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「あったあった」

 その声であなたは深い眠りから目が覚めた。
 梅雨を終え、真夏の太陽が時には容赦なく人々を照らす中、そっと戸棚から取り出される。丁寧に、優しく、壊れてしまわないようにと包まれていた緩衝材から身を出したあなたは喜びに満ちた笑顔で迎えられるだろう。
 その後ぐるりと身体全体を見つめられ、傷がないか汚れがないかを念入りに確認され、問題がないことを認められたあなたは軒下に吊るされることとなる。
 約一年ぶりに、あなたがあなたであることを示す時が来たのだ。

「信介くん、見て」

 その声と同時にあなたは吹き込んだ夏風に揺られ、早速涼やかな音を奏でた。細く、しかしどこまでも遠く響いてゆきそうな音に、北信介は耳を澄ませる。

「綺麗な音やな」

 信介の言葉に、その妻である名前は頷きながら麦茶の入ったグラスを優しくちゃぶ台に置いた。グラスの中にある氷が踊る。
 二人の瞳があなたを見つめているのを感じながら、あなたは応えるように舌を外身へ優しく当てた。その音を届けることがあなたの仕事であり、あなたの義務、あなたの運命だ。
 ビードロの体に金魚の柄を持つあなたは今年もまた、夏を泳ぐ。

「買うて良かったわ」
「ほんとだね。暑いのは嫌だけど、この音を聞くと夏も良いなって思える」
「名前、冬はこたつに入りながら似たような台詞言っとったな。寒いのは嫌だけどこたつ入ると冬も良いなって思える、とかなんとか」
「……かもしれない」

 信介が名前を見つめる瞳は慈愛に満ちている。あなたはここへ来てから毎年、この時期になると変わらない音色を奏でているけれど、彼らの瞳もまた毎年変わることのないものだと知っていた。
 たとえ目に見えなくとも、この家の中に存在する確かな愛は衰えることも萎むことも薄くなることもない。あなたはそれを感じながら毎年この季節を迎えるのだ。誰かの生み出す愛の中に存在することへの心地良さはきっとあなたしか知らない。

「午後からは雑草取りするの?」
「せやな。取っても取っても生えよるからかなわんわ」
「私も手伝えたら良かったのに、ごめんね」
「ええよ。町内会の集まりも立派な仕事やろ」

 少し先に迫る収穫時期に向けて、それまでコンバインの整備をしていた信介の頬は微かに汚れを纏っていた。午後からもきっと、その汚れが消えることはないだろう。
 ちりん、ちりん、ちりん。あなたは自分の音色が応援の声になれば良いと願う。

「信介くん、ちょっと焼けたね」
「夏やしな」
「まだまだ暑くなるね」
「せやな」
「あ、スイカ! スイカ食べたいね」
「お、ええな」
「集まりの帰り買ってこようかな」

 雲一つない快晴。燦燦とした太陽。悩ましげなアブラゼミの声。それらと共にあなたは夏を彩る。

「ねえ、お昼そうめんでいい?」
「ええよ」
「お中元で届いたそうめん、まだまだたくさんあるんだよね。すだちあるから乗せるけどいいよね?」
「おん。手伝えることあるんやったら手伝うけど」
「ううん。せっかくの休憩なんだから信介くんは休んでてよ」

 あなたは信介と共に台所へ消えていく名前の背中を見送った。太陽は南中を過ぎ、居間に湿風が抜ける。
 そして自分の意志に反して、あなたはまた揺られるのだ。その都度あなたは夏の暑さを緩和する音を奏で、指先が温い水に触れたような細やかな涼しさを届ける。
 信介はあなたの声に耳を傾けた。
 ちりん、ちりん、ちりん。広く青い空をあなたの金魚が泳ぐ。
 夏を生きる音はどこまでも遠く響いてゆくようだった。


夏企画「盛夏の懺悔」へ提出

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