「男の恋は名前をつけて保存、女の恋は上書き保存と言いますが、これを脳科学的に解説すると、脳の構成上、男性の方が⋯⋯」

 脳科学の授業の先生は淡々と喋ることで有名で、時々男子学生が真似しているのをラウンジで聞いたりする。必修科目のこの授業、私は眠気と戦いながら受けることが多かったけれど先生のその言葉に私は耳を傾けた。
 私は案外、女の恋のほうが名前をつけて保存だったりすると思うんだけど。大学4年生にもなってまだ必修科目があるのは医療系の宿命だなと思いながら私は上書き保存できない恋を思い出した。
 影山飛雄。私はあの人と一緒に過ごせた僅かな時間を今でも鮮明に思い出せる。高校1年生の、1年にも満たない時間はあの時の私にとって恋の全てだった。
 好きな人に好きと言ってもらえること。
 少し汗ばんだ手が重なること。
 心臓の音が聞こえてしまわないか心配になるキス。
 廊下ですれ違った時のくすぐったい気持ち。
 それら全部が私とって初めてのことで、これから先どんな恋をしてももう、あの時のような感情を覚えることはないだろう。
 例えば友達と恋愛話をする時。彼氏が欲しいと思う時。カッコいいと思う人とすれ違う時。私は時々、影山を思い出す。心の奥にしまいこんだ思い出がそっと顔を覗かせるように、私の何気ない日常に現れる。
 あの恋は私にとってそんな恋だった。




 
 22歳の誕生日を目前に控えた金曜日の夜、私は人で溢れた都内の繁華街を走っていた。
 久しぶりに皆で集まらないかという連絡が来たのは1ヶ月ほど前の事だった。クラスの垣根を越えて、東京まで来られる人は誰でも参加OKと言う幹事の言葉に、私は悩んだけれど学生時代から仲が良い友達も行くと言うので参加することにしたのだ。
 集まりの日は実習日で、実習後の実習日誌を書くのに思いの外時間がかかってしまい、遅刻ギリギリの時間になってしまった。ショーウィンドウに映る私の髪は乱れていて、立ち止まり髪の毛を手で直す。そもそも人数も多いし私1人が遅刻したところで対して問題はないのではないかと思うと急に走ることが嫌になる。

(諦めよう。遅くなるって連絡しよう)

 地面を蹴る度に鳴ってしまうヒールの音はすぐ喧騒にかき消されるけれど、友達に連絡をして今度はゆっくりと街を歩くと気持ちが全然違う。
 集まりが開催されるお店は繁華街にあるビルの8階にあって、スマホを見ながらたどり着りつくと私はエレベーターのボタンを押した。すぐにやってきたエレベーターに乗り閉まるボタンを押そうと指を伸ばした時、駆け込むように1人、男性が入ってきて私は目を見開いた。

「何階で⋯⋯」

 何故なら、影山飛雄その人が私の目の前にいたのだから。

「ああ⋯⋯名字か」

 体格が良くなって、髪型も変わって、大人びた顔つきだけど、あの頃と同じ声や瞳。高校卒業から4年の月日を経て再会したと言うのに、影山は至って普通の様子だった。
 青い春を踊るような心で恋をしていたあの日々を、とても脆く眩しいあの日々を、私は一瞬で思い出す。

「お前も参加するんだな」
「⋯⋯うん、まあ」

 ゆっくりと上昇するエレベーターと訪れる沈黙。狭い中で気まずい空気を感じているのは私だけなんだろうか。
 8階にあるお店の入口に立つと、威勢のある店員さんが挨拶をする。幹事の名前を告げ大広間に通してもらうと、すでに同窓会と言う名を借りた飲み会が始まっており、ほとんどの人は私と影山の到着に気がつかないままだった。

「名前! 影山くんもおつかれ!」

 近くにいた友達が私たちに気が付いて声をかける。
 座りなよと場所を空けてもらい私はその場所に腰を下ろした。影山はと言うと、友達の一言で気が付いた他の同級生たちが「おっ有名人!」「プロ!」なんて言う声をかけながら熱烈な歓迎を受けていた。

「ごめん、遅くなっちゃった」
「なんかあった?」
「今日、実習日だったんだよね」
「おつかれ。明日は休みだし今日は飲もう!」
「うん。飲もう飲もう」

 店員さんがすぐに生ビールを持ってきてくれて乾杯する。
 少しだけ離れた席に座る影山は同級生達に色々質問攻めにあっているようだった。

「私たちの代じゃ影山くんが一番有名人だもんねえ」
「日本代表にも選ばれるプロのスポーツ選手だしね」
「2人一緒に来たけどまさかより戻した? あたし何も聞いてないぞ」
「違う違う。下でたまたま会ったの。卒業してから初めて会ったよ」
「そっか。まあ、影山くん彼女いるらしいしね」
「え?」
「ネットニュースで見たけど確か新人アナウンサーのなんとかって人と」

 ああ。あれか。と私はそのネットニュースの記事を思い出した。『バレーボール選手影山飛雄、新人女子アナと熱愛発覚か!?』と言うタイトルのその記事は2人がどんな服装で何処でご飯を食べてただとか、出会いはここじゃないかとか、そんなものだった。
 信憑性は分からないけれど、若くして日本代表に選ばれたことや顔が整っていてイケメンと言う女性ファンの言葉から、影山は時々メディアにも出ていて、そういう記事が世に出ることにも納得がいく。

「嘘か本当かは分からないけどあのアナウンサー可愛いもんね」

 友達は多分、私が今でも時々影山を思い出すことを知らない。

「名前はどう?」
「どうってなにが?」
「彼氏だよ! 出来た? なんだっけ⋯⋯前の彼氏の名前忘れちゃった」
「いいよ、思い出さなくて。もう別れて1年経つし」
「もうそんなに経つのかあ。早いねえ」
「お婆ちゃんみたいなこと言わないでよ」
「あはは」

 今の私が今の影山と付き合ったらどうなるのかなと思う。
 あの頃よりはもっと上手く振る舞えるんじゃないかな。そんなことを今さら考えたってどうしようもないけれど。好きだったという事実が過去にあるだけで、今はもうお互い何も思ってないんだから。
 でも私はあの頃よりメイクも上手になったし、髪型も変えたし、ヒールのある靴だって履くようになった。そんな風に変わった私を、影山はどんな風に思っただろう。その瞳に映る私はどんなものだっただろう。
 騒がしい飲み会の席でどうしようもない疑問を抱いていた。

(20.09.12)