Altair



 付き合って2年半。それが「もう」なのか「まだ」なのか、たまに分からなくなるときがある。
 最初に怪しいと思ったのは、先々月のことだった。いつもは私の前でも鳴った携帯は普通にとっていたというのに、ある日から私の前では携帯を触らなくなったのだ。その日以来、携帯が表を向いている事はなった。それから1か月後にドライブをしたときも、カーナビの履歴から行き先を設定しようとしたら私とは行ったことのない娯楽施設があった。明らかに一人で行く場所でも、男性同士で行くような場所でもない。
 口には出さず、目を背けるようにしていた。考えなければ良いと思っていた。そうして事実から逃げていた私に、現実は容赦なく襲いかかるのだと突然知ることとなる。

「あ⋯⋯」

 仕事帰りに訪れた彼の部屋。男の人という点を差し引いてもあまり物がない部屋で、生活感の薄いその部屋に最初の頃は苦手意識を持っていたのを覚えている。窓際にある観葉植物は私が前に気になるなら買っちゃえ買っちゃえと購買を煽ったものだ。台所にあるエスプレッソマシンは私が誕生日に贈ったもので、棚の上に置いてあるこの部屋に似つかわしくないキャラクターのぬいぐるみは初めてのデートでお揃いで購入したものだ。
 彼の部屋には少しずつ私の生活が混ざり込んでいて、決してひとつにはなれないけれどたゆたうように心地よく合わさる空間に私はどこか満足感を得ていた。ベッドの下にコットンパールのピアスを見つけるまでは。
 大きく息を吸って、深呼吸を繰り返した。これは、私のものではない。そもそもピアスホールがない。手に取ると小さめのコットンパールが揺れていて正直、可愛いと思った。春を過ぎ青い風が香るこの季節には少し時期外れの素材。いつからここにあったのだろうか。そこでずっと私を笑っていたのだろうか。

『今から帰るけど、居るよね? コンビニ寄るけど買ってきたほうがいいものある?』

 タイミング良く彼からの連絡。それまでは自分の内側にいるような存在だったはずなのに、途端にとても遠い場所にいる人のように感じられた。女の勘とか、鋭さってたまに自分を傷付ける。それらが何を意味しているのか分からないほど私は鈍くはないのに、それでも心のどこかではまだ嘘であってほしいと思う自分もいるのだ。2年半という歳月は、そういう長さだ。

『ごめん! 用事思い出したから帰らなくちゃいけなくなった! 仕事おつかれ。また連絡するね。おやすみ!』

 無い用事を作って私は彼の部屋を後にした。マンションを出ると、来たときは茜色に染まっていた空が薄い紺色へと姿を変えていた。コットンパールのピアスはあの部屋には置いたまま。先週、公園で見たあの女性だろうか。横顔しか見えなかったけれど、緑の黒髪が綺麗で風に揺れるフリルのスカートがよく似合っていた。窓ガラスに映る自分の姿を真っ直ぐに見つめられない。

『そっか。なら気をつけて帰れよ!またな〜』

 そう返事をする彼はきっと何も分かっていないのだろう。バカな人、と思う。そんな人を捨てきれない私は多分もっとバカなのかもしれない。

★   ☆   ★


 コンビニで買った缶ビールは少しだけ温くなっていた。公園の広場にある噴水は夕方を過ぎる頃からライトアップがされていて、時折カップルや夜の犬の散歩をしている人が集まっていたりする。今日はいつもより人が多い。私は少し離れたところにあるベンチに座って缶ビールを開けた。タイトルは忘れたけれど、いつだったか恋愛ドラマで失恋をしたOLの主人公が今の私のように公園で缶ビールを飲んでいたシーンがあったのを思い出した。ドラマとは違って今の私には一緒に飲んでくれる親友が隣にはいないけれど。

(⋯⋯所詮私は主人公になんかなれませんよー)

 別にドラマの真似事をしたいわけではない。だけど、少しくらいそういう俗っぽいことを演じてみないとやってられなかったのだ。だから人目なんて気にしない。若い社会人の女が花の金曜日の夜に一人で公園で缶ビールを飲んでいる状況を端から見たらどうなんだろう、なんて考えたら終わりだ。
 こうなったら自棄だと、私は缶ビールを一本飲み干す。間を開けずに袋に入ってる缶チューハイを取り出そうとしたけれど、結露で濡れたチューハイの缶に手が滑り、それはコロコロと地面へ転がっていった。あ、と立ち上がるのが少し億劫で転がる缶を座ったまま見つめる。だけどそれは遠くへ転がり続けることなく止まった。人の足に当たったのだ。

「あ⋯⋯すみません」

 さすがに立ち上がって謝る。そして、やっぱりやってくる羞恥心。花の金曜日に一人公園で酒を飲む私。いくら自分で考えないようにしていても、端から見ればその事実は変わらないわけで。拾ってくれた男性の顔も見れないまま、手渡されたお酒を受け取った。

