「え」

 思わず声が出てもうた。
 数メートル先におる名前は俺の視線に気づく様子もなく、誰ともわからん男と仲睦まじく歩いているようやった。日中の商店街は人の往来も多く、時々2人を隠すように視界が遮られる。
 
(え、ちょお待って。腕組んでへん? 腰に手回してへん!?)

 今日は仕事やし格好もスーツやし、デートのようには見えへんけど、やからって仕事中にくっつく理由も思いつかへんし。瞬きを繰り返して視線を一心にそこへ捧ぐ。見間違えやろと思うようにしてもそれはやっぱり恋人である名前で、結局俺はその場から動けんまま。走る衝撃。受け入れられない現実。否定したいと願う心。人ごみに紛れてとうとう見えんくなった名前と謎の男。

「アカン……!」

 これはアカン。浮気とまでは言わずともあの状況はどういうことなんか聞かへんことにはなんも始まらん。メッセージ……いや、電話か? なんにせよ連絡せなと慌ててスマホを取り出すと、音が鳴り響いた。表示された名前は宮侑。今お前に構っとる暇ないねん、と少し乱暴にスマホを耳に押し当てる。

「なんやねん!」
『なんやねんてなんやねん! いつまで店番任せるんや。はよ帰ってこんと俺がおにぎり握るで』
「ほんまタイミング悪い男やな。今大事なとこやねん!」
『はぁ?』

 あまりの衝撃に忘れとったけど、ツムに店番任しとるんやった。こいつに任せたらおにぎり宮の評判ガタ落ちやん。それはそれであかん。手に持ったビニール袋の中にある牛肉も生ものやし、はよ持って帰らな。

「……今から戻るわ」

 溜息と共に先ほどの光景を思い出す。やっぱり見間違いってことはあらへんかな。ないわな。やけど名前に限ってそんなことするとはどうしても思えへんし。足取りは重く、気分は滅入る。やって名前、俺のこと好きやし、心が揺れる隙間なんてどこにもないと思うんやけど。






「なんちゅう顔で戻って来てんねん」
「あ?」
「途中事故でもあったんかって顔しとる」

 準備中の看板が掛けられたおにぎり宮に戻り、台所に立つ。包丁もまな板も皿も野菜も米も全て買い出しに行く前と同じ場所にあるのに、俺の心だけが全然違うもんになっとる。こんな気持ちやったら絶対料理に集中できひん。美味いもん作れる自信ないんやけど。

「今日は……休店せんとあかんかもしれへん」
「え、なんなん。ほんまに何があったん」

 さすがのツムも驚いてこちらを見つめる。「実はな……」と手に持った包丁を置き事の発端を話し始めると、ツムの顔色が次第に険しくなる。せやろ。わかる。俺も道端でそんな顔しとった気がするわ。やって信じられへんやん? あの名前がやで? 俺のことむっちゃ好きな名前がやで? ほんまに浮気やったらもうこの世の女誰も信じられへんわ。

「だから言うたやろ、もっと優しくせんと嫌われるでって」
「十分優しくしとるわ」
「顔はまあ問題ないとして、こうなったらサムの性格を嫌になったしか考えへんやろ」
「なんでや。もっとフォローはないんか。見間違いやろくらい言えへんのかい」

 完全に相談する相手が間違っとった。話にならん。やっぱり直接名前に聞くしかないな、ともう一度スマホを手に取ったとき「準備中」と看板が掛けられているはずのおにぎり宮の扉が開いた。

「すみません。今まだ準備中でし……て」
「ごめんなさい。行くって連絡してないのに準備時間に来ちゃって……」

 ハッと目を見開く。申し訳なさげに顔を出した名前が控えめな声でそう言った。

「え、なん、なんでおるん?」
「近くで仕事あったんですけど、直帰でいいよって言われたので寄っていこうかなと。本当にすぐ近くだったんで連絡しなかったんですけど、やっぱり連絡したほうが良かったですか……?」

