Sirius
目覚ましをかけ忘れた朝。トーストを焦がしたこと。乗ろうと思っていた電車が遅れて約束に遅刻。飲みたかったカフェの新作ドリンクは売り切れ。悪いことって重なるように出来ているんだと思う。少なくとも今までの人生を思い返してみるとそんな感じだったから多分間違いではないはず。
今日だってそうだ。朝から最悪で、良いことなんて全然なくて、さすがにもうこれ以上嫌なことは起こらないでしょって、たかをくくっていた時に限って最悪な出来事は降り注いできた。しかも、それまでの出来事が可愛いと思えるくらいの衝撃を携えて。
(あーコンビニ寄ると余計なもの買っちゃいそうだし公園の中通って帰ろ)
用事を終えて帰る途中だった。仕事帰りは大抵コンビニかスーパーに寄ることが多くて大通りを通って帰るけれど、ツイてない今日は何となく寄り道する気分にもなれなくて、ここらでは比較的大きい規模の公園に足を踏み入れることにした。風に揺れる木々がザワザワと音を立て、公園の真ん中にある池ではアヒルのボートが数匹泳いでいる。ランニングをする人。写真をとる人。ベビーカートを押す夫婦。ソフトクリームを食べている友達同士。手を繋いでいる恋人。それはいたって普通の光景だった。
「⋯⋯あっ」
ただひとつを除いて。ふと視線をやった先に恋人がいたこと以外は。彼は一人で腕時計を見ながら立っていた。そう言えば昨日の夜、明日は予定が入ったから会えなくなったと言われたんだっけ。そう思い出して、駆け寄るのを一瞬躊躇った。けれどここで声をかけないのもなんだかなと彼へ駆け寄ろうとした時、私ではない女性が先に彼へ駆け寄ったのだ。え? と足が止まる。彼はその女性の呼び声に気が付くと嬉しそうに顔を緩めて彼女を抱き寄せた。濃い霧のような靄が身体の内側に発生する。何をしているの? と声にならない疑問だけが浮かぶ。笑い合う2人。どちらからともなく自然に手が繋がれて、彼は私に気が付くこともなく歩き出したのだ。
やだなあ、もう。息がうまくできない。自分の目で見たことを信じられない。気のせいだよね? 私の考えすきだよね? 女友達なんだよね? だけどただの友達が手を繋ぐかな? 駆け寄ってきたところを抱き止めるかな? 強く締め付けられる胸の痛みに思わずしゃがみこんで顔を手でおおう。瞼の裏側にも焼き付いた先程の光景。苦しい、苦しいと叫びそうになる。動揺がおさまらない。そんな時、頭上から優しい声が降り注いだ。
「大丈夫ですか? 気分悪くしましたか?」
はっと驚いて顔を上げる。格好から察するにランニングをしていたのだろう。私より少しだけ年下の男の子が心配そうにこちら見ながら立っている。返事をしない私に、彼は同じようにしゃがみこんで視線を合わせた。肩で息をしている彼に私は何か言わなくてはと慌てて「す、すいません」と小さな声で言った。
「立てますか? 歩けるならすぐそこのベンチに座ったほうが良いと思います。無理なら俺が背負いますけど」
「あっ⋯⋯一人で立てます。歩けます。⋯⋯大丈夫、です」
「良かった。そこのベンチ座ってて下さい。俺、何か飲み物買ってきます」
「え? いや、私――」
具合が悪いわけじゃないので、と続けたかった私の言葉は届かぬまま、彼は私の制止の言葉も聞かずに自販機のある方へ駆け出していった。どうしよう、誤解させちゃった。困ったなと思いながら誰も座っていないベンチを見る。私は一瞬迷って、男の子が先程指差したベンチに座った。男の子が戻ってきたらお礼を言って心配させたことを詫びなくてはいけない。
なんでこんなことになったんだろうと思えば思うほど先程の光景を思い出す。浮気を否定しきれないのには、それなりに思い当たる節があるからだ。だからどうしても胸は苦しくなる。今まで目を瞑って考えないようにしていたことを突きつけられた事実は簡単に私を揺らがせる。やっぱり今日は厄日だ。そうに違いない。
「すいません、お茶で良かったですか?」
「あ⋯⋯えっと、ありがとう。いま、お金――」
「大丈夫です。これくらい気にしないで下さい」
人の良い爽やかな笑みを向けられる。傷心中の私にこんな純真無垢な優しさは良くも悪くもジンジンと胸に響く。出来た子だと感心しながら、誤解されていることに罪悪感を抱くようになった。具合が悪いと心配してもらった上に飲み物まで買ってくれたのに、しゃがみこんだ原因は具合の悪さではなく彼氏の浮気疑惑現場を目撃したことであると伝えるにはなかなか勇気が必要だ。
「や、けど、その⋯⋯なんていうのかな。えっと⋯⋯実は具合悪くなったわけではなくてね、ちょっと見たくはない場面を見てしまったというか、だから心配してくれて凄く嬉しかったけれど、飲み物のお金は払うね」
そう言うと男の子は数回瞬きを繰り返して、ハッとしながら顔を赤く染めて恥ずかしさを隠すように私に頭を下げた。
「すっ、すいませんっ。俺、早とちりして、その」
「あ、謝らないで! 私が紛らわしかったのが良くなかったんだし。⋯⋯大人として情けないんだけどね、声かけてもらえて助かったのは本当だから。ありがとうね」
彼に声をかけてもらえて冷静さを取り戻せたところはある。私は鞄から財布を取り出して100円玉を二枚、彼に手渡した。少し迷う様子を見せて、100円玉は彼の手へと渡っていく。後ろにある太陽の光が、色素の薄い男の子の髪を照らしていて私は少しだけ眩しさを感じていた。
「余計な気を使わせましたよね、俺」
「ううん。そんなことない。まさか声をかけてもらえるとは思ってもいなかったから驚いたけれど、優しくしてもらえてそんな風には思わないよ」
頭上にあるソメイヨシノの木はついこの間までピンク色に染まっていたはずなのに、もう青々と繁っていた。こうやっていつの間にか物事は変化していくのだろう。生活に馴染むよう、ゆっくりとしたスピードで。その事に気が付いたのがたまたま今日だった、というだけの話だ。本当に、それだけの話。
「だから、えっと、私は大丈夫なのでランニング、かな? 再開してください。途中でストップさせちゃったよね。それもほんっとごめん」
「や、全然です。俺もちょうど良い休憩になれたんで。けど、大丈夫ならもう行きますね。詳しいことはわからないですけど、あんまり無理はしないでください。それじゃあ」
そう言って一礼した男の子は背中を向けて走り出していった。恋愛における無理とはどういったことを指すのだろうかとぼんやり考えながら、小さくなる男の子の背中を私は見つめていた。
(17.06.06)