夢見るボンボンショコラ

 例えば、バレーボールに魅了されたり。
 ルノワールの絵画、モーツァルトの音楽、ミケランジェロの彫刻にガウディの建築物。生きて行く中で心を奪われるものは人それぞれだと思うけれど、私の場合はショコラだった。
 学名テオブロマカカオ。ギリシャ語で「神々の食べ物」の意味を持つ植物。熱帯地域で育つカカオの木に実る種子。硬い皮の中に詰まったアーモンドサイズの豆が魔法の素材。
 たくさんの時間と人々の努力を重ねてショコラへと繋がるそれは、まさに神々の——いや、一度虜になったら抜け出せない「悪魔の食べ物」なのである。




 秋も深まる10月、私はシャルル・ド・ゴール空港に降り立った。数回目の訪仏ともなると市内まで向かうのもお手の物だ。東京よりも寒い外気に身震いしながらキャリーケースを半ば強引に押し、石畳の上を歩く。
 エッフェル塔。凱旋門。ノートルダム寺院。シャンゼリゼ通りにモンマルトルの丘。パリの街はどれほど時間があっても足りないくらい魅力に溢れている。だけど私には観光名所を巡るよりも、ひいてはホテルに向かうよりも先に足を運ぶ場所がある。

「天童さん!」
「あ、名前ちゃん久しぶり〜。無事に着いて良かった良かった」

 おしゃれなカフェやリストランテが並ぶ3区に佇む一軒のお店。かつてカフェだった店舗を居抜きした店内はチョコレートの芳しい香りが漂い、景観を演出するアンティークが並んでいる。
 洗練されたパリの街にも引けをとらぬ空間。日本人ショコラティエ天童覚が構えた店――LIONCEAUは、舌の肥えたパリジェンヌ達にも人気だともっぱらの噂だった。
 
「今年もまたよろしくお願いします」
「ハーイ。よろしく。今回はサロン・デュ・ショコラも取材するんでしょ?」
「はい! がっつりページ任されたのでしっかり取材に挑みます」
「アハハ。その意気込みイイネ」

 女性誌のライターとして働き始めて数年。念願のチョコレート特集の記事を担当させてもらえることになった今年、私は毎年パリで開催されるサロン・デュ・ショコラへ参加するため日本から遥々やってきた。
 天童さんは高校時代の先輩で、学生の時は交流なんて一切なかったけれど仕事を通じて知り合ってからはそういう縁もあって懇意にしてもらっている。ライターとしてはまだまだ勉強中である身の私がこうして天童さんへ取材出来るのも、天童さんの優しさ故なのである。

「とにかくパリに来たんだから天童さんのショコラ食べないと、と思って空港から真っ先に来ちゃいました」

 私の言葉に天童さんの口角がゆるく上がった気がした。

「俺も名前ちゃんに新作食べてもらいたいと思ってたんだよね」

 新作という響きに心が震える。はやる気持ちをどうにか抑え込んで、トレーにチョコレートを乗せる天童さんの所作をじっと見つめた。

「熱烈な視線で穴が開きそーなんだけど」
「えっ、すみません……!」
「ま、とりあえず、ハイどうぞ」

 トレーに乗せられた一口大のチョコレート。丁寧に差し出された小さな四角い塊を口に含む。その瞬間に広がるビターチョコの風味とほのかに残るオレンジピールの苦味。後を追うように広がった洋酒の豊かな香りとココアパウダーの甘さも絶妙なバランスを保っている。

「……美味しいです。美味しいです、すっごく! これ、去年よりコクが出てる感じします。もしかしてカカオの種類を変えたんですか?」
「さすが〜。産地とかブレンド比率を変えてみたんだけど、どお?」
「口の中でショコラがなめらかに溶けたと思ったらオレンジのフルーティーな香りが鼻から抜けていって、それを包み込むように雑味のないカカオが舌に残る感じがしました!」

 思わず感嘆の声が出る。見た目の美しさだけじゃない。味も完璧だ。
 私の答えを聞いて天童さんは満足気に笑うと、再びカウンターの中へ戻ってゆく。余韻に触れるように微かに残る味に思いを馳せる。もはや私はこの瞬間のために生きていると言っても過言ではない。

「名前ちゃんの幸せそうな顔見てるとさ」
「はい」
「こっちまで幸せな気分になるよね」

 そう言って微笑む天童さんを見て、私は胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚に陥った。
 私は一介のライターで、天童さんは世界的にも有名なショコラティエで、決して釣り合っていると言えない私たちがどうこうなるなんて思わないけれど、それでもチョコレートが繋いでくれるこの穏やかな時間がいつまでもいつまでも続いていけばいいのにと願わずにいられない。

「……だって、天童さんのショコラって本当に美味しいので食べるだけで最強になれる気がするんですもん」
「ハハハ、最強か。イイね、最高の誉め言葉」

 穏やかなパリの昼下がり、ショコラは今日も私を魅了する。

(21.03.04)