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 「まったく⋯⋯どんな伝え方したん?」
「えっツムツムが事故に巻き込まれたって。来てほしいって」
「いや紛らわしすぎるわ!」
「いやでもやっぱり名前に連絡はしたほうがいいかなって思って」

 侑に責められる木兎さんは仔犬のような瞳で私のほうを見た。結果的には侑が無事だったから良かったのだ。冷静さなんて全然保てなかったけれど、無事だったのだから。

「大丈夫です。会社にも伝えますね。ムスビィのほうには、木兎さんか侑からお願いします」
「すまんな。いや、まてお前いま仕事中やない?」
「うん。上の人に相談したら行ってきなさいって。無事なのわかったから戻るよ」
「悪かったな」
「ううん。いいの、全然。忙しいとかじゃなかったし。でも⋯⋯今日は夜、やめようか。落ち着いて話せる日のほうがやっぱりいいと思うし」
「⋯⋯おん。また連絡するわ」
「うん。それじゃあ、木兎さんも。今日はお疲れ様でした」
「ごめん⋯⋯紛らわしくて」
「大丈夫です。木兎さんらしいです」
「甘やかすな甘やかすな」

 2人にお辞儀をしてから病院を後にする。
 窓越しに見えていた街路樹が目線の先にある。風に揺れて、葉が落ちた。寒いと思った。これから本格的な冬がやってくる。葉っぱも全部落ちて、もしかしたら雪が積もる日も来るかもしれない。急いでマフラーをクローゼットから引っ張り出してコートをクリーニングに出しに行く日もきっとそう遠くはないだろう。
 そんなことを考えると、こぼれないようにと意識していたものがこぼれてきそうになった。ゆっくりと歩く。1駅分歩こう。気持ちを落ち着かせて、そして地下鉄に乗って戻ろう。会社にも電話をして大丈夫だったことと今から戻ることを告げる。
 ゆっくり、ゆっくり歩く。
 気がつくと、涙が頬を伝っていた。とうとう、こぼれてきてしまった。変わらずに流れ続ける時間。当たり前のようにも思える平和。ずっと緊張に苛まれていた心。大丈夫だと言った侑の顔。死んでしまった彼氏のこと。色んな想いが混ざりあって、涙になった。

(こんな道端で泣くとか、ヤバイって分かってるけど⋯⋯止まらない)

 出来るだけ下を向いてすれ違う人に泣いていることを悟られないようにする。涙が溢れれば溢れるほど、ああ良かったと思う。良かった。無事で。何もなくて。元気で。ただ生きてくれていることがどうしようもなく嬉しかった。
 化粧が落ちちゃうな。でももう夕方だし。侑と会う約束も延びたし。もうなんか、なんでもいいや。そんな風に思いながら変わらずにゆっくり歩く私の肩がいきなり後ろから掴まれる。されたことを理解するよりも前に、後ろを振り向かされて目の前にいた侑に、私はまた驚いた。

「名前、待て。⋯⋯って、は、いや、泣いてるやんけ」
「あ⋯⋯侑」
「どうしたん、途中転んだんか? 痛いんか? ビビるやん、大丈夫なん?」

 だけど侑はそれよりももっと驚いた顔を見せて、先程の私と同じように矢継ぎ早に質問を繰り返した。少し乱暴に涙を拭う。

「そんなん乱暴にしたらあかんやろ」
「や、大丈夫。違う、大丈夫だから」

 侑は私の手首を優しく掴んで拭う行為を止めさせた。屈むようにして私の顔を覗く。真正面から侑の顔を見てまた込み上げる。生きてる。ちゃんと生きてくれてる。
 また涙が溢れてくるのに拭えない。て言うかなに。転ぶわけないじゃん。それに転んだとしても泣かないし。なんなの、その発想。

「⋯⋯すまん」
「⋯⋯何に対する謝罪なの」
「多分、人一倍不安やったやろうなって。あの伝え方やし、名前なら特に。やから、すまんかった」

 苦しそうな表情で言われる。ああまた。また、重なる。涙で揺れる視界で侑の顔はぼやける。ダメだ。こんなところで侑とこんなことをしていてはいけない。分かっているのに口が動く。

「⋯⋯生きた心地がしなかった」
「すまん」
「木兎さんから連絡もらって、びっくりして、侑までいなくなったらどうしようかと思った」
「死なへん言うたやん」
「でも人って簡単に死んじゃうんだよ。⋯⋯突然、いきなり、急に」
「⋯⋯おん」
「だからすごく恐くて。もしものことがあったらって」
「ごめんな」
「よかった⋯⋯本当によかった⋯⋯」

 ゆっくりと手首を握る侑の手が離れた次の瞬間、私の身体は侑に抱き締められていた。少し痛いくらいの抱擁に驚いてあれだけ流れていた涙がピタリと止まる。

「ほんまにごめん」

 か細く、絞り出された声が辛うじて私の耳に届いた。
 目立っているな、きっと。侑は背が高いし、人通りは少ない時間帯とは言え病院の近くの道だし。だけど、間を通り抜ける冷たい風はもうない。
 私は何も言わずゆっくりと腕を回した。距離がなくなって、血流の巡る感覚が伝わってくる。
 流れる。時間が。
 巡る。季節が。
 私はその中にいるのだ。

(20.08.15)