新婚生活


 目覚ましの音で目が覚めて、飛雄が隣にいたことは数える程度しかない。私の体温だけが残るベッドは飛雄がどれくらい前にランニングに行ったのかを物語っていた。
 大きなあくびをしてから起き上がって、コーヒーメーカーをセットする。先週買ったばかりのコーヒー豆を挽けば途端に良い香りが部屋を満たした。なんか今日は良い1日になりそうな気がする。
 時計を確認して、きっとそろそろ飛雄は帰ってくるからと多めにコーヒーを用意し始める。イタリア人は朝からエスプレッソを飲むと言うけれど、イタリアに来て数ヶ月経った今でも私はあの凝縮された苦味を飲めないままだ。

(あ、そっか。今日は飛雄オフか)

 テレビから流れてくるイタリア語。言っていることの半分もまだ理解出来ていないけれど、イタリアの生活は意外とどうにかなっている。朝のニュースは天気予報に切り替わって、今日1日のローマの天気をキャスターの人が話しているのを聞きながら、私は飛雄から今日はオフだから一緒にいられると言われていたことを思い出した。
 季節は春。そろそろ新しい服を買いにいきたいし、久しぶりに2人でずっと家にいるのも悪くない気がする。観たいと思ってた動画を一緒に観るのも良いし、気になっていたカフェに入ってみるのもありだし。
 コーヒーが機械の中でポタポタと落ちてゆくのを眺めながら考えていると、玄関のドアが開いて飛雄が帰ってくる。私が玄関に駆け寄るよりも早く、飛雄はリビングまでやってきた。

「おかえりー。コーヒーいれてるよ。飲む?」
「シャワーあがったら飲む」
「今日オフだよね?」
「ああ」
「予定はある?」
「名前と過ごす」
「じゃなくて。どっか行くつもりだったとか、したいことあったとか」
「名前がしたいことに付き合うつもりだったけど予定あんのか?」
「ないない。ちゃんと一緒に過ごせるかの確認」

 飛雄はシャワーに行ったからとりあえず自分のマグカップにだけコーヒーを注ぐ。うーん、迷う。せっかく1日ゆっくり過ごせるんだからあれもしたいしこれもしたい。
 バニラのフレーバーが香って、口の中にコーヒーの苦味が広がる。飛雄はシャワーから出てくるのが早いから、きっとこのコーヒーがなくなるまでには戻ってくる。いつも髪を適当にしか拭かないし、なんなら床にちょっと水が垂れるし。私はきっとまた口うるさく「髪乾かしなよ」って言うんだけど、飛雄もまた私の言葉を適当に流すだろう。

「名前」
「早かったね。⋯⋯また髪が乾いてない」
「シャンプー最後だった」
「後でリフィル入れとく」

 予想通り素早く戻ってきた飛雄は私の指摘を流すどころか完全に無視をした。キッチンに立つ私の隣に並んで、自分のマグカップに残りのコーヒーを入れる。

「なんだこれ⋯⋯匂いだけが甘い」
「今回はフレーバーコーヒーを買ってみたんだけど嫌い?」
「匂いと味が一致しなくてビビる」
「コーヒーにビビるとは」

 相変わらずの語彙力に私は笑う。嫌いじゃないってことでいいのかな。実はキャラメルのフレーバーのやつも買っちゃってるんだよね。

「飛雄休みなの嬉しいなあ」
「そうか?」
「そうだよー。私バレーしてる飛雄も好きだけど一緒にいてくれる飛雄も好きなんだよねえ。出掛けるのもいいし家でくっつくのもいいし、飛雄はどっちがいい?」

 空になったマグカップをシンク台に置いて飛雄を見上げる。まだしっとりとした髪の毛が頬に張り付いているし、着ているTシャツが高校の時にも着ていた「単細胞」のTシャツだったから、なんか可愛いくて私はつい微笑ましい気持ちになる。私にとっての幸せって、こんな感じ。
 だからやっぱり今日は絶対に良い1日になる! と確信したとき、飛雄の顔が近づいて触れるだけのキスをされた。

「えっなんで?」
「わかんねえ。したくなった」

 すぐに離れていったけれど、感覚だけはじんわりと残ったままだ。バニラの香りに混ざる苦い味。

「とりあえず俺は今日カレーが食いたい」
「カレー⋯⋯カレーかぁ⋯⋯あ! そう言えば前に日系のスーパーでパワーカレーあったから買っておいたんだった!」

 そう言えば飛雄は子供みたいに顔を輝かせた。

「つくるぞ、カレー」
「そうだね。つくろうか、カレー」

 カフェに行くもの良いし買い物するのも良い。もちろん家でくっつくのも良いし、動画を観るのも。つまりは飛雄が隣にいればなんだって良いのだ。それが私の幸せで癒しで結婚した意義の1つ。
 だから、イタリア語がわからなくてもエスプレッソが飲めなくても、私は飛雄のいるこの国の、飛雄のそばで生きていく。これからもずっと。ずっとずっとずっと。

(20.10.31)