「⋯⋯あれ。もしかしてこの前の方ですか?」
「⋯⋯え?」

 その言葉に顔を上げて驚いた。なんとそこにいたのは言葉通り、この前この公園で会った男の子だった。同じような格好をしていて、多分今日もランニング中だったのだろう。羞恥心にプラスして情けなさ。大人のくせにこんな姿、みっともない。

「そ、の節はどうもありがとうございました⋯⋯」
「いえ気にしないでください」

 男の子は若々しい笑みを見せると辺りをキョロキョロと見回し、次に眉を寄せた。その一連の動作を見つめていると、再度私の方を向いた男の子と目が合う。

「すいません。隣、良いですか?」
「えっ」
「休憩したいと思ってたんですけど、他のベンチ空いてないみたいで。無理なら断ってくれて大丈夫です」

 言われて周りのベンチを見てみる。確かに今日はカップルが多くて、座るとなったら一人で腰掛けている私の隣が最適だろう。申し出を断る理由もなくて、私は「大丈夫、です」と答えた。こめかみを流れている汗を視界に入れると、余計に断る理由は見つかる気がしなかった。すいません、と一言断りを入れた彼がベンチの端に腰を下ろす。
 缶チューハイを飲める状態ではないし帰ろうかなと思ったとき、ふと彼の視線が缶チューハイに向けられていることに気が付いた。

「お酒、飲まれるんですね」
「あー⋯⋯普段は飲まないけど今日は飲まないとやってられないなーって⋯⋯」

 年下の男の子と話す機会なんてないから、こういう時どんな事を話したら良いのか分からない。向こうからすると私はもうおばさんになるのかな。前髪を少し整えながら考える私の予想とは反対に、彼はそれ以外何も言うことはなかった。
 涼しい風が私たちの間を通り抜ける。ライトアップされた噴水。手を繋ぐ恋人たち。ふと彼の事を思い出して虚しくなった。

「⋯⋯学生さんですか?」
「はい。一応、高3です」

 ああ、思ったよりも年下なんだなあと思うことがもう、おばさんの始まりなのだろうか。

「なら、遅くならないうちに帰らないとね。まあまだ9時だけど」
「寮の門限が10時なんで、それまでには帰ります」
「寮なんだ?」
「あー、俺、白鳥沢学園の生徒で」

 言われて驚いた。私も白鳥沢出身だったから。急に妙な親近感がわいて、私も白鳥沢学園通ってたんだよと言おうとした時、ポケットに入れていた携帯が震えた。会話を中断して携帯を取り出した。届いたメッセージ。それは多分、私宛のメッセージではなかった。

『今日予定なくなったから家来ない? 会いたいな。泊まっていくなら朝送っていくし』

 二行の文章をただじっと見つめて何度も何度も見返す。見返す度に気持ちは重くなっていくのに、人っておかしな生き物で、嫌なことだとわかっているのに止めることが出来ないのだ。私と会う予定がなくなったから、誰かを誘ったんだろうか。私に好きと言った唇で私ではない誰かに会いたいと言い、私に触れる指先で私ではない誰かを触れるのだろうか。朝の掠れた声も、寝起きの眠たそうな瞳も、私ではない誰かが愛しそうに見つめるのだろうか。
 別に私はこの人と結婚しているわけではないから、とられてしまえばそれまでで。気持ちが移ろいでしまえばそれで終わりで。だけど重ねてきた2年半という時間が鎖のように巻き付いて優しい思い出ばかりが溢れてくるのだ。
 いろんな思い出と想像が駆け巡ってもうダメだった。多分、やっぱり、きっと。そういうことなんだろう。ほら、こういうのってだいたい的中しちゃうのが人生じゃない。

「⋯⋯えっ、あの、え?」

 目の奥が熱くて、鼻の奥がツーンとして、頬を伝わる涙に自分でも驚いた。人前で、しかも高校生の男の子の前で泣いてしまうなんて、困惑させてしまっているしダメだと分かっているのにどうしてか身体は言うことを聞いてくれなかった。案の定、男の子は突然泣き出した私に驚いて目を大きく見開いていた。

「あの、ごめん、急に。違うの、ごめんなさい、いま、泣き止むので」

 頬から落ちた涙が携帯の画面を濡らす。滲む画面。誤送信された彼の文章の一部分が滲んでいくのを視界に入れて、このまま全部溶けてしまえば良いのにと思った。

「⋯⋯あの、すいません、こんなのしかないんですけど、けど、無いよりは良いかなと思って。もし嫌じゃなければなんですけど、あっ俺は使ってません! 洗濯したままです。ポケットに入れてたんで大丈夫なはずです」

 そう言って男の子が差し出したのは有名なスポーツブランドのロゴが大きく入った白いリストバンドだった。心配してくれている真剣な眼差しとそれを見比べる。本当はハンカチを持っていないわけではなかったけれど、私はリストバンドに手を伸ばす以外は考えられなかった。弱っていると人は優しさに手を伸ばしたくなる生き物なのだ。きっと。

「⋯⋯ありがとう」

 リストバンドで涙を拭おうとしたのはさすがに初めてで、少し笑ってしまいそうになる。柔軟剤の香りがうっすらと香る。とても優しさ匂い。その優しさに今はただ何も考えずに甘えていたかった。

(17.06.08)