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 お気に入りのチェスターコートを捨てた。
 シックな色味を帯びたチェック柄のチェスターコートは、専門学生時代に奮発して買ったものだ。ショーウィンドウに立っているマネキンが着ていたそれは、これから訪れる冬を心待ちにさせてくれる代物だった。デパートの門をくぐれば、入金されたばかりのバイト代はその日のうちにコートへ変化する。
 それなりに似合っていたと思う。その冬私は毎日のようにそれを着ていたし、似合う靴や鞄はどれだろうと鏡を前に夜な夜なコーディネートを繰り返した。クリスマスマーケットには毎年、絶対にこれを着て出掛けていたし、冬が終わってもそれは大切にクローゼットの中に保管されていた。次の冬がやってくるのが楽しみで、私にとってそれはお姫様のドレスのようなものだった。
 そんなお気に入りのコートを私は捨てた。社会人になって3年目の春のことだった。買って5年目になるそれは少しくたびれている箇所も見受けられたけれど、大切に保存をしていたお陰で現役を保っていた。
 春一番が吹いて、グレーのロングスカートがふわりと踊った日の事、私はふと思ったのだ。あ、このコートを手放してもいいかもしれないと。
 用事を済ませて家に帰ると私は着ていたコートを透明のビニール袋に入れた。不思議なことに躊躇いはなかった。30リットル入るごみ袋にコートだけが入っていて奇妙な感覚だったけど、翌日、それは他の可燃ゴミと共に回収車へと吸い込まれていった。
 さようなら、私のコート。回収の人が無慈悲に車に放り込む様子を部屋の窓から眺めながら、私は虚しさと清々しさを感じる。クローゼットに生まれた空間。コートの収納場所。ぽっかりと空いたその空間を見つめて私は思ったのだ。
 ここを出ていこう、と。


*   *   *


 ホールケーキを入れる箱みたいな正方形の部屋の中は、お手入れをしているとはいえ少し年季が入っている。それでも私にとってここは宝石箱のようなもので、ショーウィンドウに並ぶお菓子は見ているだけで幸せになれた。
 出勤の日はいつもより早く起きて掃除をしてお菓子を作って並べる。後から1人アルバイトの子も来るけれど、開店前のこの時間はいつも私1人だ。

「ナマエ、おはよう! 今日余ってるのある?」
「ソーニャおはよ。あるよ、昨日のシャルロートカ」
「シャルロートカかあ。練習中なんだっけ?」
「そうなの。何回やってもうまくいかないんだよね、これ」
「ナマエのお菓子美味しいけどこれだけ上手くないのって本当に面白いよね。シャルロートカなんて子供でも作れるよ」

 ロシアはエカチェリンブルク。私の暮らす場所の名前。
 ロシアでは比較的ヨーロッパ寄りに位置し、人口約150万人が住む大都市だ。国内で4番目に人口が多いとは言え日本人は少なくて、私もこの土地で知り合えた日本人は1人だけ。

「それが逆に難しいんだよ」

 ソーニャ――ソフィアは、私がエカチェリンブルクで過ごすきっかけとなった人の孫である。大学に通う彼女は、時々こうやってお店にやってきて残っているお菓子を受け取って学校へ行く。
 シャルロートカはロシアのリンゴケーキで、彼女が言うように子供でも作れるような簡単なレシピなんだけれど、どういうわけか私はこれを作るのが苦手だった。食べられないわけじゃないけど、特別美味しいわけでもない。

「シャルロートカ作るのに向いてないとか?」
「⋯⋯ソーニャ毒舌」
「他のお菓子はすっごく美味しいのになあ。シャルロートカも嫌いってわけじゃないけど、やっぱりバーブシカのシャルロートカが1番だし」
「バーブシカと比べたら永遠に私は下手なままだよ⋯⋯」

 積み重ねるように丁寧に日々を生きることは、実は案外難しい。それでも私はエカチェリンブルクでもう1年も日々を重ねてきた。あのコートを捨てて1年。お姫様になれる魔法のコートを捨てて、私はただのお菓子職人として生きている。

「ナマエのシャルロートカ好きなのモリスケだけだもんね」
 
 その言葉に、私は唯一の日本人の知り合いである夜久衛輔くんのことを思い出す。
 ソーニャの兄が所属するバレーボールのチームに衛輔くんがいて、そこで私たちは知り合った。同じ日本人だからと言うことで紹介を受けて半年。
 時々お店にお菓子を買いにきては日々のちょっとしたことを話したり、たまに出掛けたり、ロシア語を一緒に勉強したり。日本から遠く離れた地、ロシアのエカチェリンブルクにてそんな、ただただ取り留めもないようなことする一緒にする仲。

「いつかソーニャにもバーブシカにも満点貰えるように頑張るよ」

 そんな人たちに囲まれて、私は今日もここで生きている。

(20.10.25)

※バーブシカ⋯⋯ロシア語でおばあちゃんの意