 幽霊を見たような顔をする俺に、名前は心配そうに確認する。いや、ええねん。別に連絡があってもなくてもいつ来てくれてもええねんけど。やけどそれは普段の話で、あの光景を見てしまった今、どんな顔で名前と対面すればええんかまだ、答えは出ないままやった。

「名前ちゃん、近くで仕事やったん?」
「侑さん! そうです。同僚と一緒にですけど」
「男?」
「そうですけど……なにかありました?」
「サムがな、見たらしいねん。名前ちゃんが知らん男と腕組んで歩いとったところ」

 ぎょっとしてツムを見る。おいおい、なにを言ってくれとんねん。タイミングとか順序とか雰囲気があるやろ! 俺は慌ててツムの言葉を訂正する。

「ちゃうねん。さっき買い出しで出とったんやけど、そん時名前見つけてそんで隣に知らん奴もおって……あー……腕組んどるように見えたんやけど、見間違いやと思うし、ツムの言ったことは気にせんでええから、本当」

 あかん。かっこ悪い。しゃきっとせい、しゃきっと。そう思うのに出てくる言葉は願う自分と正反対や。ハッ……これか? このかっこ悪さに幻滅して名前は他の男と……? 己のひらめきに感動しながら名前を見つめる。困ったように笑う名前の真意はわからんかった。

「それは、見間違いじゃないんですけど。理由があって……」
「理由?」

 聞き返したのは侑やった。

「実は商店街で私、ド派手に転んでしまって……。多分治さんが見たのは私が転んだ後なんですけど、足首のねん挫と、あと、膝からの大量出血があって……」

 苦笑いをしたまま名前は膝を見せる。でっかい包帯が巻かれとるそこは確かにけが人の証やった。「足首は右なんですけど」と、右足を跛行しながら歩く様子にすっと血の気が引いていく。俺は! なんちゅー疑惑を持っとったんや!

「……殴ってくれ」
「え?」
「一瞬でも浮気を疑った俺をグーで力強く殴ってくれ!」
「う、浮!? っていやいや無理ですよ! 私も同僚の腕借りたの事実なんで! 配慮が足りませんでした!」

 ツムがおるのも忘れて名前に歩み寄る。眉尻が下がって申し訳なさそうな表情。「すみません」と名前はもう一度謝ったけど、名前が謝る理由はないねん。

「足、痛い? 大丈夫なん? 病院は?」
「豪快に転んだんで痛いんですけど病院行くほどでは。でもやっぱりこんなの小学生以来なんで結構恥ずかしいですね。いい大人がする怪我ではないなって。なので、笑ってくれると助かります」
「笑えるわけないやん」

 そっと頬に手を這わす。ゆるく撫であげ、滑らかな肌触りを堪能した。そうや。名前が浮気なんてするわけないやん。

「おい、俺おんねんからちゅーとかすんのほんまやめてな。身内のラブシーンほどエグいもんはないで」
「ちょっと黙ってくれ、ツム」

 ツムのため息が聞こえるけど、そんなんは無視して名前の名前を呼んだ。

「怪我、治るまで無理したらあかんで」
「はい」
「なんか困ったことあったらいつでも駆けつけるから言ってや」
「わかりました」
「好きや」
「えっ」
「むっちゃ好き」
「治さん?」

 もう何を見ても疑わへん。全身全霊で名前を信じる。そう誓って名前を柔らかく抱きしめた。

「なあ、俺おること忘れてへん?」

 ツムの言葉に腕の中にいる名前が距離を取る。おい、ツム。今ええとこやったんやぞ。「す、すみません……」と謝る名前の耳たぶはリンゴのように赤い。かわええ。このまま食べてしまいたいくらいに。まあ、言うたら名前は恥ずかしがって怒るやろうから言わんけど。

「これで無事に店開けられるわ」
「え?」

 穏やかな気持ちで再びカウンターの中に入る。包丁。まな板。皿。野菜。米。準備中の看板が外されるまであと少し。ツムのため息。名前の不思議そうな表情。俺はほんの少し口角を上げた。
 さて、急いで準備せんとあかんな。

(21.07.10 / 80万打企画)

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