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 出国ゲートを通る。
 いつのまにか出国スタンプを押す必要もなくなって、私のパスポートはまだ綺麗なままだ。
 忘れ物ないよね。今更引き返すことは出来ないけれどそんなことを考える。大丈夫、この気持ちも含めて忘れ物はない。着替えも充電器も歯ブラシもちゃんと全部スーツケースに詰め込んだ。徹への思いだって何一つ置いてきていない。

 大丈夫、大丈夫⋯⋯。

 大学生活最後の夏休み。私はアルゼンチンにいる幼なじみ、及川徹に会いに行く。バイトしてお金を貯めて、卒論と国試があるのにもかかわらず夏休みの2週間を使って日本から遠いその地へ行こうとしている。
 日本から北米を経由してブエノスアイレスへ行った後、更に飛行機を乗り換えサンフアン空港を目指すという行程は長すぎて考えることを放棄したくなるけれど、それでも私にはその場所を目指す理由がある。

『出国ゲート通ったから。またアメリカ着いたら連絡するね』

 東京とサンフアンの時差は12時間。この時間、もしかしたら読まれないかもと思いながらも徹に報告の連絡をする。
 迷子になってしまいそうなくらい広い空港で搭乗券に書かれたゲートに向かうため、案内板に従って歩く。国際線だからと余裕を持って来たけれど、免税店に寄る気分にもなれなかった。
 国際線には乗ったことはあるけれど、1人で2回も乗り継ぎをするような長距離移動なんて初めてだからさすがに不安になる。結局、徹からの返事はこないまま刻一刻と時間は近づいてきて、離陸時間の40分前になり登場手続き開始のアナウンスが聞こえてきたから私は不安な気持ちのままアナウンスに従って機内へと向かうしかなかった。

 無事にたどり着けますように⋯⋯。

 徹がいなかったら、こんな機会絶対になかった。アルゼンチンに1人で行こうだなんて発想もしなかったし、時差を考えて連絡を送ることだってきっとなかった。この不安と緊張もそうだ。

『ごめん! シャワー浴びてた! 気をつけて来るんだよ。アメリカ着いたら教えて。男でも女でも子供でもお年寄りでも声かけられても絶対についていかないこと。いいね? アルゼンチンで待ってるから』

 席について機内モードにしようと鞄からスマホを取り出すとそう返信がきていた。徹は私がそっちに行くことを本当はどう思っているんだろうか。1年前に遊びに行くと告げた時は心底驚いていたけど、きっと私がどんな気持ちでその選択をしたのかなんて徹はわかっていない。

『うん。あと帰りにアメリカ経由するときはじめと会う約束したから。はじめも今ちょうどいるんだって! じゃあ機内モードにするからまた数時間後!』

 そう送った後、はじめにも今から離陸すると書いたメッセージを送る。
 私の人生は概ね、徹とはじめに影響されてきた。2人がいたから選んできたものや好きになったものは数えきれない。2人のいない人生は考えられなかった。だから時々、2人のいない日常を普通に生活している自分が不思議に思える。
 なんだ、私は2人がいなくてもちゃんと生きていけるんだな、と。

『気を付けて行けよ』

 はじめからもすぐに連絡がきてようやく機内モードのボタンを押した。
 リクエストした窓側の席は飛行機の羽に邪魔されることなく外を見渡せる。幸いなことに隣に座る人もいなくてまさに快適な旅の空間だった。
 乗客が全員揃うとエンジンの音が強く響いて機体が動き出した。いよいよこの瞬間が来たのだ。
 滑走路へ向かう飛行機の外では整備士の人が手を振ってくれている。飛び立つんだという実感がわいてきて、緊張と不安がまた高まる。
 離陸直前、機内が少し暗くなる。飛行機は一気に加速し機体が上昇すると窓から見える建物はどんどん小さくなっていった。

 同じ景色を見ることができたらいいのに。

 交わることのない私の細やかな願い。
 その瞳に映る景色はどんなものだろうかと思う瞬間はたくさんある。
 コートの向こう側。高い高い天井。目の前に迫るボール。息をするのも忘れるんじゃないかと思える空間。その景色が広がる世界は、徹にとって心地のよいものだろうか。それとも歯痒いものだろうか。その場所に立ち続けることは辛くないだろうか。挑み続ける徹に私がしてあげられることは一体なんだったんだろうか。
 どうかその人生が清く、美しく、そして優しいものでありますようにと私はずっと願い続けている。

 ロサンゼルスまで10時間。

 機体が安定してシートベルト着用サインが消える。最初の乗り継ぎであるロサンゼルスまでの飛行時間約10時間は、この旅ではまだ可愛いものだ。私はシートベルトをしたまま、窓の外、眼下に広がる雲を見つめた。嘘みたいに明るい空だ。キャビンアテンダントの人が配るおしぼりを受け取って、一息つく。ふっと肩の力がおりた。それに合わせるようにゆっくりと瞼を閉じる。
 私の旅が始まるのだ。終わらせるための旅。次へ進むための旅。そんな旅。終わる頃にはこの恋も終わりを告げる。死ぬまで忘れない私だけの恋。

 私はひとりで長い恋をしていた。

(20.08.08)


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