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 イセチ川から歩いて1ブロック程の距離にあるヴィソツキービジネスセンターは高級ホテルとしても名を馳せている。52階に展望台、51階にレストランを備えていて、隣接するショッピングモールやその立地条件から、平日でもここ一帯はたくさんの人で溢れているのをよくトラムの窓から目にしていた。
 大人2人分のチケットを購入し展望台へ向かうエレベーターに乗り込めば、まるで自分が観光客になったような気分になる。隣に並ぶ衛輔くんはエレベーターの階数表示をじっと見つめていて私の視線には気づいていないようだった。

「お。思ったよりあっという間だな」

 高さ188メートル。エレベーターを降りて数歩進むと、すぐに外にある展望デッキへ出ることが出来る。夜風を受けて足を踏み入れた展望デッキは360度から市内を見渡せる。
 少しだけ欠けた月が頭上に浮かび、眼下にはモダンとノスタルジーを混雑させた美しいエカチェリンブルクの街並みが広がっていた。控えめに、しかし荘重に光は浮かび上がっているその光景を見るのはこれで2回目。なのに私は初めてこの光景を見た時と同じように恍惚とする。

「すげぇな。俺たちこんな街に住んでんのか」

 衛輔くんの声が耳元で聞こえる。近い気がする、と驚いて顔を向ければ真横にある衛輔くんの横顔。わざとなのか、それとも単に同じ目線で見ようとしてくれたのか判断がつかないけれど、予想外の距離感に私は瞬きを繰り返した。
 風の音にかき消されて聞こえないはずの心音ですら届いてしまうのではと心配になる。

「も、衛輔くん」
「ん?」
「やけに距離が近い、ね?」
「くっついてないと寒いだろ。それに夜景だし」

 ちらりと周りにいる人々に視線を向ける。
 確かに展望台にいる過半数は恋人同士と思えるペアだ。バックハグしてるカップルもいるし、なんなら普通にキスしている人もいる。街中でもたまに目撃する光景だしさすがに慣れたけれど、だからと言って自分が同じことを出来るかどうかと言われれば別の話なわけで。
 その気になればすぐキスが出来てしまう距離に、私はもう夜景どころではない。

「あっちが名前の家のほうだよな?」
「だと、思う」
「じゃあ俺の寮はあっちか。こうやって見ると近く見えるんだけどなー」

 衛輔くんはとても落ち着ていた。嫌味なく自然に腰に手を回されて、その姿勢が不思議とぴったり合うような感じがする。そうだ、これは心地良い緊張だ。繰り返し紡ぐ日々の中の1日。重ねてきた日々の結果が私と衛輔くんをこういう距離感に導いた。
 例えば、明日の朝。より近づいた距離が私たちの関係性をどう変えていくのかはわからないけれど、それでも今日、こうして衛輔くんと一緒にいられて良かったなって思うことに違いないだろう。これまで積み重ねた日々は、そういう日々だったのだから。

「……名前、聞いてるか?」
「えっ……あ、ごめんね。聞いてなかった」
「もしかしてまだ体調悪い?」
「そんなことない! それはもう完全に治った! ただ」
「ただ?」
「ただ、あそこに浮かんでる月が沈んで、太陽が顔を出しても衛輔くんはこうして隣にいるんだなって思うと嬉しいなって感じただけ」

 ほんの少しの間を開けて、するりと衛輔くんの指先が私の頬を撫でる。冷たくなった肌に、同じように冷たい衛輔くんの指先。このまま本当にキスしてしまうんじゃないかと思える雰囲気を一気に築かれて、今度こそ私は強く目を閉じてしまいそうになった。

「メシ、食いに行こうぜ」
「え」

 言われた言葉に衛輔くんを見つめる。

「腹減ったし。身体も冷えてきただろ?」
「あ……うん。そうだね、行こっか」

 私の気のせいだったのかなと思ってしまうくらい衛輔くんはあっさりと身を引き、私の手を取りながら展望デッキを後にした。下りのエレベーターに乗り込み先ほどの衛輔くんの行動の意味を考える。単に私の気のせいだったのか、何か衛輔くんの中で心境の変化があったのか。

「何食いたい?」
「えっと……あ、ビーフストロガノフ食べたい!」
「おっけ。調べる」

 スマホで近くのお店を探してくれる衛輔くんの横顔を見つめる。私も調べないととスマホを手にしたけれど、それよりも早く衛輔くんがお店をピックアップしてくれた。

「お、ここどう? 近いし美味そう」

 体を傾けて衛輔くんのスマホをのぞき込む。衛輔くんの言うようにここから数分歩けばたどり着ける場所にあるお店。載っている料理の写真も美味しそうだし、口コミも良さそうだ。
 多分、私の意識しすぎなのだと普段通りの笑みを向けた。

「本当だ。いいね、ここにしよう」

 美しい夜景を生み出す光の中に私たちは紛れる。上から見ていた景色の一部になって街に溶け込む。キラキラと光るビルの明かりを見上げながら、私たちはヴィソツキービジネスセンターを後にした。

(21.08.23)