夢十夜 呪

 この世界のどこにももう七海さんはいないらしい。いや、いないってわかってる。世界どころか果てしない宇宙にだって七海さんはいないのだ。なのに私はいつものように呪いを祓うし、世界は変わらずに回り続けている。多分宇宙の理だってなんら変わらない。
 多分これが普通なのだ。呪術師にとっての。死ぬことも。独りであることも。いままでだってそうだったし、きっとこれからもそうだ。七海さんは何も遺さずにいなくなった。身体の半分は形も残らなかったのだから仕方がない。

 その日私は夢を見た。

 それは決して幽霊や幻覚なんかではなく、私が強く会いたいと願ったが故に現れた夢の一片なのだと思う。

(ああ、七海さんだ)

 月の光だけがカーテンの隙間から届こうと部屋の中は見渡せない。それでも朧に触れられるこの感覚はきっとその人であろうと確信した。
 夢と現の境目が一層不確かになって、ただこの刹那に生まれた感情だけが私を形どっていた。

「すみません、起こしてしまいましたか」

 いいえ。言葉を紡ごうにも上手く口が動かせない。首をゆるく振ることさえひどく億劫で私はかろうじて瞼を上げるのが精一杯だった。見渡せない部屋で感覚をどうにか研ぎ澄ませて朧気なその人を全身で感じようとする。

「すみません」

 七海さんはもう1度謝った。
 やめてください。謝らないでください。七海さんは何も悪いことなんてしていないじゃないですか。言葉の代わりに溢れたのは涙で、ゆっくりと目尻を伝ったそれは枕を濡らす。やけに静寂な夜。今、世界は七海さんだけの為に存在すればいいのにと願うしかない。

「さようなら、名字さん」

 温かい何かが私の頭に触れた気がした。それはまるで春先の穏やかな日差しのような。

(まだ行かないでよ七海さん)

 七海さん。七海さん。こんな風に優しく私に触れてくれる人なんてやっぱり世界中どこを探しても七海さんしかいないと思うんです。
 なんで世界一優しい貴方がいなくならなくちゃいけなかったんですか。なんで他の人じゃだめだったんですか。知ってますか。七海さんのいない世界って温度が下がったみたいに寂しいんですよ。
 七海さんは優しいからきっとこれから先も私の気持ちを受け取ってくれることはなかっただろうけど、それでも私、声が枯れても言いますから。好きですって大好きですって叫びますから。だからまた呆れたように笑ってくださいよ。

(そっか。もう伝えることすら出来ないのか)

 さようならと言った七海さんの声が頭の中で木霊する。忘れまいとするようにその声を強く響かせても、七海さんはもう私の名前を呼んでくれることはない。
 これは夢だ。死んだ七海さんに会いたいと願う私が作り出した夢。濡れた枕も消えゆく七海さんも月の光も、何も聞こえない夜の静寂さえも。
 いつか、私は忘れてしまうのだろうか。私が好きだと思った七海さんの全てを。優しいところ。聡明なところ、最後まで手を抜かないところ。切り替えが上手いところ。思慮深いところ。忖度がないところ。笑った顔。困った顔。鼻筋。唇の形。体格。手のひら。
 雨が強く打ち付ける窓の景色みたいに歪んで朧になって、いつか七海さんの声も思い出せなくなる日が来てしまうんだろうか。

(私は最期まで七海さんを好きでいたいよ)

 夜が深まるのか明けるのかさえわからない暗闇の中で私はただ、もう会えない七海さんの事だけを想っていた。

(21.03.13)
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