高校2年生になってすぐ、桜の蕾がようやく開花しそうな穏やかな暖かい春の日のことだ。
 授業が終わって、部活に向かう影山を呼び止める。誰もいない廊下の片隅で、窓から射し込んだ西日を背にした影山が少し眩しくて私は目を薄めた。
 短く呼吸を吸って、影山の顔も見られないまま私は言った。

 「⋯⋯ごめん、別れたい」

 言いながら、つい先日影山の家にお邪魔したときのことを思い出した。あの日あの時に時間が止まってしまえば私は幸せなままだったんだろうか。

「⋯⋯は?」
「だから、そのままの意味」
「いきなりで何言ってんのか分かんねえ」

 影山がそう言うのは当然だ。私はなんの前触れも予兆も感じさせずそう言ったのだから。部活に行く前の嬉々としている影山を呼び止めて、人気のない場所に移動してまで言った言葉がこれだ。なんの思いやりもない、自分勝手な行為だということは私が1番よく分かっていた。
 それでも、そんな最低な行為をしてしまうくらい私には無理だったのだ。
 私はバレーをしている影山が大好きで、多分それと同じくらいバレーをしている影山が嫌いだった。
 眩しくて、凄くて、何もない私とは全然違う。少しでも躓いたら私はすぐにでも置いていかれるのではと思っていた。手の届かないところまで影山は簡単に行ってしまうんじゃないかって。
 それは憧憬と嫉妬が入り交じる、不思議な感覚だった。
 東京に行ける選抜メンバーに選ばれた時や、春高に行って試合をしている時。知らない人が影山に声をかけることがふえるようになってきて、私は嫌でも気付いてしまったのだ。
 影山は凄い人で、多分これからもっと有名になって、広い広い世界を軸にしていくんだろうなって。たった16年間しか生きてきていない私でも、それはちゃんと理解できた。
 だから無理だった。けれど私は自分のその感情をどう伝えれば良いか分からなくて、ただ別れると言う選択をする他なかった。

「本気か?」

 不機嫌そうに影山は言う。渋るような態度をみせるのが意外だと思いながら私は頷いた。

「⋯⋯ごめんなさい」

 私は身も心も子供だった。私の言葉で影山がどれだけ傷付いたかなんて考える余裕もなくて、相手の思いを聞こうともしなかった。

「⋯⋯わかった」

 私の曲げない意思を感じたのか、影山は私の申し出を受け入れた。私はもう一度影山に謝って逃げるようにその場を去ろうとする。身体の真ん中の奥の方から得たいの知れない何かが込み上げて、息が上手く出来ない。私がこんな衝動を抱いて良いわけないのに。堪える私に、影山の声が後ろから届いた。

「おい。俺はそれでも⋯⋯」




 
 眠りから覚めたということに気が付くのに少しだけ時間がかかった。ああそうか。今のは夢だったのかとまだ朧気な頭で先ほどまで見ていた夢を思い出す。あんな昔のことを夢見てしまうなんて、久しぶりに影山にあったからだ。昨日の影山の顔を思い出して私はパッと瞼を開けた。昨日のことを思い出しても仕方がないと起き上がろうとして、隣に誰かが居ることに気が付いた。
 穏やかな顔つきで、薄く口を開けて、センター分けの髪の毛がおでこに流れている。

「いや⋯⋯嘘でしょ⋯⋯」

 影山飛雄が私の隣で眠っていた。
 周りを見渡して自分の部屋ではないことを理解したあと、慌てて自分の格好を確認した。状況が状況なだけに不安だったけれど、服は着ていた。私のではないが。
 アウトなのか、セーフなのか。一体、昨日の夜に何があったのか。影山の顔を凝視しながら重たい頭で考え始めた時、横で眠っている影山が小さく声をもらして瞼をゆっくりと上げた。

「⋯⋯起きてたのか」
「⋯⋯うん。いま、起きました⋯⋯」

 影山は掠れた声で言った後、大きくあくびをした。私とは反対に、この状況になんの疑問も抱かない様子でベッドから起き上がると冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出し、私に手渡す。

「身体、大丈夫か?」
「⋯⋯うん?」

 身体って? 大丈夫って? 血の気が引く感覚を覚えながら、必死に昨日の夜のことを思い出そうとしたけれど何一つ思い浮かばなかった。

「お前⋯⋯覚えてないのか、昨日のこと」

 チープなドラマを体験するような状況に笑いたくても笑えない。

「覚えて⋯⋯ない⋯⋯です」

 蚊の鳴くような声で言えば、影山は短くため息を吐いた。それが追い討ちをかけるように私の心を抉る。
 私だってお店でお酒を飲んだことくらいは覚えている。友達に進められていつもより多めにアルコールの高いお酒を飲んでしまってこれ以上はダメだなって思っていた。ただ、その場のノリもあるし気を付けながら飲んでいたつもりなのにお店を出た記憶が全くない。
 真相を聞くのは怖いけれど聞かないわけにもいかないと覚悟を決め、影山にこの瞬間に至るまでの経緯を訊ねようと口を開く。

「朝飯どうすんだよ」
「え? いや、食欲ない⋯⋯」
「そうか。ならこれ着替えろ。多分汚れてない」

 私が聞くよりも先に影山が朝御飯の有無を訊ねる。こんな状況でこんな心境で何かを口に入れられるわけないと言うのに。影山は相変わらず平然とした態度のままそう言うと、ベッドの横に綺麗に畳まれてある昨日の私の服を手渡した。思うところはあるけれど、一旦それを受け取り洗面所を借りて着替える。

「⋯⋯あのさ、その、昨日のことなんだけどさ⋯⋯」

 戻って開口一番に言う。

「なんだよ」
「さっきも言ったんだけど、どうしても思い出せなくて⋯⋯昨日私たちの間に何があったのかなって」
「⋯⋯知りたいのか?」

 影山は意味ありげな間を開けてからそう聞いてきた。そんな風に言われると知るのが怖くなる。

「⋯⋯ごめんなさい。心の準備が出来るまで待ってください」

 これでも私、人に恥じない生き方をしてきたつもりだ。一晩の過ちなんてそんなの起こりでもしたら私は親にどんな顔をしたら良いんだと絶望に暮れる。
 ふと、目線の先にコーヒーメーカーがあるのが目に入った。

「コーヒー飲むの?」
「コーヒー? ああ、あれか。貰った。たまに使う」

 私はコーヒーを飲む影山を知らない。一人暮しをする影山を知らない。そうだ。私、昨日お酒を飲む影山を見て思ったんだ。私の知らない大人になった影山だなって。私が知っている影山は高校生の制服を着た影山で、私は今の影山をなにも知らない。

「私、帰る。ごめん、長居した」
「駅まで送る」
「え、いいよ」
「いや、送る」
「じゃあ、そこまで言うなら⋯⋯」

 私たちはもう大人だ。お酒で記憶がなくても、元カレと一夜を過ごしても、自分で責任をとるのだ。
 それでも私は思ってしまった。大人になった私は、今の影山の瞳にどう映っていたのだろうと。

(20.09.13)