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 試合が始まって、侑のサーブ権が回ってくる。ズームをしながらカメラは侑を追って、ボールは静寂の中放たれる。その頭の中に今、私という存在は1ミリもないだろう。コートの中にいる侑は幸せそうだ。多分、バレーボールという競技が苦しくても辛くても、侑にとっては幸せに繋がるんだと思う。
 侑は私がいなくても幸せになれるんじゃないかなと思う。大多数の人が思い描くような幸せを求めなくても、侑の1番の幸せはきっとバレーボールをし続けること。バレーボール世界の中での勝者であること。そこに私は必要ないし、いたとして何か出来ることもない。広報はバレーボールという競技をたくさんの人に知ってもらう為の仕事。選手へ直接的に何か役立つことをするわけではない。
 だから、きっと私は些細なことでしか侑を幸せにしてあげられない。むしろ幸せにしてもらうことの方が多いのかもしれない。それでも、これから誰かと歩んでいくならその相手はもう、侑以外には考えられない。
 そう思っていることちゃんと伝えよう。
 

* * *
  

 1週間後、厳選された私の荷物はトラックに乗せられて次の居住地へと向かって行った。最後の確認の為に、空っぽの部屋を1人見渡す。退去の確認は後日、管理会社が行うので私がここを出ればそれがここでの最後になる。運び出された部屋は広くて、あったものがなかったものになる感覚が少し寂しいと思った。長くここに住んでいたのが嘘のようにさえ思える。
 大きく息を吸い込んだ。
 思い出は、思い出でしかない。繰り返されることはないけれど、それでもたくさんの思い出に支えられた。その積み重ねで今になった。

「⋯⋯ありがとうございました」

 誰にも届かない言葉。空っぽの部屋を後にして鍵を集合ポストの中に入れる。いつもより少しだけ高いヒールの靴を履いて、私は駅へと向かった。


* * *
  
 
 引っ越しから3日が経ってようやく侑と会う約束を取り付ける事ができた。とても急だったけれど、夜に前に2人で行った会員制のバーで会おうということになったのだ。
 侑と待ち合わせするためにバー近くの薬局で少し時間を潰して、買わなくちゃいけないと思っていたアイシャドウを買いながら侑から連絡がくるのを待った。

『着いたで』
『わかった。今薬局にいるからすぐにお店の方向かうね』

 逸る足でお店へ行くと、その前に立つ侑の姿をすぐに捉えた。1ヶ月ぶりの侑はいつもと変わらず、それでも前回会ったときのことを思い出すと心に少しだけ気まずい感情も生まれけれど、笑顔で。いつも通り。変な緊張はしないように。

「侑」
「おー。久しぶりやな」
「うん。久しぶり。おつかれさま」
「行こか」

 いつの日かと同じように侑のエスコートで中へ入る。さすがに2回目は私も落ち着いてスマートにギャルソンの案内に従った。再びカウンターの席に通されて、真正面から侑の顔を見なくて良いことに私は内心安堵する。

「何飲む?」
「じゃあ、ギムレットを」

 それを頼むことは決めていた。侑からこのバーで会おうと言われた時から。

「せやったら俺はキャロルで」

 私たちの注文を聞いたバーテンダーがカクテルを作り始める。何から、どんな風に切り出せば良いだろう。それとも少しお酒を飲んでからの方が良いのかな。そんなことを考えている間にギムレットが私の目の前に置かれる。

「あー⋯⋯えっと、そういえば報告がおそくなったんだけど、引っ越ししました」
「は、まじか」
「先日、無事に」
「はよ言えや!」
「落ち着いてからにしようと思ってて」
「知ったったほうが落ち着くわ。⋯⋯そんで、どうなん」
「え?」
「新居とか、あとは、今まで住んどったとことか」

 あの感情を言葉にすることは、私には難しかった。

「⋯⋯ねえ、ギムレットのカクテル言葉、知ってる?」
「なんやねん、急に。⋯⋯そんなん知らんわ」
「前にギムレットが出てくる小説の話したでしょ? 私もその小説がきっかけで知ったんだけどね」

 ギムレットのカクテル言葉を思い出す。あの人が教えてくれた声色と共に。

「遠い人を思う、長いお別れ、なんだって。⋯⋯寂しいけどさ、どう足掻いたって過去には戻れなくて、私は生きてて、侑の言った言葉は正論で。私にとってもギムレットを飲むことは早すぎると思うけど、でも仕方ないんだよね」

 侑の前にキャロルが置かれる。

「たくさん考えて、たくさん泣いて、ちゃんと自分と向き合って、それで決めたことだから。寂しいなとか、悲しいなとかもちろん思うよ。でもこれは私が幸せになるための選択だから。私も覚悟決めたの。ちゃんと幸せになろうって。幸せを怖がることはやめようって」

 その選択を選べたのは侑がいたからだよと言ったらどんな顔をするだろうか。
 キャロルを見つめながら、今度は侑が口を開いた。
 夜は優しく時を刻んでいる。

「なあ、これのカクテル言葉知っとる?」
「これってキャロルの? ううん、知らない。何?」

 赤みがかった透明のそれはグラス越しに向こう側を歪ませて映し出す。
 それを1口飲んだ侑はちょっと間を開けて、イタズラな顔つきで私を見た。

「秘密」
「えっ聞いておいて言わないの!?」
「帰ったら調べてみいや」

 空気を変えるように楽しそうに侑は言う。侑は本当に自分の口から教えてくれる気はないようで、答えを知るには帰ったら自分で調べる他ないようだ。

「せやったら幸せになる覚悟出来たっちゅうことでえあの?」

 バーの暗い灯りが、いつかのようにまた侑の顔に影を落とす。私を見つめるその瞳を絶対にそらさないと決めて頷いた。
 私はもう自分の過去を否定することをやめる。あの人と付き合ったことも、あの人が死んだことも、私がこの仕事をして、侑と出会ったことも、全部まるごと大切な私の人生で、今この瞬間も含めてそれは未来へと続いている。悲しくても辛くても、無駄ではない。無駄にはしない。

(20.08.16)