37


 ビーフストロガノフを食べた後、少しだけ近くのモールで買い物をして私たちはトラムに乗った。
 私の住むアパルトマンへ向かうトラム。いつもはそろそろお別れだと思うタイミングでも今日ばかりは違う。同じ場所に帰るのだ。

(もうすぐ着く)

 窓際に座り21時を過ぎて人手が減った通りを見つめていると、窓に映った衛輔くんと目が合う。
 条件反射のように衛輔くんのほうに顔を向けた。

「もうすぐ着くな」

 ちょっと嬉しそうな顔。同じこと考えていたって言ったら、衛輔くん笑うかな。
 改めて意識するようなことじゃないのかもしれないけれど、そんな顔で言われると私も早く家に着かないかなと考えてしまう。
 トラムはいつもと変わらずに揺られ、いつもと同じ速度で進むってわかっているのに。

「途中どこにも寄らなくて大丈夫? 飲み物とかはあるけど」
「平気。名前は?」
「私も。お腹もいっぱいだし」

 お互い何かしら意識しているのをじんわり感じながら、だけど態度や言葉に出すこともなく、委ねるように時の流れに身を任すしかできなかった。


*   *   *


「お。前回より片付いてる」
「そりゃあ今回は事前にわかってたから」
「あれはあれで素が出てて良かったけど」

 部屋に入って明かりをつけ、カーテンを閉めて衛輔くんをソファに座るよう促した。

「衛輔くん、飲み物何がいい? 炭酸水と普通の水と、あと普通のフルーツジュースあるけど」
「んー……じゃあ水もらう」
「はーい」

 冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを選んで衛輔くんに手渡す。
 隣に座るか、それとも離れた場所に座るか一瞬迷ったけれど、衛輔くんの見上げる視線に誘導されるように私は隣に腰を下ろした。たいして喉が渇いているわけでもないのに水をぐっと飲みこんだのは、漂う絶妙な空気に耐えられなかったから。
 時計の針が頂を指しても、夜が世界を丸呑みしても、朝日がゆっくり顔を見せても、今日、衛輔くんはずっと私のそばにいる。今まで意識したことのない形で衛輔くんを意識してしまう。

「名前」

 短く名前だけを呼んで、衛輔くんは私にキスをした。すぐに離れた唇は、それでも、言葉以上のものを残したように思える。

「早くふたりきりになりたかった」
「そう、だったの?」
「そりゃあ今日、名前に手出すつもりだし。色々考えんじゃん」
「い、言い方!」
「俺はいつもキス止まりで物足りねえなってずっと思ってた。名前は?」

 至近距離。艶の混ざる声色。もうマスクはない。瞳に捕らえられて、私は何かを観念するように呼吸を繰り返した。

「……うん」
「最後までするけど、良いよな?」
「良いよ」

 衛輔くんの欲だけではない。これは私と衛輔くん2人の欲望だ。互いが互いを欲しいと言うとても自然で、本能的な願い。

「で、でも、待って」
「なに?」

 全てが飲み込まれそうになる手前、繰り返されるキスを私は途中で制した。悩ましげに眉間に皺を寄せる衛輔くんを見つめる。

「シャワーは浴びたい、かな」
「あ。だよな。悪い……」

 片手で顔を覆って項垂れる衛輔くんの耳が少し赤い。沸々と、どこからともなく湧き上がる感情は紛れもない愛おしさで、とてもとても衛輔くんが好きだと実感する。
 
「ごめんね、タイミング掴めなくて……」
「いや、俺ががっつきすぎた。……なんなら一緒に入る?」
「えっ入らない!」
「即答かよ!」
「だってそれは……まだ恥ずかしいかなって」
「まだ、ってことはいつかは良いってこと?」
「う、うーん……いつかは?」
「まじか」

 予想外だったのか、衛輔くんは驚いて私から一瞬だけ距離を取った。その隙をつくように立ち上がって、衛輔くんに言う。

「とにかく私はシャワー行ってくるね。衛輔くんは好きに過ごしててね」

 言い残して逃げるように部屋を出たけれど、身体の内側に残る熱が引く様子はない。

 いつも以上に念入りに身体を洗って、出た後に一瞬薄化粧をするか迷ったけれどすでにスッピンは見られているし、結局お気に入りのパジャマを纏うだけで落ち着いた。
 入れ替わるように衛輔くんがシャワーへ向かって部屋に一人取り残される。経験が豊富なわけじゃないけれど、何も知らない無垢な子供でもない。だけど衛輔くんとそうなるのは初めてだからそれなりに緊張する。
 時計の秒針の音や、シャワー室から聞こえてくる水温が浮かび上がるように耳に届く。自分の部屋なのに自分の部屋じゃないみたい。

「ドライヤー勝手に借りた」

 セットされていない髪の毛。部屋着姿。戻ってきた衛輔くんの姿にぐっと心が掴まれる。ベッドに座る私の横に腰を下ろした衛輔くんの横顔を、私はもう見ることが出来ない。
 ベッドマットの柔らかさを意識したのは初めてここで眠ったとき以来だろう。腰かけた二人分の重さを受けてベッドは沈む。隣に座る衛輔くんに気持ちだけを傾けながら、いつもはどんな風に触れていたんだっけ、と無邪気な自分を必死に思い出そうとした。

「……なんつーか、こう、今からヤるぞ! って雰囲気恥ずかしいよな」

 私だってこの前の衛輔くんの、次は泊まりませんか打診がなかったらここまで意識はしていなかったと思う。

「衛輔く……」
「名前」

 先ほどよりもずっとずっと甘い衛輔くんの声で名前を呼ばれる。私と同じ香りが衛輔くんから漂って、きゅっと胸が締め付けられた。
 夜が来る。
 今日を終える為の夜ではない。明日へ向かう為の夜が。

(21.08.24)


※次は裏描写になります。高校生含む18歳未満の方は閲覧をお控えください。また、そういった描写が苦手な方はご注意ください。38話を飛ばしてそのまま39話を読んでも繋がる内容となっています。