支社から来た女

 名前がフロントに立ったのは久しぶりだった。それこそ入社した時の研修以来かもしれない。ホテルリガーレグループの大阪支社に勤務している名前が地元である東京に帰ったのも久しぶりのことで、方言が聞こえてこない空間はどこか不思議な感覚を覚える。懐かしささえ感じる業務内容に少しだけ緊張もしたけれど、それもあと少しで終わりだと名前は気合いを入れ直した。

(兵庫まで戻ったら真っ先に治さんのところへ行く!)

 そして握りたてのおにぎりを食べると決意をしながら、おにぎり宮の店主である宮治を思い出す。数週間前に偶然入った飲食店で出会ったその男は、名前の人生を変えたと言っても過言ではない。

「チェックインお願いします」
「お名前を頂戴してもよろしいでしょうか」
「及川徹です」

 人手不足の為ヘルプで来てほしいと言われたのは数日前の事だった。
 急遽出張の予定が入ったことをおにぎり宮でこぼせば「それでも頑張るんやから偉いで」と言って治は優しい微笑みを向ける。かれこれ4日も前の話になるのだと、気がつけば慌ただしく過ぎ去ったこの3日間を思う。

「こちらがお部屋のカードキーになります」

 予約リストを確認してチェックイン業務を行い、マニュアルを思い出しながら対応する名前は内心緊張もしていたが、及川にそれが通じることはない。

(この業務が終わったら出張も終わり。無事に帰れる! 報告書は残ってるけど……)

 滞りなくチェックインを終わらせ踵を返し足早に去っていく及川の背中を見届けると、マネージャーが声をかけ、出張の終わりを告げた。仕事からの解放である。

「名字さん。お疲れ様でした」
「お疲れ様です。3日間ありがとうございました。久しぶりに現場に立てて勉強にもなりました」

 空き部屋にも泊まれたし、まかないも食べられたし。それはきっと働いているものの特権だと名前は感謝を述べて頭を下げた。ああでもやっぱり、どんな有名なシェフが作った料理より治さんのご飯が1番心に優しさを届けてくれる、と遠く離れた会いたい人の顔を思い浮かべる。

『治さん、今日出張が終わって帰るんですけど、おにぎり宮は夜までやってますか?』

 退勤後、すぐに連絡をした。

『おつかれさん。来てくれるんやったら何時になっても店開けとくわ』
『行きます! けど待たないでください! 終わりなら終わりで!』
『お腹空いとる?』
『今はそんなにですけど、着く頃にはぺこぺこです』
『やったら余計にあけとかないけんな。言ったやろ? 仕事辛くても、辛くなくても美味しいもん出すから、お腹すいたらいつでも食べに来てやって』

 ホテルリガーレの華やかな正面玄関とは反対の、従業員出入り口。掃除が行き届いたそこは汚くはないが、どうしたって豪華さや煌めきは劣る。裏側とはそういうものだ。そういう人たちがホテルリガーレをここまで成長させた。
 従業員出入り口から外に出た名前の、非日常の魔法が解ける。スーツもパンプスもそのままに、向かう場所はおにぎり宮、ただそれだけだ。治の笑顔を思い出すと、言葉にならない歯痒い感情がわく。

『じゃあ、絶対に行きます。お腹ペコペコにして』

 駅に向かう途中、正面玄関から笑顔でホテルを後にする数人の客が名前の目に入った。楽しそうに。幸せそうに。自分にとってのおにぎり宮がそうであるように、誰かにとってのホテルリガーレがそうなのかもしれない。やりたい仕事と向いている仕事は別かもしれないけれど、こうやって誰かに間接的に幸せを届けられるのなら、やっぱりまだこの仕事を頑張りたいと名前は思う。

(あの人さっきの)

 交差点のすぐ近くで最後にチェックイン作業をした及川の姿が見えた。背の高さですぐにわかると、名前はつい視線を向ける。誰かと話しているようだったが都会の雑音にかき消されて会話までは聞こえない。
 2人が微笑みの表情でで再びホテルリガーレへ戻っていくのを見届けて、青になった信号機を渡った。

『治さん。東京のお土産買ったので、お店で一緒にゆっくり食べませんか? 出張中にあったこと、いろいろ話したいです』

 何が背中を押したのか、名前自身にもわからなかった。業務報告、経営会議、マーケティング戦略。明日は休みとは言え、帰ればまた仕事の山だ。それでも早く帰りたいと思う。優しい明かりが宿るおにぎり宮へ行き、包むような笑みを向けてくれる治の顔を見たいと願う。
 振り返ればホテルリガーレのクーポラが目に入る。イタリアのフィレンツェにあるドゥオーモを模しているというのを入社時に聞いたことを思い出した。

 ここはホテルリガーレ。人と人を結ぶ場所。非日常を体験できる、格式高い歴史あるホテルである。