宿泊客A

 都内某所に立地するホテルリガーレは設立からおよそ100年を誇る、国内でも有名な高級ホテルのひとつでもあった。
 大正2年、ドイツから建築手法を学んだ若手建築家がその知識を生かしバロック様式の手法を用いて設計が始まり、着工から完成に至るまで予算を大幅に超える工事となったが、当時の総支配人はホテルの行く末を見据え、数年間の赤字経営を繰り返していたと言う。
 昭和の大火災の後、焼失を免れた本館は幾度かの改修を経て、迎賓の為のロビーはクーポラの形をとるようになった。ホテルとしては珍しい様式に、外観もまた人目を引くそれは、ホテルリガーレの目玉の1つでもある。
 もちろんそれだけではない。歴代の総支配人が手にした調度品の数々と、古くから名を馳せる有名画家の作品が並ぶロビーは美術館に引けをとらぬ程であり、ホテルリガーレの格式の高さを示していた。
 ドアマンが正面玄関の扉を開ければ、非日常の世界が始まる。シワ一つない制服を着たコンセルジュの笑顔。ベルスタッフの角度が揃ったお辞儀。フロントの丁寧な言葉遣い。欠点一つ無いその空間は、誰もが恍惚する。
 それが、ホテルリガーレだ。

「チェックインお願いします」

 ロビーに足を踏み入れたのは、バレーボール男子アルゼンチン代表、及川徹だった。

「お名前を頂戴してもよろしいでしょうか?」
「及川徹です」

 身長180を超える及川がホテルに入った瞬間、そこにいた複数の客は及川に視線を向けた。サングラスで顔つきが隠れていたとはいえ、鍛えられた身体や漂う雰囲気から、一般人ではないのだろうと思うと悟った客は暫し及川に視線を向け続けている。
 そんな周囲の視線を気にすることなく及川はチェックインを済ませ、フロントの女性から部屋のカードを貰うと、ベルマンの「お部屋まで運びます」という申し出を断り、足早に部屋へと向かった。一刻も早く一人になりたかったのである。

(なんで返事ないわけ? て言うか何回もごめんって俺言ったじゃん!)

 701号室に到着するやいなや及川はキャリーケースを適当に置き、セミダブルのベッドに飛び込んだ。空港から、いや、アルゼンチンを出発してからずっと幼馴染兼彼女である名前に連絡をしていたが、一向に返事がくる様子がなかったのだ。

「まだ怒ってるとか勘弁して……」

 ただでさえ地球の裏側で簡単には会えないのに、会えるときは真っ先に顔を見たいと思っていたのに、返事がこないとなればどうすることもできない。本来であれば彼女の住むマンションに押しかけたいところだが、連絡が返ってこないことに思い当たる節があった及川はそれを行動に移すことはなかった。

(いや、万が一事件に巻き込まれてるとしたら?)

 不意に及川の中に不安が芽生える。かれこれもう2日は返信がない。万が一、事故や事件に巻き込まれているとしたら。シワになったシャツの事も気にせず及川はベッドから起き上がり部屋を出た。
 焦る気持ちを抑えたつもりであるがエレベーターの扉が開いた瞬間、出てきた女の肩がぶつかり及川は慌てて謝罪の言葉を紡いだ。

「うわっすみません」
「いえ……あ」
「なにか?」
「すみません、なんでもないです」
「不注意ですみませんでした」

 頭を下げてからエレベーターに乗り込む。
 電話をかけながらホテルを抜け出し、何度かコールが鳴っても名前が出る様子はなかった。ああ、もう。こんなことだったら最初から変な意地を張るんじゃなかったと深くため息を吐く。
 その時だった。名前から連絡がきたのは。

『ごめんね! 今仕事終わった! この時間ならもうホテルにいるよね?』
『ホテル! 事件に巻き込まれてるんじゃないんだよね!?』
『事件……?』
『何回連絡しても出ないから!』
『あ〜本当にごめん! 徹が日本に滞在できる時は連休とるつもりだったからこの数日働きっぱなしだっだんだよね』

 安堵と喜びと、そして怒りと、己の持ち合わせる全ての感情が混ざり合って、及川はもう一度深くため息を吐いた。だめだ、もう待てない。やっぱり早く会いたい。そう思うのに足はどこへ向かえばよいかわからない。こんな風にもどかしい気持ちをあと何回抱かなくてはいけないんだろう。
 とにかく早く声が聞きたいと、名前に電話をする。

『もしもし?』
「もしもし! この前はごめん! 今すぐ会いたい。どこに行ったら会える?」

 トントン、とゆるく優しいリズムで肩をたたかれた及川が振り向く。

「会いたくて私もきちゃった」

 その言葉はすこしだけ遅れて耳に当てたスマホからも及川の耳に届いた。

「ごめんね。心配かけたり、意地張ったり。ちょうどね、隣のビルで会議だったんだ。だからすぐに会えてよかった」
「……うん。心配した」
「仕事無理やり頑張ってイライラして八つ当たりみたいになったりして、反省してる」
「俺も。多分甘えてた。名前になら気をつかわなくてもいいって。ごめん」
「仲直り?」
「仲直り」
「良かった。あのさ、ホテルリガーレのカフェのショートケーキすっごく美味しいらしいから食べてみたかったんだけど、どうかな? 話したいこともたくさんあるし」
「いいよ」

 及川は心底安堵して、気の抜けたような柔い笑みを向けた。
 二人の足取りはホテルリガーレのエントランスへ向かう。ドアマンがドアを開け、ふたりを迎え入れた。調度品と絵画が並び、一流のおもてなしがあるここは、ホテルリガーレ。非日常を体験できる、格式高い歴史あるホテルである。