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 2月下旬、エカチェリンブルクからサンクトペテルブルクへ向かう機内。まだ冷たさを色濃くまとっているロシアの日々は相変わらずだけど、今日に至るまでの時間はあっという間に過ぎていった。
 離陸した飛行機は高度を上げ早くも雲を突き抜けようとしている。眼下に広がるロシアの大地が見えなくなって、隣に座る衛輔くんへと顔を向けた。

「衛輔くんと一緒に飛行機乗るの初めてだから変な感じ」
「確かにな」
「そもそも飛行機に乗ること自体も久しぶりなんだけどね」
「こっちに来たとき以来だっけ?」
「うん。衛輔くんは試合とか遠征あるし、飛行機もそんなに久しぶりじゃない?」
「まあな。でも遠征とか試合で飛行機乗る時は疲れてしんどかったりするけど、今は隣に名前がいるから心持ちは全然違うな」
「そういうもの?」
「そういうもん」

 約3時間の飛行は移動時間だけで言えば東京から大阪へ新幹線で向かうのと変わらない。だけど国土の広いロシアではたった3時間の移動でも2時間の時差が存在する。
 雲を抜けた飛行機の窓から見える一面の青。どこまでも果てなく、ともすればここではない世界へと通ずるような予感さえさせる。

「まだ試合あるのに旅行付き合ってくれて本当にありがとう」
「改まらなくていいって」

 ロシアのスーパーリーグはファイナルへ進出した場合5月上旬まで試合がある。こうして旅行が出来るのも、シーズン中にも関わらず衛輔くんが休みと試合の日程を工夫してくれたからだ。衛輔くんはそんな様子を微塵も出さないけれどきっと私の知らないところで色々と調整をしてくれた。体力的にも精神的にも負担がなかったとは思えない。

「だって忙しいのに無理言っちゃったなって」
「本当に無理だったらちゃんと言うし。それより俺は一緒に帰れないのが気がかりだけど」

 少し困ったような笑顔に、私は首を横に振った。

「一人で帰るくらいなんともないよ」

 今週末、サンクトペテロブルク市内にてチーグルエカチェリンブルクの試合が行われる。だから旅行が終わった後、衛輔くんはそのままチームに合流して私は一人で帰ることになっていた。
 衛輔くんはそのことをずっと気にしていたけれど、そのおかけでこうしてこの時期に遠出することが出来たのだ。これから一緒に過ごす時間を思えば一人で帰るなんて些細なもの。

「それにね、衛輔くんも今日まで色々大変だったと思うけど、すっごく楽しみにしてたから私本当に嬉しいんだ。昨日の夜全然眠れなかったもん。1泊2日は多分あっという間に過ぎちゃうと思うんだけど、一緒にたくさん楽しもうね」

 優しい瞳で見つめられる。

「名前が嬉しいなら俺も嬉しい」

 そして、柔らかい声色。
 サンクトペテルブルクも未だ凍てつくような寒さだろう。だけど季節は確かに春へと向かっていて新しい芽吹きを待っている。
 日本代表の招集がかかるのも春先。未来の事はわからないけれど、恐らく衛輔くんには招集が来ると思う。ロシアでのリーグが終わってすぐに日本へ向かうことになるだろうから、一緒にゆっくり過ごせる時間はもう僅かばかりしか残っていない。でも、だからこそ衛輔くんの優しさで叶えられたこの旅行を私は全力で楽しむつもりだ。

「そうだ! 衛輔くんが好きそうなお店……わっ」

 刹那、機体が大きく揺れる。しかしすぐに安定を取り戻すとアナウンスもないまま、何事もなかったかのように飛行は続いた。

「びっくりした……遊園地のアトラクションだとくるってわかってるから良いけど飛行機は突然だから心臓に悪いね……って衛輔くん笑ってない?」
「いや、急にすげぇ力で掴まれるからそっちに驚いて」

 無意識に衛輔くんの腕にしがみついていたらしい。言われて、慌てて手を話す。遠慮のない、しかし軽快で楽しそうな笑い方にこっちが恥ずかしくなってしまった。

「別に衛輔くんの腕折ったりしないし!」
「笑って悪かったって」

 ごめんごめんと言いながら衛輔くんは改まるように私の手を握った。肩に頭を預けられ、感じる心地よい重さ。

「どうせなら肩貸して」
「……私の肩は高いよ」
「いくら?」
「えぇ……うーん……そうだなぁ……アリョンカのチョコレートくらい?」
「安すぎだろ」

 耳元で小さく笑う声が聞こえる。
 飛行機は着陸地へ向かって順調に進んでいた。

(22.06.26)

※アリョンカ……ロシアで有名なチョコレートメーカー