喧嘩日


 飛雄に合わせてイタリアと日本を行き来することにももうずいぶんと慣れた。昔はイタリアなんて世界の果てのようにすら思えていたけれど、今の私にはさほど遠い場所にも思えない。飛行機に乗ってしまえば、人は案外どこにだって行けると教えてくれたのは紛れもなく飛雄だ。
 飛雄が日本代表に選ばれて帰国する必要があるときは一緒に日本に戻るけれど、生活の基盤はここイタリアにある。

「うーん……」

 そのイタリアという国が私に問題をもたらしたのは最近のことだった。
 体重計に乗って私は眉を寄せた。やばい。太った。そう、体重が増えたのである。チーズのたっぷり乗ったピザ、濃厚なトマトソースが絡まるパスタ、素朴な甘さが口いっぱいに広がるジェラート。美味しい料理が目白押しのここでは、太らないほうが無理だと思う。

 そんな悩みを抱えたまま過ごしていたある日のことだった。イタリア北部にあるミラノで行われる試合の為、数日泊りがけで家を留守にする飛雄がいざ、出発しようとした朝。

「じゃあ行ってくる」
「はーい」
「なんかあったら連絡しろよ」
「わかった。飛雄も気を付けて。試合頑張ってね」

 玄関先でいくつかの言葉を交わし、どちらからともなく抱きしめあう。数センチ下がった玄関の段差が私と飛雄の身長差を埋めてくれて丁度良い。緩い力。温かな体温。数日の留守は寂しいけれど、これまでの遠距離恋愛を考えたら大したことでもない。
 よし、飛雄が戻ってくる日は美味しいご飯を作って待っていよう。そう思ったのも束の間、耳元で呟くように飛雄が「柔らけぇ……」と言ったのが聞こえた。

「え、待って。今なんて?」
「は?」
「だから、いま、なんて言ったの?」
「……柔らかい?」

 慌てて距離をとると、飛雄は怪訝そうに眉をひそめた。

「それ最近私が体重増えたって悩んでるの知ってて言ってる!?」
「なんの話だよ」
「柔らかいの話!」
「そのままの意味だろ」
「そ、そのまま……。信じられない!」
「なんでそんな怒ってんだよ」

 私の態度に飛雄の顔にも怒気のようなものが孕んだ気がする。だけどそんなことを気に留めず、私は飛雄の顔を睨んだ。

「デリカシーなさすぎ! だいたい飛雄は……」






 それから5日。飛雄がミラノから戻ってくる日、私はリビングで飛雄からの連絡を待っていた。この5日間飛雄からの連絡が一切なかったことを考えると、理不尽な私の怒りに飛雄は今もまだ怒っているのかもしれない。
 さすがにこれで愛想つかされることはないだろうけれど、5日前にやらかしてしまった自分の態度を思い出すと後悔の念が沸々と込み上げてくる。
 太ったのは自己管理の問題なのに、あんな風に怒るのはやっぱり良くなかったかな。いや、でもそうだったとしても飛雄ももう少し他の言い方してくれれば良いし、素直にごめんって言ってくれればあんなに言い合うことだってなかったのに……。
 戻らない過去に悩む私のスマホが震えた瞬間、条件反射のようにそれを手にした。

『今ローマ着いた。途中買い物してから帰る』

 この文面からでは飛雄の機嫌はわからないけれど、それでも連絡があったことに安堵した。
 私からごめんって言うのも悔しいけど、でも言わないと元通りにはならないかな。こんな風にずっと一緒にいると、今更改まってごめんって言うのが恥ずかしくなってしまうから困る。
 夕日が差し込む部屋。飛雄がいると狭いとすら思えるこの部屋も、1人だと無駄に広く感じる。

(……謝ろう)

 多分、その夕日の眩しさが私をそう決意させた。
 そして1時間後、飛雄は帰ってきた。私の決意も知らぬまま、その手には小さな花束を抱えられている。

「え、なにそれ」
「花」
「いや、見たらわかるけど」
「やる」
「なんで!?」

 大きな荷物とその体躯には似つかわしくない花束に戸惑うしかない。もしかして、これは飛雄なりの謝罪の気持ちなんだろうか。

「買ってきた」
「買ってきたんだ……」
「……わ」
「ん?」
「わる……悪かった」

 いや、眉間にめちゃくちゃ皺寄ってますけど。

「……どうせあれでしょ、チームメイトに飛雄のほうから謝ったほうがいいとか、それなら花のひとつやふたつ買えよとかアドバイスされたんでしょ」
「なんでわかったんだ……!」
「わかるよ。もうね、飛雄の考えてることなんて単純だから手に取るようにわかる」

 飛雄は決まりの悪そうな顔をした。
 私は短く息を吐く。心に穏やかな気持ちが訪れる。飛雄が寄り添ってくれたんだから、私も気持ちを隠すことなく伝えよう。そして同じように謝るのだ。

「太ったんだよ、私。美味しいもの食べ過ぎて。だから飛雄に柔らかいって言われたの嫌だった。でも自己責任だし、心狭かった。ここぞとばかりにキレてごめん」
「……悪口を言ったつもりはなかった。俺はむしろ良い意味で言ったつもりだった」
「どこが!?」
「柔らかいのは気持ちがいいだろ?」
「えー……」
「それに名前が柔らかいのは今に始まったことじゃない」
「は?」
「名前はなんつーか、出会ったときから柔らかい。けど俺はそれが好きだ」
「……そーですか」

 曇りなき眼に脱力する。それを褒め言葉として純粋に受け取ることは出来ない。ただもう怒る気にもなれなかった。

「それに言うほど別に太ってねえぞ。普通に俺とは違って、柔らかいって意味だ」

 見つめ、そう言った飛雄は確かめるように私を抱きしめる。

「それに俺は名前だけにしか思わない」
「なにが?」
「抱き締めて柔らかいことに心地良さを感じるのは名前だけだ」
「……そうじゃなかったら困るよ。あとダイエットはするし」

 カーテンを閉め切った部屋からは太陽も月も見えない。お世辞にも可愛いとは言えない返答に、だけど飛雄は私を抱き締める力を緩めることはなかった。
 柔らかい暖色の電球が部屋の色を作り上げ、そして私と飛雄を照らしてここを2人の部屋にしてくれる。

「まあ、でも」

 飛雄の抱擁から離れてキッチンを見つめる。飛雄の帰宅を待っていた私の手料理達。食べられることを今か今かと心待ちにしているようだ。
 
「今日は久しぶりに一緒にご飯食べよう。腕によりをかけて作ったから」
「ああ」

 飛雄はまろく口角を上げる。部屋の中なのに指先で手を繋いで、誘導するように一緒にキッチンへ向かった。
 2人分の足音。食器がぶつかり合う音。電子レンジの機械音に、私達の声。
 それは紛れもない幸福の音色。

(21.07.15 / 80万打企画)