」と赤葦が声をかける。歩き出す赤葦。今度はもう距離がないように名前はその隣まで追いかける。

「これ夢じゃないよね? 朝起きたらドッキリでしたじゃないよね? ハッ⋯⋯待って。さっきの録音してなかった。赤葦くんもう1回お願いします! サプライズがサプライズすぎて本当にサプライズだよ⋯⋯。感情が有り余ってるんだけどどうしよう。走り出したい気分」
「とりあえず落ち着いて。あともう1回はないから携帯しまって」

 深まる夜に2つの影か並ぶ。彼女の恋の暴走はまだ止まることを知らない。ほんの少しだけ形を変えた恋はこれからも続くだろう。そう。いつまでも、いつまでも。そしてそれはいつか大きな愛となるだろう。手を伸ばすにはほんの少しだけ遠い未来で。

(17.05.31)


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