宿泊客B

 ぶつかった瞬間は分からなかったが、まじまじと焦る様子の顔を見て名前は気が付いた。男子バレーボール、アルゼンチン代表の及川徹であると。

「うわっすみません」
「いえ……あ」
「なにか?」
「すみません、なんでもないです」
「不注意ですみませんでした」

 及川がエレベーターに消えていくのを見届けて、脳裏に恋人である牛島若利の顔を思い浮かべた。日本から遥か遠く、ポーランドはワルシャワで暮らす牛島もまたバレーボール選手であった。中学生の頃からその存在は知られており10代で日本代表にも選ばれた逸材である。

(及川選手と同じ日にホテルに泊まってエレベーターでぶつかったって言ったら若利くんめちゃくちゃびっくりするだろうな……いや、しないか?)

 カードキーをかざして部屋に入ると名前は牛島に連絡をいれた。有名ベッドメーカーのマットを使用していると言われるベットに身を投じれば、その心地よさにもう2度と抜けることは出来ないのではないかと思いながらスマホを触る。

『若利くん。前泊のホテルに着いたんだけどね、さっき及川選手とぶつかったよ』

 明日、名前は羽田空港から牛島のいるポーランドへ向かって飛び立つ。早朝のフライトの為、チェックインの時間を考慮し都内にあるホテルリガーレで前泊をすることになっていた。

(素泊まりだけど高級ホテルにいると思うとテンションあがるなあ)

 ぼんやりと汚れ一つない天井を見つめる。本来はビジネスホテルに泊まる予定だったのだ。しかしせっかく宿泊するのならずっと憧れていたホテルリガーレに泊まってみたいという思いから名前は今回ひとりで宿泊することを決めた。
 結果的に牛島の元へ会いに行く前に気持ちを高める為には良い選択だったと名前は己の選択に満足し、スマホに保存したEチケットを確認する。

『及川とは、あの及川か?』

 ポーランドは今はまだお昼時だろうかと時差を計算しながら返信をした。

『そう! あの及川さん! びっくりしたよ。凄い偶然だよね』
『9月の世界選手権で会った以来だが、元気そうだったか』
『わかんない。なんか急いでたけど、多分元気なんじゃないかな?』
『そうか』

 及川徹は日本では無名の選手だ。名前も出身地が同じでなければ知らなかっただろう。さらに言えば学生時代に牛島からその話を聞き、何度か行ったバレーの試合で及川を見たことが無ければ、それでも気が付かないままだったかもしれない。数年前の記憶を辿り懐かしさを覚える。

『名前はどうだ』
『なにが?』
『及川とぶつかったのなら、転んでしまっただろう?』
『転んでないよ!』
『ならいい』

 牛島なりの優しさを受けて、名前の心に早く会いたいと、淡い願望が浮かぶ。

『もうすぐ会えるね』
『ああ』

 世界選手権の際に帰国していた牛島と名前が会うのは数ヶ月ぶりだった。たった数カ月とはいえ積もる話はたくさんある。
 きっといつものように短い言葉で頷きながら、それでも言葉を聞き逃すことなくたくさんの話を聞いてくれるのだろう。優しい牛島の表情を思い出しては、また恋を重ねる。

『ポーランドに行くのは1年ぶりだから楽しみだな』
『前回来たときに美味しいと言っていた店にまた一緒に行きたいと思ってる』
『あの美味しいお店!』
『他にも名前が好きそうな店を見つけた』
『嬉しい。ありがとう』
『なぜ礼を言う?』
『離れていても私の事を考えてくれてるから』
『意図的にそうしているわけじゃないが、気がついたら思い浮かんでいる事が多い』

 その物言いが牛島らしくて名前は笑ってしまった。

『若利くんのそういうところほんとすき』
『どういうところだ?』
『そういうところはそういうところだよ』

 窓から差し込む光が次第に色を変える。黄昏時の空は色が混ざりあったように複雑で、ビルの隙間に沈んでいこうとする太陽は明日の訪れを示唆している。この光ともう1度相まみえる時、名前は牛島の元へ向かう飛行機に搭乗するのだ。

『これからスパに行こうかな』

 そんなつもりはなかったが、そんな気持ちになったのは若利くんのせいだと名前はひっそりと思った。ラグジュアリーな空間に見を投げ出す覚悟をして、明日へのテンションをより高める。恋をすれば、綺麗になりたいと思う気持ちも必然的についてまわるのは仕方のないことだ。

『わかった』
『また明日、若利くん』
『ああ。また明日、楽しみにしている』

 705号室のドアを開ける。明日の夜、牛島と共に眠るベッドは有名ベッドメーカーの高級マットレスではない。4種類の枕から好きなものを選べることもないし、大の字になって寝られる余裕があるわけでもない。素敵な空間があっても、好きな人がいる空間にはどうしたって勝てない。それこそが幸せであると噛み締めながら、名前はスパのあるフロアへと向かうのだった。